「ピーター・キャット」のアルバイトは、二日おきか三日おきに入れていた。基本は夜で、7時から深夜1時半か2時まで。昼の時は、12時に入って7時までだった。カウンターに入ると立ちっぱなしなので結構疲れるが、若かったので特に辛かったという記憶はない。当時は長髪だったけれど、やはり飲食関係のバイトだったので、確か肩まであった髪を切って、当時流行り始めていたウルフカットにした。尚かつ清潔が大事と、当番の日は銭湯に行くようにした。さすがにジャズ喫茶に制服はなかったが、焦げ茶色のエプロンをした。
『Jazz』1975年5月特別増大号より |
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昼のバイトは、サンドウィッチの仕込みが大変だったが、後はコーヒーや紅茶を入れるだけだったので比較的楽だったように記憶している。夜7時からのバイ トはアルコールが中心なので、店内はたいていいつも賑やかだった。同じ大学の友人や知人も大勢来たし、武蔵美以外にも、多摩美、一橋大、津田塾大、東経大、農工大、学芸大などの学生が来た。農工大畜産の学生等は、今日は牛の膣に腕を突っ込んでどうたらこうたらと、非常に面白い話をしてくれたこともあった。春樹さん達と色々質問攻めにした。やはり専門課程の話は面白い。森林学科に行っていた息子の話も面白い。彼は卒論で日本で一番古い湿原の古代の花粉の研究をした。そのボーリング調査には私も参加したが、尾瀬が9000年に対して、その逆谷地湿原はなんと10万年という。また、私は古代科野国の研究をしているが、初代科野国造(クニノミヤツコ)の武五百建命(タケイオタツノミコト)とか話し始めると、たいていの人は目を開けたまま気絶してしまう。面白いんだがなあ(笑)。古代史や戦国時代に興味がある人はこちらを。最近は歴女も多いので、妻女山や斎場山で案内することもある。
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そんなある非番の夕方のことだった。アルバイトと課題で疲労がたまっていたのだろう。夕食を食べてうつらうつらとしていた。そこへ突然のノック。ドアを開けると……。実はその時、誰が来たのか正確に思い出せない。春樹さんはカウンターに入っていたので違うと思う。陽子さんか、早番のKか。ウェイトレスの女の子か。たぶん陽子さんだったと思うのだが。用件は、遅番のYが来ないというのだ。店は大賑わいでてんてこ舞い。カウンターに入ってくれないか、というものだった。私のアパートが店の数十メートル先なので白羽の矢が立ったのだろう。
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疲れてはいたが、明日提出という課題やレポートもなかったので、分かりましたと言って冷たい水で顔を荒い、目を覚まして店に向かった。店に入るとほぼ満席だったと記憶する。カウンター内では春樹さんがひとりで孤軍奮闘していた。私はエプロンをしながらカウンターに入り、早速サンドウィッチ作りやつまみの用意をした。そんなこんなで、なんとか忙しい夜を乗り越えた。たぶん後で、Yには陽子さんがきっちり説教をしたと思うのだが、その顛末までは覚えていない。恐らく課題に詰まってパニックになっていたか、彼女と遊んでうっかりバイトの日である事を忘れていたのだろう。そういう私も、きつい課題とバイトの入れ過ぎとで過労からインフルエンザにかかってしまい、店のバイトを休んだことがある。
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その時は、「ピーター・キャット」で私が寝込んでいると聞きつけたバイトのKが、私と同じ専攻の彼女を連れて来た。編み上げブーツを脱いだり履いたりする度に5分かかるとKが笑っていたが、その彼女が卵酒を作ってくれて、私に無理矢理飲ませて帰って行った。これはまあ有難かったが、見舞いに来た別の友人は、ストーブをガンガン焚いてるから40度もあるんじゃないのと軽口をたたいて帰って行き、店でもその話をしたらしく、後で散々からかわれた。まあ、インフルエンザは、B.C.412年に「ある日突然に多数の住民が高熱を出し、震えがきて咳がさかんになった。たちまち村中にこの不思議な病が拡がり、住民たちは脅えたが、あっという間に去っていった。」という、まさにインフルエンザを示唆するヒポクラテスの記録がみられるように古代から人類を苦しめたものであるし、日本では『日本三代実録』に「(862年)1月自去冬末、京城及畿内外、多患、咳逆、死者甚衆……」とある。死ななかっただけよしとしよう。
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お客にも色々な人がいた。国立に「シモン」と「プレンティ・シモン」という喫茶店ができた。国立でデートをする時は、決まって大学通の二階にある「プレンティ・シモン」に行った。所謂ジャズ喫茶ではないけれど、BGMにはジャズが流れていた記憶がある。ガラス張りの明るい店内からは、大学通の桜並木が見えた。ある日、その社長が社員を引き連れて店を訪れた。よりによって彼はアイスティーを注文した。喫茶店で働いたことがある人は分かるだろうけど、アイスティーは結構難しい。クリームダウンという紅茶が白く濁る現象が起き易いのだ。一回目は失敗した。あちゃ〜っ!と悔しがっていると陽子さんが可哀想といって笑った (そこ笑うとこか?と思ったが)。冷汗が出たが、三回目ぐらいににようやっと成功した。やれやれの夜だった。
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茶葉に含まれるカテキンとタンニンが結合し結晶化する現象なのだそうだ。コツはタンニンの少ないアールグレイなどの茶葉を選ぶことと、急冷すること。しかし、分かっていても失敗する時は失敗するのです。やれば分かる。完璧に透明なアイスティーを作る事がどんなに難しいか。たいていの喫茶店は、半分濁った様なアイスティーを出してくるだろう。ほとんどの客は何も気づかずに飲んでいるはず。
シモンの社長は、「ピーター・キャット」のフローティング・キャンドルを取り入れたり、いいものは全部取り入れる感じで、吉祥寺、原宿、渋谷と店舗を広げて行った。アルバイトも可愛い子が多かった。「ピーター・キャット」では、そんな辣腕の彼のことを国立の糸山英太郎と呼んでいた。だが、彼女との想い出が詰まった懐かしいその店も、今はもうない。
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「キャット」の仕事に入る前は、まず夕食を食べてから銭湯に行くのが決まりだった。食事はたいていすぐ近くの定食屋「あかぎ」か近所の中華食堂だった。私は野菜が好きなので、いつも野菜たっぷりのメニューを選んだが、それでも外食は野菜不足になる。そんな時は、例の雪合戦の親爺のいる八百屋で買って来ては 野菜炒めを作って食べたものだ。実家が農家だったので、私は野菜には煩い。息子達も信州から送られて来る野菜と、近所の無農薬の無人販売の野菜で育ったので煩い。ある時、信州から送られて来た伝統野菜の丸ナスを、なにかのお礼で友人にあげたら、その家のナス嫌いの子供が、僕このナスなら食べられると言って喜んで食べたそうだ。その時、野菜嫌いのその子は実は、本当の野菜の味が分かるのではないかと思ったものだ。
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息子達が小さい頃、隣に「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のジャッキー吉川さんが住んでいた。最初引っ越して来た時、ずいぶん似ている人がいるもの だなあと思っていた。ある夜、懐かしのグループサウンズの番組を観ていた息子達が、突然「あっ、隣のおじちゃんだ!」と言った。えっ!?と思って翌朝だったか「ひょっとしてジャッキー吉川さんですか?」と聞いたら「あっ、ばれちゃった?」と。それからおつき合いさせていただいた。息子達は可愛がってもらった。ある時、信州から送って来た大きな固定種のホウレン草を差し上げたら、「美味しくて甘くて、よく洗って根っこまで食べちゃったよ。」と言われた。お礼に昔ながらの製法の本造り塩鮭をい頂いた。やはり山歩きが好きで、一緒に登りたいねと言っていたのだが、果たせなかったのが残念である。
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市販の野菜のほとんどはF1種(自殺種)だ。栄養も1/2か1/3しかない。カスを食べているようなものだ。固定種は歩留まりが悪く形も不揃いだが旨い し栄養もある。そして、F1種の行き着く先は、危険極まりない遺伝子組み換え作物である。TPPに入れば、伝統野菜は消えてしまうだろう。それは、郷土料理の消滅、日本の食文化の消滅を意味する。都会の多くの人は、そんなことも知らずグルメに興じている。野菜ソムリエなど片腹痛い。アルバイトの話が野菜の話になってしまったが、実は私が最初にしたアルバイトが、中学生の時の玉葱採りだった。毎日、ひたすら玉葱を抜きまくった。
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このブログを始めて思うのだが、記憶というのは系統的に連続して脳に収納されているわけではなく、断片的にバラバラにある。しかも、思い込みというのが あって、自分に印象的な(都合の良いとは限らない)記憶が増幅される傾向にある。私の場合は楽天的なので、相当自覚しないと皆いい想い出になってしまうのだが、人によっては自覚できないトラウマによって(この言い方は変だ。自覚できないのがトラウマだから)、全てを悲劇的な想い出にしてしまう人もいる。記憶の断片を探る作業というのは、春樹さんがいう心の地下室に下りて行く作業だ。これに関しては、個人的に非常に関心を持たざるを得ない状況に追い込まれた事もあったし、勉強もしたので、いずれ書いてみようと思う。人を最もトラウマに陥れるものは、戦争だ。戦争が破壊するのは、街や自然だけではない。人の心を永きに渡って破壊する。戦国時代の農民の言葉に「七度の飢饉より一度の戦」という言葉がある。
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今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」でリクエストの多かった、女性ジャズボーカルについて。「ピーター・キャット」に行った事があるとか、働いていたとか、演奏したぞとか、当時の国分寺や国立情報とか、当時のムサビや近隣大学の情報等、お気軽にコメントをください。