『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

ラプソディ・イン・国立。雨上がりの夜空に・・・近くにいた忌野清志郎

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 ラプソディとは、狂詩曲のことをいうが、語源は古代ギリシャの吟遊詩人達の即興詩。おもにホメロス叙事詩の断章であるrhapsōǐdiaに由来する。「ラプソディ・イン・国立」は、もちろん故忌野清志郎率いるRCサクセションの1980年のアルバム『RHAPSODY』(ラプソディー)に因むもので、「忌野清志郎 雨あがりの夜空に 」は、その中の代表的な曲のひとつ。「こんな夜にお前に乗れないなんて、こんな夜に発射できないなんて」というエロチックな比喩の歌詞は、夕立の後に草いきれの立つ国立の夏の夜を想いださせる。彼の歌にある「多摩蘭坂」の坂下を彼女と横切って歩いた夏の夜。サルビアの赤い花が、月明かりに映えていた。
「お月さまのぞいてる 君の口に似てる キスしておくれよ窓から」
原発いらねえと、天国でも歌っているだろう・・。

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 76年の春に、私は国立へ引っ越した。理由は、3年になって課題が忙しくなるため「ピーター・キャット」のアルバイトを止めた事。国立の街が気に入って前から住みたいと思っていたこと。大学へ電車ではなく高校時代の様に自転車で通いたいと思った事。自転車は自由だからね。子供の頃、初めて自転車に乗れる様になって一気に行動半径が広がった喜びは、いつになっても忘れないものだ。もっとも、そのために日帰りで帰れない所まで行ってしまい、這う這うの体で知人や親戚の家に泊めてもらったことが何度かあった。
 そして、もうひとつ、当時つきあっていた彼女の家が借りたアパートから徒歩で行ける距離にあったこと。 これが一番大きかったかな。アパートから駅に向かうと、都営第十住宅の先で急坂を下る。国分寺崖線坂上からは、まだ高いビルがなかったので、国立の街と多摩の山々のスカイライン、天気が良ければ富士山が見えた。坂上には5月になるとマーガレットの花がたくさん咲いた。
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 上の地図は、76年当時の国立。右の青丸は、私が借りていたアパートの場所だが、今はない。両側に外階段の付いた各階二部屋ある二階建てのモルタルアパートで、6畳間に2畳ほどの板の間の台所とトイレがあった。隣は確か多摩美の学生で、階下は若いホステスのお姉さんが住んでいた。左の青丸は、友人が住んでいた米軍ハウスがあったと思われる場所と思ったが、彼がいたのは立川市羽衣町なので、もう少し西の様だ。「キャンディ・ポット」は、『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で書いた吉田君がやっているジャズ喫茶。以前は国立の旭通りだったが、現在は富士見通りの金水ビル地下1階に移転したそうだ。他に当時つけたと思われる赤鉛筆で書いた赤丸があるが、これがよく思い出せない。たぶん友人が住んでいたアパートの場所だと思うのだが・・。
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 地図を見るとよく分かるが、南北に延びる大学通りを中央に、東(右)の旭通りが大学通りから45度の角度で、西(左)の富士見通りが60度の角度で、それぞれ南へ伸びている。ちょうど三角定規の二枚を置いた様な街なのだ。多分、都市開発した設計者が、三角定規を置いて線を引いたのだろう。その他の道も碁盤の目に走り、ひと目で都市計画がされた街だと分かる。昔の街道や畑道がそのまま残る隣接の街とは全く違う。そして、旭通りと富士見通りの角度が違うため、街はシンメトリーではない。
 では、なぜシンメトリーではないか。日本人は シンメトリーを嫌うのだ。中国を模した平城京平安京も、微妙に崩してある。旧国立駅だって奇麗な三角形ではなく、右側が途中で縦に切られていた。左右対称は、最も合理的な様式美であり、古代エジプト古代ギリシャ古代ローマに、その完成が見られる。ルネッサンスに復活するが、やがて解剖学に基づいたマニエリスムへと変化する。しかし、現在でもシンメトリーを好む傾向は根強く見られる。
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 では、なぜ日本人は古代よりシンメトリーを嫌うのか。これについて明確な答えはない。荒唐無稽な推論だが、古代日本人は中国大陸で敗残した末裔が渡来して縄文人と交わり、弥生時代大和王権を造ったといわれる。春秋戦国時代に滅びた呉・越の渡来人。日本各地に残る「徐福伝説」。 百済伽耶の滅亡と大和王権。ひょっとしたら空白の4世紀に、そのヒントがあるかもしれない。中国も半島もシンメトリーの世界である。左右否対称、アシンメトリーは、そんな祖国を捨てて来た敗残者のトラウマが生み出したのではないだろうか。
 シンメトリーは、単調だが安定的で永遠を感じさせる完成形。対してアシンメトリーは、アンバランス。非常に不安定な上に成り立つバランスで、一歩間違うと崩壊する危険性を孕(はら)む。わざわざ不安定な形態を選ぶというのは、普通の精神状態とはいえない。その上に、10年に一度の災害、100年に一度の大災害、1000年に一度の超大災害に見舞われる日本である。「無常」という観念もそういう根源と風土の中で培われて来たのではないだろうか。アシンメトリーの歴史を繙(ひもと)くと、日本人の本質が見えて来るかもしれ ない。
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 気がついた人もいるだろうが、私は国立に引っ越したが、国分寺市民のままだった。近くには、「好きよキャプテン」がヒットした双子のザ・リリーズ渡辺プロダクションの寮に住んでいて、セーラー服で出かけるのをよく見かけた。私が去った年に「まちぶせ」がヒットした石川ひとみが入寮したらしい。その寮も今はない。


 国立の芸能人といえば、「異邦人」(1979)の久保田早紀だろう。私が居た頃は、まだ女子高生で、八王子の共立女子高校に通っていたはずだ。超絶美少女だった彼女は、無名の当時から国立では知られていた。本当に美 しい人だったけれど、私はちょっとハスキーな彼女の声が好きで、30歳過ぎたらジャズを歌ってくれないかなと思っていたものだ。だが、少しでも芸能界にかかわり、中身を見た人なら分かるだろうが、所詮虚構と妄想の世界。伏魔殿だ。アイドルは元々アメリカが自国民に対して行った愚民化政策を、戦後日本に適用したものだから。
 そうは言っても、私自身アイドルの仕事もたくさんしたので、歌うことやダンスが好きで一生懸命精進する女の子達は応援したいのです。ハロプロとかさくら学院とかBABYMETALとか。

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 引っ越してすぐに私は、アロートレーディングの コースター・ブレーキの白い自転車を買った。この自転車にはハンドルにブレーキがなかった。ペダルを逆回転すると止まるフット・ブレーキなのである。西荻窪の店まで買いに行き、国分寺まで乗って帰った。私が買った初代の白いアロー号は、前ブレーキさえなかった。よって、ある時国分寺駅前の交番で警官に呼び止められ、「ブレーキのない自転車に乗っちゃいかん!」と怒られた。「ブレーキのない自転車なんて怖くて乗れないでしょう。かくかくしかじか」と説明するとえらく驚かれた。
 その後、谷保の交番でも呼び止められて、また説明する羽目になった。しかし、フット・ブレーキにはすぐ慣れるし、非常によく止まる。オランダなどでは相当普及しているようだが、なぜ日本のメーカーは普及させなかったのだろう。
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 大学へは戸倉橋一本西の陸橋を渡り、清志郎の母校・国分寺市立第二小の横を駆け抜け、高木通りに出たら右折して四つ目の道をひたすら北上すると玉川上水に出る。橋を渡って朝鮮大学のガウガウ吠えるドーベルマンに金網越しに追い掛けられながら大学へと向かうのが日課だった。その最短距離のルートを調べるために買ったのが添付の地図である。当時は今より住宅が少なく、畑の中を抜ける快適な通学路だった。
 その後、アロー号は南麻布のマンションへも持って行き、 青山の事務所への通勤や、六本木へ遊びに行く時に大活躍した。同居の友人も乗っていたが、自転車で六本木のディスコやパブに遊びに行っていたというのは珍しかったかもしれない。結局アロー号は、南米アマゾンへ旅する体力をつけるため、新発売のプジョーのPF10Jというクロモリのロードレーサーを買った時に手放した。そのロードレーサーは非常に大切に乗り、なんと25年後高校のトライアスロン部に入った長男も乗った。現在はちょっと故障して倉庫に眠っている。もう部品を作っていた会社がないのであるが、息子になんとか直してくれと頼んである。(その後なんとか直った。いずれ私の元に戻るはず)
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 正確な場所は忘れたが大学へ通う途中の辺り、恋ケ窪のどこかだったかに「イエスの方舟」があった。たぶん米軍ハウスだったと思う。「イエスの方舟事件」 として、馬鹿なマスコミのバッシングに遭ったが、当時私は、これはカルト集団でもなんでもなく、カート・ヴォネガットが『スラップ・スティック』の中で書いていた「人工的拡大家族」ではないかと思った。機能不全家族に育った女性達が、救いを求めて集まったのではないかと。結局、冷静でまともな取材を続けた鳥越俊一氏の「サンデー毎日」だけが真実を伝え、集団妄想と化した誤解が解けた。『スラップ・スティック』は、私達の間で非常に流行ったが、カート・ヴォネ ガットを教えてくれたのは、もちろん春樹さんである。
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 国立は、街のど真ん中に広大な一橋大学の敷地がある、東京で最初に文教地区に指定された街である。だからパチンコ店も風俗もない。そういうのが好きな人は、そういうものがある街に住むか行けばいいわけである。ただ、国立は大正時代末期に箱根土地株式会社(国土計画の前身)が、谷保村の山林を買い取って国立音楽大学と駅を新設し、続いて商科大学(現在の一橋大学)を誘致したという完全に人工的に造られた街だ。国立という名も、国分寺と立川の頭文字を合わせただけのものである。「くにたち」ではなく「こくりつ」と読まれてしまうのも仕方が無い面もある。イギリスの地方都市の様な趣がある美しい街だが、どこか整形美人の様な側面があるのも確かだ。
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 でも、国立の街は好きだった。私は夜になるとシーンという静寂の音が聞こえる様な田舎で育ったので、騒音は苦手だ。呼吸器が敏感なので空気が悪い所もだめだ。国立は静かで時もゆったりと流れているような気がした。大学通りの木漏れ日の下を、谷保を抜けて多摩川までよくサイクリングをした。夏は友人と隣の矢川のし尿処理施設の隣にあった清化園プールに泳ぎに行った。ここの水は井戸水だったので真夏でも冷たく、長く入っていると唇が紫色になった。よくしたもので、焼きそば、かき氷の他に、真夏なのにおでん屋があって、よく食べたものだ。現在は温泉施設になったようだ。
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空が広かった70年代の国立


 写真は、76年の春の国立。駅から南へ大学通りを1キロほど南下した桐朋学園と国立高校の間に架かる歩道橋の上から撮影したものである。桜が満開なので 4月上旬だろう。現在の様に車道と自転車道の間に植木鉢はなく、違法駐車もし放題だった。取り締まりもそう厳しくなかったのは交通量がまだ多くなかったからだろうか。一輪車を押す作業員といい、犬を連れた自転車の人といい、長閑な光景である。国立駅の背後にも高層ビルがなく、駅舎の三角が美しいシルエットを作っている。
 桜並木は美しいが、若葉の季節は毛虫が発生するのが難点かな。これは国立ではなく、ずっと後の仙川での話だが、畑道を抜け、桐朋学園の桜並木の下を通って通勤していたある日、電車に乗ったら前に立っていた美しい女性が、突然ティッシュを取り出して私の麻のジャケットの肩からなにかを摘んで取った。へ?と思っているとニコッと微笑んで見せてくれたのは小さな青虫だった。彼女はそれを丸めてバックに仕舞った。いやぁ、一瞬で恋に堕ちたが既に既婚だったのでどうにもならなかった。虫嫌いの女性が多いのに、絹布のような白く美しい肌の美人だったので、彼女の前世は蚕かいと思った。
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 虫ではなく鳥の糞と美人の話。学生時代のことだが、帰省のために特急あさまに乗った。四人掛けの席には、向かいに少し年上の社会人の美しい女性が座った。他の席は空いていた。彼女は藤の小さなバスケットを持って乗って来た。しばらくすると、彼女は蓋を開けて文鳥を取り出した。文鳥はよく慣れているようで、彼女の周りを跳ねていた。ところが、何を思ったか私の所へ飛びついて来た。しかもだ、事もあろうに私の股に糞をして彼女の所へ戻って行ったのである。すると彼女は手で口を押さえてククッと小さく笑った後でティッシュを取り出し、そのうんこ、いや糞を取り除いてくれた。いやぁ、一瞬で恋に堕ちたが既に彼女がいたのでどうにもならなかった。彼女の前世は鶴か。鶴の恩返し。
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 整然と造られた国立の街だが、碁盤の目の街は、対角線に動こうと思うと最短距離では行けないもどかしさがある。では国立市ではない、国立の私のアパート から国分寺の「ピーター・キャット」まで最短で行こうとすると、線路沿いに行けばいいということになるのだが、そうは問屋が卸さない。西国分寺辺りで道が グダグダになるのである。
 地図を見ると分かるが、恋ケ窪辺りまで、道が斜めで細長い長方形を形作っている。武蔵境辺りは南北だが、武蔵野市になると見事に傾いている。これは、街道や用水に対して直角に畑地や水田を振り分けたからである。特に飲料水の用水路を最短で結ぶために、短冊地形が取り入れられたとい う(参考資料:小平周辺の新田開発)。それに比べると、国分寺市三鷹市調布市、世田谷区を流れる暴れ川といわれた蛇行する野川沿いの道は、見事にグダグダである。
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 玉川上水は、 増大する江戸の人口を支えるために造られた水道である。昔は太宰治が入水自殺したほど水量が豊富だった。江戸の民の命の水であったため、洗い物、漁撈、水浴び、塵埃の投棄などはご法度とされ、厳重に取り締まられていた。また水路の両側幅三間は保護地帯とし、樹木の伐採だけでなく下草刈りさえも厳禁であったという。
 最初は、国立の青柳から工事を始めたが、府中の八幡宮下辺りで流れなくなり失敗。その後福生から引いたが、関東ローム層の水喰土にぶつかり失敗。 三度目にやっと成功を見た。辛苦の末に江戸まで命の水を引いた玉川兄弟初め先人達が、放射能汚染された多摩川や用水を知ったらなんと思うだろうか。
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 国立で水といえば、谷保天満宮の境内にある常磐の清水だろう。天満宮だから菅原道真が祀られている。よって受験生の参拝が多い。ここも自転車でよく行った。真夏、蝉時雨が降る午後に訪れると、暑さを忘れる佇まいがそこにはあった。谷保の崖線(がいせん)は、国分寺ではハケというが、谷保ではママと いう。もちろんパパママのママではない。儘、墹、真間等と表記される崖のことである。谷保ではママ下湧水といって崖線のあちこちから湧き出している。それらが集まり小川となる。当時は現在の様に住宅は多くなく、崖線の小径を下ると、一面緑の水田が広がっていた。地元の子供達が小川で遊んでいた。それは、吉田拓郎の「夏休み」を口ずさみたくなる、ちょっと切ない懐かしい光景だった。そんな光景は、今も見られるのだろうか……。
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※参考サイト:玉川上水散策地図玉川上水
タチオンWalking-谷保天満宮・城山・ママ下湧き水公園(国立市
菅原道真自作の木像がある信州千曲市の岡地天満宮についての私のブログ記事
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 今日はここまで。次回は、国立の通りや店について。国分寺とは、またひと味違う面白い店がたくさんあった。ロジーナ茶房、ナジャ、邪宗門、プレンティしもん、レモンの木、みみずく茶房、蛇の目寿司等々。