『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

「ピーター・キャット」を出て国分寺の街を歩けば・・その2

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「ピーター・キャット」を出て、丸山通りの坂道を登る。殿ケ谷戸公園横の坂道を登る。ある日のこと、坂道を登っていると、拡声器で名前を呼ばれた。「○○ 君、キリキリ歩きませい! ○×△□×◇!(喜劇新思想体系のセリフ)」と、国分寺中に聞こえる様な大きな音量で。歩いている人は、皆一斉に音源、ついで彼が拡声器を向けている私を見る。何だ!?と思って見ると、ちり紙交換の軽トラの窓から、「船問屋」のマスターが、拡声器を持って喚いている。確かその時は、まだ左翼系の書店で、 しょっちゅう公安警察が踏み込んでいた。その後、家族を呼び寄せて家庭料理の飯屋を開いた。「ピーター・キャット」では、小柄でほっぺたの膨らんだ彼のことを、こまわり君と呼んでいた。「ピーター・キャット」には、山上たつひこの『喜劇新思想体系』が全巻あった。それが、村上文学の基礎になっているとは、とても思えないが、 耳あかの欠片ぐらいにはなっているかもしれない。
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 坂を上り、例の国分寺書店の前を過ぎて駅前広場を抜けて多喜窪通りに入る。竜の子プロ(といえば『宇宙エース』『マッハGoGoGo』『みなしごハッ チ』『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』)の看板のあるビルを過ぎて急な坂を下りると、泉町一丁目交差点手前左手に「ピッコロ」という山小屋風の食堂が崖にせり出してあった。 ちょっと山本直純に似たマスターは、芸術家(画家だったかな)で、学生が夏休みになると店を閉めて、二ヶ月近くヨーロッパへ出かけてしまう人だった。フラ イパンで焼いた脂っこい鯖定食には、コロッケ付きとウィンナーソーセージ付きとがあった気がする。A定食、B定食と言ったかな。ケチャップで和えたスパ ゲッティとキャベツの千切りだったか、ステンレスの皿に乗って出て来た。カウンターには、ニンニクの醤油漬けが置いてあって、課題制作で徹夜なんて夜に は、これをご飯にたくさん乗せて食べたものだ。
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 その斜め前には、春樹さんおすすめのお好み焼きと関西うどんの「まねき」があった。関西出身の春樹さんは、東京の真っ黒なうどんが苦手な様だった。アル バイトのKと私は、ふたりで「うどん愛好会」というのを作っていた。会則はひとつだけ。「一日一回うどんを食べる」というもの。その中でもここのうどんは二人のお気に入りだった。店はカウンターだけだったかな。おじいさんとおばあさんがやっていて、ビクターのマークにそっくりな大人しい犬が、いつも足下にいた。店というより、おばあちゃんちの台所で食べているというような感じだった。
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 うどんと言えば、北口の武蔵美へ行くバス乗り場、国分寺車庫への途中に、やたらカウンターの長い立ち食いうどん屋があって、通学の途中によく利用した。 お気に入りはコロッケうどんだった。もちろん東京風の真っ黒い汁だった。知り合いがよく通る道なので、不用意に食べていると、いきなり後ろから浣腸されることもあった。友達は選ばないといけない。大学には鷹の台ホールという小洒落たレストランと、今はないようだが、バラックの食堂があった。絵の具や染料で 汚れた作業着(白衣やつなぎ)の時は、もっぱら後者だったが、かき揚げうどんが旨かった。学食や隣の朝鮮大学前のラーメン屋の話はいずれ詳しく書こう。
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 その多喜窪通りに、店が全て閉まった頃に開くラーメン屋台がいつの間にかあった。ある晩、ラーメンを食べながら店主に、なんでこんな寂しい所でやるの。 駅前でやればいいのにと言ったら、あそこはヤクザが煩くてねと言った。なんでも経営していた小さな会社がオイルショックで潰れて屋台を始めたのだそうだ。 その屋台には、「ピーター・キャット」のバイトの後で友人の所へ行く前に何度か立ち寄ったものだ。
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 南口駅前には、隷書体のような文字で店名が読めない中華料理屋が あった。ここも何度も行った。あんかけが好きだったので、広東麺と中華丼をよく食べた。なんという店名だったのだろう。通りの向かいはダイワホテルで、最上階に奥多摩の山や丹沢山系、富士山が見える眺めのいいレストランがあった。南口の通りを真っすぐ行くと、すぐに国分寺崖線(がいせん)で行き止まりに なってしまう。これも旧岩崎邸と共に南口の発展を妨げた要因かもしれない。その手前左側に卓球場があったはず。よく友人等とバトルを繰り広げた。その向か い辺りだったと思うが、中国人のお婆さんが作る真っ黒で激辛の麻婆豆腐を出す店があった。これは陽子さんに教わったような気がする。人の家の茶の間で食べ る様な店だったと記憶しているが、名前が出て来ない。ここもお気に入りだった。四川省の出身だったのだろうか。ちなみに、横浜中華街で仕入れた私の麻婆豆腐のレシピ。作り方は簡単だが、材料を揃えるのが大変。
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 アパートに戻って、今度は駅東のガードをくぐって北口へ。大学通りには、「餃子のポパイ」があった。ちょっと大きめの稲荷鮨の様な形の餃子を鉄鍋で、大量の油で揚げ煮するような餃子で、厚い皮が表面はパリッと香ばしく、内側はもちもち、具は熱々でジューシーという旨い餃子だった。揚げたてなので、不用意に食べると口の中の皮が剥けて大惨事になる危険な餃子でもあった。油まみれの店内には、何十個食べたという猛者たちの黄ばんだ紙がたくさん下がっていた。現在、野田に本店のある「ホワイト餃子」は、ご子息がやられているのだろうか。満州では、本来は水餃子で食べ、余ったものを翌日焼いたらしいが、日本人には 焼いた方が好まれたようだ。
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 今はMITの教授になっているらしい中国系ブラジル人の友人が、餃子の日は餃子しか食べない。餃子定食はあり得ないと言っていた。彼女に言わせると、餃子は皮を食べるものらしい。横浜中華街御贔屓の「愛龍號」のさっちゃんもそう言っていた(私的横浜中華街ガイド。下の方)。ということで、餃子のレシピを 載せておく。その中国系ブラジル人は、とんでもない才女で、IT関係から土木、医師の博士号も持っていた。おまけに美人でスタイル抜群。一歳だった長男が 彼女から離れなかったのが分かる。彼は赤ん坊の頃から、旨いものと美人には目がなかった。話が脱線した。国分寺から成城まで流れる野川の河原には場所により、野生の野蒜(ノビル)が生える。知っている人は、春に掘りに来る。野川は、大水になると下水も流れ込むためか、ここのノビルは大きくて旨い。ノビル餃子のレシピ。乞食葱などと言っていると罰が当たる。『古事記』にも載っているので古事記葱と言うべきだろう。
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 その手前だかに、ベジタリアンの定食屋があった。当時は、やたらとスタミナとつく定食や料理が多くて、ついつい食べ過ぎたものだが、ちょっと体調が悪 かったりした時に行った。豆料理やグルテンミートの料理が体にやさしく美味しかった。野菜好きの私には嬉しい店だった。豆腐ハンバーグの作り方も、ここで覚えた様な気がする。とにかく私は、美味しいものがあると、すぐに作り方をさり気なく、でもしつこく聞くのであった。
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 そこから駅に向かうと、西友の手前に、「百薬の長」というおばさんたちが切り盛りしている飲み屋があった。焼酎は、ひとり2杯までだったかな。もつ焼きがメインだが、ここのレバ刺しが新鮮で旨くて通った。刻み葱と酢醤油がかかっていて、咬むと甘みと旨味が口中に溢れた。それとビールの小瓶を飲んでから大学に行ったこともある。隣が「うな太郎」で、激安だが泣きたくなる位小さな鰻がのった鰻丼があった。まあ、学生の分際で鰻丼食べたいという願望を店主が叶 えてくれた有難い店ではあったのだが。
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 駅前を過ぎて西商店街のちょっと分かりにくい所に、これも伝説の店「ほら貝」があった。所謂、サブカル国分寺を象徴する店だった。その凄い歴史は色々な人が書いているので、興味のある人は調べてみるといいだろう。残念な事に、2008年に閉店したそうだ。いつもカウンターは常連がいて、私たちはテーブル 席についたが、印象に残っているのは、当時の店長が、心身ともに良くないと作れないんだと言っていたカクテル「レインボー」。同じクラスの小柄で、いつもノーブラにタンクトップを着ていた娘が(当時はノーブラは普通だった)、凄いんだよ、本当に凄いんだからと言うので、ある時クラスの女の子何人かと行き、注文してみた。その日は、調子が良かったみたいで早速作ってくれた。背の高いカクテルグラスに、比重の思いリキュールから本当に少しずつバースプーンの背を使って静かに入れて行く。失敗すると混じってしまう。極限の集中力が要るのだ。
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 カクテル「レインボー」の材料は、何パターンかあるようだ。
グレナデン・シロップ、クレーム・ド・メンテ、バイオレット・リキュール、マラスキーノ、ブルー・キュラソーシャルトリューズ・ジョーヌ、ブランデー。
カカオ・リキュール、バイオレット、マラスキーノ、ベネディクティンシャルトリューズ・イエロー、シャルトリューズ・グリーン、ブランデー。
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「レインボー」は、見事に完成した。テーブルを揺らさない様に小さな拍手の輪ができた。確かに飲むのがもったいないほど美しい。皆で回し飲みしたが、味はやたら甘いだけで、旨いものではない。ドライ・マティーニやマンハッタン、ソルティ・ドッグマルガリータ、ブラッディ・マリーの方が旨いに決まってい る。絵の具と同じで、色んな色を一度に混ぜるとヴァルール(色価)が狂う(唯一狂わないのがマッチカラー。 美大生、芸大生なら覚えておくべし。世界最高品質、安全で安価。これを知らずして水彩画家だとかイラストレーターだとか名乗るべからず。子供にも)。私はネグローニが結構好きだ。学生は、よくコークハイを飲んでいたね。コーラ自体、私は嫌いだったので飲まなかったけど・・。昭和24年創業の老舗バー、渋谷 の「門」はよく行った。以前飲んで旨かったので、メニューには載っていない様なカクテルを呟いたら、さっと作って出してくれた。ブラジルでは、バチーダといって、ラム酒ベースのカクテルをよく飲んだものだ。
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 カクテルについて書いていて、突然思い出した。70年代にはコンパという形態の店があった。女性バーテンダーとカクテル、ジュークボックスのあるカウン ターバーだ。確か北口の大学通り辺りにあった。薄暗い店内には、半円形のカウンターがいくつかあり、中にそれぞれ女性のバーテンダーがいた。ジン・フィズ やジン・ライム、バイオレット・フィズとかを作ってくれて、適当におしゃべりもしてくれる。レトロなジュークボックスがあって、ちょっと古いEPレコードが聴けた。ビーチボーイズローリング・ストーンズ、ザ・モンキーズとかね。コンパは、「ピーター・キャット」の様なジャズ喫茶を除けば、女の子を連れて行ける唯一の洋風飲み屋でもあった。
 但し、当時コンパというのは、学内でやるパーティー(宴会)のことでもあった。コンパの語源は、ドイツ語の仲間を意味するKompanie、もしくは英語のCompanyに由来するそうだ。明治時代から使われている学生の隠語らしい。「週末、鷹の台ホールでコンパだからね」という具合に使った。ホールが ディスコになった。クラスの可愛い女の子達が、キレキレのダンサーに変身する時間でもあった。合コンという言葉は、まだなかった頃だ。
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 北口の商店街に戻ろう。「ほら貝」の近くのスーパー・オリンピックの前だったか、「キッチン・フローラ」という店があった。ここのデミグラス・ハンバー グ・ミートソース・スパゲッティ(正式名称は覚えていない)は絶品だった。まさに肉と炭水化物の結晶だが、しばらく食べないと、妙に食べたくなる魔界の味であった。
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 北口には、名前はいちいち覚えていないけれど、いくつかレコードショップがあった。あるクリスマスの夜に、客として行っていた私に、春樹さんが「いっしょにクリスマスのアルバム買いに行かない?」と誘ってくれて、二人で北口へ向かった。手分けして探して買ったのは、確かフランク・シナトラのアルバム だった。帰って早速かけると「White Christmas」の甘い調べが「ピーター・キャット」の店内中に広がった。


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 上の地図は、1974年(S49)当時の国分寺駅の周辺。懐かしい店名が見える。現在と一番違うのは、なんといっても南口に大きな丸井のビルがないこと だろう。昭和31年にできた、平屋の簡素な駅舎と売店と臭いトイレがあるだけだった。学生なので行ったことはないが、わざわざ地図に載る、南口のクラブ・ エスカルゴってどんな店だったのだろう。気になる。知っている方がいらしたら教えて欲しい。ホステスが、全員エスカルゴヘアーで、エスカルゴ形のミニス カートを着ていたとか・・。
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 さて、今日はここまで。次はまた。「ピーター・キャット」の話に戻ろう。ところで、私たちは当時、「ピーター・キャット」のことを、単に「キャット」と 呼んでいた。「キャットにいるよ」とか、「キャットで待ってるから」とか。猫の話は、いずれ書かねばならないと思ってはいる。ちょっと辛いのだが・・。