『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

2015-09-01から1ヶ月間の記事一覧

ある大雪の日の春樹さん一時行方不明事件

「ピーター・キャット」で冬にリクエストが多かったアルバムで記憶にあるのは、デューク・ジョーダンの「フライト・トゥー・デンマーク」。真っ白な雪景色の森の小径にたたずむデューク・ジョーダンのジャケットが印象的。特にA面最初の「危険な関係のブルー…

村上春樹さんチョイスのバンドで「ピーター・キャット」ライブ演奏の熱い夜

「ピーター・キャット」では、ほぼ毎月二回、日曜日の夜にライブ演奏を行っていた。出演のあるジャズマンによく言われた言葉がある。10枚のアルバム買う金があったら、半分はライブに使った方がいいと。俺たちのライブに来て!というのもあるが、それを置…

人生は、ジャズと酒とバラの日々。村上春樹さんが教えてくれたカクテルあれこれ

「ピーター・キャット」のお酒は、ビールはキリンのラガーだった。キリンだから、輸入ビールはバドワイザー、ハイネケン、ギネスなども置いていたと思うが、確かな記憶がない。ウィスキーは、開店の74年発売のロバート・ブラウン。 オン・ザ・ロックや水割…

わが家の定番となった「ピーター・キャット」村上春樹さん夫妻考案のサンドウィッチあれこれ

「ピーター・キャット」では、村上春樹さん夫妻が考案したサンドウィッチを出していた。全部で7、8種類ほどあって、昼を任された時は、仕込みが結構大変だった。そのうちのいくつかは、わが家の定番となった。私が元妻に教えたのである。息子達は最近まで…

ももクロでもハチクロでもないが、私の美大生時代はスラップスティック。まだベトナム戦争中、基地もあった

『ハチミツとクローバー』 というアニメとドラマがある。通称『ハチクロ』という。なんでも武蔵野美術大学がモデルらしい。評判になったので、立ち読みしたり、ドラマも少しは観たことがある。映画の予告も結構流れていたので一応知っている。ちゃんと観たら…

70年代は、ニューシネマ。そして私はシネマフリークになった

「ピーター・キャット」のバイトをしている時も、忙しい中よく映画を観に行った。当時、デートといえば映画を観に行くことではなかったかな。もちろ ん一人でも男友達とも行ったが。よく行ったのは、渋谷の全線座。いわゆる二番館である。300円で2本立て…

70年代は、オーディオブーム。そのために必死で「ピーター・キャット」等のバイトをした日々

「ピーター・キャット」のオーディオ・システムは、プレイヤーが、デンオンDP3000。カートリッジが、シュアーV15III。プリメインアンプ が、サンスイAU6600。スピーカーが、JBL・L88プラスだった。JBLのスピーカーは、最高級のパラゴンが吉祥寺のジャ…

70年代、雑誌が作ったアメリカブーム みんなアメリカが好きだった・・わけではない

「ピーター・キャット」には漫画は置いてあったけれど、決まった雑誌は置いていなかったと思う。ジャズの『スイングジャーナル』や『JAZZ』は、春樹さんが持って来てあったかもしれない。70年代というのは、雑誌文化が一気に花開いた時代だった。それまで…

村上春樹夫妻も驚いたチーズの赤いロウ事件「ピーター・キャット」おつまみ編

「ピーター・キャット」のおつまみは、ナッツ類の乾きものから、チーズ、オイルサーディンの缶詰、トマトサラダ、レーズンバターなどに、軽食のサンドウィッチが何種類か。夜は、それに加えて陽子さんが作って来る肉じゃが等のちょっとした日替わりメニュー…

「ピーター・キャット」を出て国分寺の街を歩けば・・その2

「ピーター・キャット」を出て、丸山通りの坂道を登る。殿ケ谷戸公園横の坂道を登る。ある日のこと、坂道を登っていると、拡声器で名前を呼ばれた。「○○ 君、キリキリ歩きませい! ○×△□×◇!(喜劇新思想体系のセリフ)」と、国分寺中に聞こえる様な大きな音…

「ピーター・キャット」を出て国分寺の街を歩けば・・その1

「ピーター・キャット」を出て北口へ行こうとすると、東へ100mほど歩いてから、南町二丁目の交差点を左折し、国分寺街道を北へ。JR(当時は国鉄)の ガードをくぐって左手の石段を上り、ビジネス千成ホテルの脇の小路を抜けて大学通りへ出るしかない。その頃…

村上春樹さんが絶対にかけちゃだめと言ったアルバム

「ピーター・キャット」でかけてはいけないLPというか、演奏家というのがあった。これは純粋に春樹さんの好みであって、たとえ常連さんが、これいいよと 持って来ても、かけられないものはかけられないわけだ。当時の雑誌の取材でも答えているように、キース…

国分寺「ピーター・キャット」のインテリアを描いてみた

国分寺「ピーター・キャット」の店内を描いてみようと思い立ったが、まともな資料がないことに気がついた。写真がない。なぜ撮らなかったかわからない が、ない。営業中はフラッシュをたくわけにいかないというのもある。私は当時、発売されたばかりのオリン…

「ピーター・キャット」でバイトをした武蔵美の三人組

前々回の記事で書いた様に、そんなわけで私たち三人組(写真・74年初夏のキャンパスで)は、「ピーター・キャット」でアルバイトを始めた。実家に出した手紙の中に、17日間の実際のカレンダーを表記したものがあった。面白いのでスキャニングしてみた。一年…

「SINCE I FELL FOR YOU 」で終わるピーター・キャットの一日

スタンリー・タレンタインとザ・スリーサウンズのアルバム『ブルー・アワー』のB面の最初の曲は、「SINCE I FELL FOR YOU 」だが、この曲は、ジャズ喫茶「ピーター・キャット」のエンディングテーマだった。豪放なテナー奏者としてしられるスタンリー・タレ…

1974年のピータ・キャット 村上春樹さんとの出合い

私が最初に村上夫妻を見たのは、1974年の春のことだった。夫妻は国分寺駅の南口で、開店したばかりの「ピータ・キャット」のマッチを配っていた。 マッチの表には、ルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫とpeter-catのロゴが白字に墨で…

国分寺・国立70Sグラフィティ【村上春樹さんの国分寺ピーター・キャット】

私は信州の高校を卒業して上京し、以後38年の東京暮らしをした。美大に入って最初に住み始めた街が国分寺。次に住んだ街が国立だった。あの頃、カウンターカルチャーのメッカとして、国分寺は若者の活気で溢れていた。そして、私は大学に通いながら、後に…