『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

春樹さんがいう地下室に下りてみよう。『僕たちは再び「平和と愛」の時代を迎えるべきなのかもしれません』村上春樹

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 3.11以降、実質国土の三分の一が失われたというのに、東京湾はもちろん北太平洋もほぼ死んだというのに、この国のテレビは相変わらずバラエティやグルメ番組を、まるで何事もなかったかのように垂れ流し続けている。戦後、CIAが持ち込んだ愚民化政策は脈々と続いている。日本人はすっかり洗脳されてしまった。日本人ほどマスコミを無条件に信じる国民はいない。情報弱者と安全性バイアスにかかっている人はもちろん、放射能の話をタブー視するようなダチョウ症候群にかかった人は生き残れないだろう。村上春樹さんのファンの中で、彼の「カタルーニャ賞受賞スピーチ」の全文を読んだ人はどれほどいるだろうか。彼は「効率」という上品な言葉を使ったが、「効率」=「カネ」だろう。「カネ」の力しか信じない守銭奴がこの世界を牛耳っているということだ。そこには「愛」の欠片もない。
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 創元社から出てベストセラーになっている孫崎享氏の『戦後史の正体』 (100pまで無料で読める。以下は購買を)は、衝撃の本だった。ひと言で言えば「みんな嘘だった」ということだ。どおりで戦後史を学校で教えないわけだ。それどころか明治維新後の歴史も捏造だらけ。嘘だと思うなら「田布施システム」で検索してみるといい。現代史ばかりではない。古代史も『記紀古事記日本書紀)』を初めとして捏造の塊である。歴史は常に時の権力者によって都合のいい様に捏造されるものだ。世界史も同じ。
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 春樹さんの小説は、主に20代から30代前半と団塊の世代に読まれている様だ。春樹さんも言う様に、30代後半から40代になり仕事に追われるとフィクションの世界に遊ぶ余裕はなくなる。私自身が春樹さんの作品を読んだのは初期の頃だけで、南米から帰国後はG・ガルシア・マルケスなど南米文学ばかり読む様になったが、それは南米放浪のせいばかりではなく、彼の小説に出て来る主人公の年齢より上になり、現実世界に追われ感情移入ができなくなったというのもあるかもしれない。作家は、その年齢までタイムマシーンで遡って書くのだろうけれど、読者が遡ってまで読む事はノスタルジーに浸るためだろうから。そうしたい年齢や状況にならないと、なかなか手には取れないだろう。特に3.11福島第一原発の未曾有の大事故の後では、フィクションの存在理由そのものが問われる事態になってしまった。パラダイムの組み替えでは済まない事態だ。なにせ、貞観-仁和地震の再来である。そう遠くない将来に大地震は必ず来る。もうひとつ原発が爆発したら、それは日本の終わりを意味する。その上、六ヶ所村セラフィールドが崩壊したら、地球上の生命のほとんどが滅亡するということが分かった。なにもしないで馬鹿なテレビ番組を観ている時間は我々にはないはずだ。現実がフィクションを越えてしまった。
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 1979年に群像で発表された『風の歌を聞け』の初版本を買った当時、私は社会人になったばかりだった。南麻布のフランス大使館近くの古いマンションに友人と住んでいて、南青山の小さなデザイン事務所に白いアロー号で通っていた。近所に田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』に出て来る超高級マンションとケーキショップがあって、彼の本を抱えた女子大生がうろちょろしていた。そんな時代だ。『風の歌を聞け』を読んで、友人達と話したのは、「これって内容はともかく、構成は『スラップ・スティック』だよね。」ということだった。店をやりながら書いたのでああいう書き方になったと書いていたが、ぶつ切りの構成といい、手描きイラストの挿入といい、それは正にカート・ヴォネガットの『スラップ・スティック』だった。当時、そのことを指摘した文芸評論家は一人もいなかった。そんなもんだ。この本は76年刊なので、もちろん国分寺のアルバイト時代には読んでいないが、彼の本が面白いよと教えてくれたのは春樹さんだった。ここで気づいた方もいるだろうが、このブログの書き方が正にそれである。◆型のマークまで一緒。いつでも中断していつでも加筆できる。終わりが見えない細切れのフリージャズだ。
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『スラップ・スティック』は、当時の友人達の間で流行って、小説に頻繁に出て来る「ハイホー」というかけ声も流行った。また『猫のゆりかご』に出て来る架空の宗教「ボコノン教」の、相手と両足の裏側を合わせてチャネリングする妙な行為、ボコマルも酔っぱらうとふざけてやったりしたものだ。試しにやってみるといい。手をつなぐよりいいかも知れない。「人工的核大家族」という概念も私をゆさぶった。当時私はSF小説に凝っていて、カート・ヴォネガット・ジュニ アの『タイタンの妖女』や『プレイヤー・ピアノ』、J.G.バラードの『沈んだ世界』や『結晶世界』に『ハイ-ライズ』。レイ・ブラッドベリの『万華鏡』や『何かが道をやってくる』。A&B・ストルガツキーの『ストーカー』。アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』。ジョージ・オーウェル の『1984年』や『動物農場』。スタニスワフ・レムの『ソラリス』などをむさぼり読んでいた。
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 そんな訳で、春樹さんの小説に関しては特に語れることもないのだが、逆に昔の人となりを知っているだけに対談やインタビューは興味があり買っていた。村上龍氏との対談の『ウォーク・ドント・ラン』や『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』など。それらを読むと、店が終了後に私等アルバイトの悩みや生意気な話ににつき合ってくれた春樹さんの誠実な人柄を思い出すのです。時にはからかわれたり、厚い下唇を突き出して怒られもしたけれど。そういえば、ジャ ズ・フルートをやっていたが、厚い下唇が邪魔で向いてないので止めたという話を聞いた記憶があるのだけれど本当だったのだろうか。春樹さん一流のジョークだったのか。ちなみに私にはピアニストの彼女がいたのだが、ピアノを弾ける様になりたいなと言ったら、あなたのその短い指はピアニスト向きじゃないと言わ れた。手の平は大きいのだが・・。でも「英雄」のサビの部分だけでも弾ける様にならないかなと言ったら、サビが弾ければ全部弾けるよと笑われた。それはそうだ。
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 前置きが長くなってしまったが、そろそろ地下室に下りてみようと思う。『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』の中で、春樹さんが話している言葉を引用する。
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 「イメージをつかって、お答えしましょうか。仮に、人間が家だとします。一階はあなたが生活し、料理し、食事をし、家族といっしょにテレビを見る場所です。二階はあなたの寝室がある。そこで読書をしたり、眠ったりします。そして地下階があります。それはもっと奥まった空間で、ものをストックしたり、遊具 を置いたりしてある場所です。ところがこの地下階のなかに隠れた別の空間もある。それは入るのが難しい場所です。というのも、簡単には見つからない秘密の扉から入っていくことになるからです。しかし運がよければあなたは扉を見つけて、この暗い空間に入っていくことができるでしょう。その内側に何があるかは わからず、部屋のかたちも大きさも分かりません。暗闇に侵入したあなたはときに恐ろしくなるでしょうが、また別のときはとても心地よく感じるでしょう。そ こでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に、形而上学的な記号やイメージや象徴がつぎつぎに現れるんですから。それはちょうど、夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。 本を書くとき僕は、こんな感じの暗くて不思議な空間の中にいて、奇妙な無数の要素を眼にするんです。それは象徴的だとか、形而上学的だとか、メタファーだとか、シュールレアスティックだとか、言われるでしょうね。でも僕にとって、この空間の中にいるのはとても自然なことで、それらのものごとはむしろ自然な ものとして目に映ります。こうした要素が物語を書くのを助けてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。それは、 論理をいつも介入させられるとはかぎらない。法外な経験なのです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。」
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 これを読んだ時にそうだよねと思った。小説家というのは「覚醒しながら夢を見られる人」なのだと。そして、「過去や深層心理の世界に自由に行き来できる人」なのだと。私なんぞは、適度にアルコールが入らないと下りていけない。それではいけないと始めたのがこのブログだったりする。書くということは、時と共に雲消霧散していく思考を二次元に化石化する作業だ。そのきっかけになったのは、3.11に他ならない。
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 さらに私なりの解釈をすると、地下一階は過去の部屋。地下二階、三階は深層心理の部屋ともいえる。人によっては地下二階に行く扉があることを知らない人もいるし、見て見ぬ振りをする人もいる。地下二階にはPTSDが、地下三階にはトラウマが転がっていたりもする。下りたら戻れないかもしれない。トラウマ は人を強くするという心理療法士もいるが、ほぼ誰にも原因が明確なPTSDと違い、トラウマはなかなかその原因が分からなかったりするし、そうだと分かっても本人が認めない場合も多い。多くの場合その原因が親だからだ。親に傷つけられたということは認めにくいものだ。親に起因するトラウマは親が死んでも続く厄介なものだ。むしろ分からないからトラウマなのだとさえ言える。そして、歴史的に見れば、戦争が最も多くのトラウマを生じさせる原因となっているようだ。
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 信州の川中島は、越後の上杉謙信甲州武田信玄に、その肥沃な土地を狙われベトナムアフガニスタンのような戦場となった。戦国当時の川中島の民が記した記録に「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉がある。それほど戦は地獄そのままだったということだ。当時は「乱取り」というものがあり、掠奪と狼藉の限りを尽くした。被害者は主に女性と子供である。戦が終わるとすぐに奴隷市がたった。女子供は勝った国や、海外にまで売られたのだ。土豪の武士も小説や大河ドラマにあるような奇麗ごとではなく。骨肉の争いが繰り広げられた。機能不全家族の典型だともいえる。藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』などを読むといい。大河ドラマ歴史小説にありがちな英雄史観では、歴史の真実は決して見えて来ない。二つ前の文章で書いたが、古代より日本人が持つトラウマは、敗残兵のものではないだろうか。世界歴史的には敗残兵が国家を作ることは希有だ。たいてい滅亡するし滅亡している。この事に焦点を当てた論文を私は知らない。日本人の民族的な特殊性を説明する糸口にならないだろうか。
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 ベトナム戦争により、アメリカでアダルト・チルドレンが大量に生み出されたことは、よく知られている。-アダルトチルドレンとは、機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的な トラウマを持つ、という考え方、現象、または人のことを指す-(wkipedia)。当然日本では、第二次世界大戦(太平洋戦争)で、大量の機能不全家族が生まれ、アダルト・チルドレンが大量に生み出されたことは想像に難くない。特に都市部や軍関係の家庭、一般庶民よりむしろエスタブリッシュメントの家庭に多かったはずだ。なぜなら、敗戦のショックがより大きかったはずだから。都会の子供は疎開により親から引き離されたりもした。東京大空襲で、目の前で親兄弟が無惨に亡くなったり、戦争孤児になった人もいる。それは生き地獄だ。もちろん広島、長崎を忘れるわけにはいかない。
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 専門家ではないので、経験と独学と直感が元になるのを承知で記する。敗戦直後、日本はアメリカの収奪により昭和初期の経済力まで堕ちた。朝鮮戦争を機に アメリカの政策が反転し、日本は高度経済成長へと向かう。その中で生まれたのが家庭を顧みない働き蜂の父親と、教育ママだった。失われた子供時代や青春時代の夢を子供に託すようになったのも、必然と言えば必然だった。そこで、求められる愛と与える愛の間に乖離が生まれた。反抗できない子供は親の前でいい子を演じる様になる。本来なら素直に放出されるべき第二次反抗期も押さえ込まれる。そして、ついに爆発する。家庭内暴力に走る場合もあれば、自傷行為に走る場合もある。女子の場合、拒食症になることもある。女子の拒食症は、ほぼ100パーセント母親の過干渉に因るという。望む愛情を与えられず、愛され方を知らないで育った人は、愛し方も知らない。カート・ヴォネガットは言う。「愛もまた学ばれるものだ」と。
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 戦後、アメリカから形ばかりの個人主義核家族、子供部屋なるものが入り、スキンシップが減った。昔、私はブラジルを放浪し、金持ちから中流家庭、貧民街まで滞在したが、そこで見たのは豊富なスキンシップと、子供を叩かないという育て方だった。犯罪の多いブラジルだが、一般庶民は日本人以上に暴力を嫌う。どつき漫才はブラジルではあり得ない。下層階級ほど子供は共同保育の様な形で育てられる。赤ん坊の頃から多くの赤ん坊や子供、大人と接していると、人見知りや夜泣きをしない子供になる。コミュニケーション障害にもならない。そして、ブラジルで感じたのは、子供の意見や話を大人がよく聞くということだ。 日本の様に、子供は黙ってろとか、大人の話に口を挟むなという場面は見た事がなかった。それは貧民街でもそうだった。個人が尊重される。ブラジル国旗に は、Ordem e Progresso(秩序 と進歩)という言葉が書かれている。哲学者オーギュスト・コントの言葉だ。口の悪いブラジル人に言わせると、ブラジル最大のジョークだなどと言うが、なかなかどうして。サンバとサッカーだけの国ではない。
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 1877(明治10)年に来日して、大森貝塚を発見したアメリカの動物学者エドワード・モースは、「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」と記している。「七歳までは神のうち」とか「子は国の宝」などという言葉が、まだお題目ではなく生きていた頃 だ。十五歳で元服し大人扱いをされたことも忘れてはならない。江戸の子育て全てがいいわけではないが、ルソーやマルクスエンゲルスの影響を受けた官僚が作った薄っぺらな「ゆとり教育」「子供の権利」「個性尊重」などという借り物の空論ではなく、そこには培われた知恵と愛情があった。明治維新によりかなり廃れたが、それでもまだ地方では息づいていた。それが、戦後完全に崩壊した。悪書『スポック博士の育児書』とともに。
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 形而下学的に収斂(しゅうれん)していった時に、自然の複雑な形態が人の思考と手によりどういう理論で帰結していくのか、私にはその法則は分からないが、一般の人が模倣した時には、顔が単なる丸になったり便化(べんか)の形態をとるということは分かる。子供の絵もそうだ。人は複雑な物事や手に負えない事を、簡単にしたがるものだ。思考もその道を辿る。人は何かに縋(すが)り信じる事を選びたがるものだ。そして、権力者は、人間のその特性を利用する。疑う事は道徳的な悪だ、私を信じよと。しかし、信じるということは思考を止めるということである。それこそエスタブリッシュメント(支配者)の思う壷だ。科学は万能ではないし、常に客観性を求められるものだが、信じる対象ではない。常に疑われるべきものだ。しかし、その罠に自ら嵌(はま)ってしまう科学者や技術者が多いのも事実だ。安全性バイアスは、誰もがかかる可能性がある。疑問を持つことは、決して道徳的な悪ではない。思考を止めてはいけない。
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 3.11以降のバルセロナにおけるインタビューで春樹さんは、「平和と愛」の時代の復権を唱えている。
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「僕は1968年に東京にある大学に入りました。当時は革命の時代でした。若い人たちはたいへん理想主義的で政治的でしたでもそうした時代は過ぎ去りました。もはや人々は理想主義に対する興味を失い、利益を得ることに熱心です。日本の原子力発電所の問題は、理想主義の欠如の問題です。これからの10年は、 再び理想主義の10年となるべきだと僕は思います。僕たちは新しい価値体系を築きあげる必要があります。1968年や1969年には、人々は「平和と愛」 を謳っていました。僕たちは再び「平和と愛」の時代を迎えるべきなのかもしれません。そうすれば楽観的で あることも少し容易になるでしょう。今現在の状況では簡単なことではないでしょうが、乗り切るためには必要なことです。資本主義は今ターニング・ポイントにさしかかっています。僕たちはヒューマニズムの復興を模索しなければなりません。効率や利便性を追求することは容易ですが、ときに僕たちは険しい道を進ま なければなりません。僕が今感じているのはそんなことで、僕たちはもう一度このことを考えるべきだと思います。こんなこと言うと照れますね!(笑)でも僕はこれからも、とても暗く、奇妙で、残酷で、ある時には血なまぐさい物語を書いていくと思います。僕は理想主義的で楽観的で、愛を信じてはいますが。」
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 私もそうだと思う、そうでなければならないとも思う。しかし、日本人に、いや人類に残された時間は余りにも短い。今は1000年に一度の地震多発期。 『日本三代実録』の貞観地震から仁和地震に至る記述を見て危機感を持たない人はいないだろう。当時と異なるのは、我々は大量の原発と核廃棄物を抱えているということだ。アウターライズ地震六ヶ所村が崩壊すれば、その時は人類の終わる時だ。それだけの量の核廃棄物がある。愛で放射能を消す事はできない。
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貞観地震-仁和地震
864年:富士山噴火/868年:播磨国地震/869年:貞観地震(東北沖地震:M 8.3以上)・貞観津波/871年:鳥海山噴火/874年:開聞岳噴火/878年:相模・武蔵地震(関東地震:M 7.4)/887年:仁和地震(南海地震:M 8.0~8.5・東海東南海連動説も)八ヶ岳が水蒸気爆発で崩壊。千曲川・相木川を堰き止め大海・小海湖を造る。翌年決壊。遠く善光寺平まで甚大な被害を もたらす。
 富士山噴火から23年間に、大地震が4回、大噴火が4回起きている。現在は、その時代に酷似している。なにせM9の未曾有宇の大地震が起きたのだ。このままで済むはずがない。
*ところが京大の川辺秀憲序助教が分析した結果、M9の大地震ではなく、わずか2分ちょっとの間に連続してM7.2からM8.0の地震が5つ連続して起きていたことが分かった そうだ。確かに津波に襲われる前の沿岸部の家が、M9の大地震にしてはほとんど倒壊していないのが謎だった。更に東京ドーム40万個分の土砂崩れが海底で あったことも分かったという。非常にきな臭い。実はマグニチュードをほとんどの人が理解していない。M7を1とすると、M8は30倍、M9はなんと1000倍になる。東北沖大地震がM9というのは、アリが象の大きさだというぐらいの虚言である。いったい何が起きたのか、真剣に考えるべきである。我々は想像を絶する悪意の世界に生きているのかもしれない。
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 地球の年齢は約46億年。約39億年前に海ができて原始生物が誕生しても、地球は太陽や雨中からの放射線宇宙線が降り注ぎ、陸上で生物が棲める環境ではなかった。誤解を恐れずに言えば、太陽は最も巨大な原発であり原爆なのだ。5.5億年前に海藻が酸素を大量に作り始め、オゾン層ができて、やっと陸上で生物が生きられる環境が整った。
 そして、人類が誕生したのがわずか450万年前。地球の歴史を1年とすると、人類の歴史はたった8時間余り。その人類が、膨大な時間をかけてやっと生物が棲める様になった地球を、自ら放射能で汚している。原発=原爆=核は、生物学的には、最も反動的なものなのだ。覚醒か滅亡か。目覚めよ、さらば救われん。目覚めなければ滅亡あるのみ。
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【必読】日本人が知らない村上春樹の熱き思い--「まじめで強い日本人には、原発をなくすことが出来る」arterna
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 一番上の図。3.11の福一の事故によって北半球はほとんど満遍なく汚染されたことが分かる。キセノン133は、放射線を出さない安定元素だが強塩基で危険性は強い。史上最強の猛毒、たった一粒吸引で肺癌になるというプルトニウムなどのホット・パーティクルさえ北米にまで届いている。2011年3月15日や21日に関東等で目や喉の痛みを感じた人は、 これを吸い込んだ可能性がある。プルトニウムに関しては、都民一人平均10粒吸引しているというデータもある。都民一人あたり3600ベクレル内部被曝しているとは、都の正式発表。これには希ガスが含まれていない。福島からはフレッシュな放射能が毎日放出し、海へはそれ以上が駄々漏れの状態。専門家によると再臨界も起きているようだ。むしろ本当の地獄はこれからやって来る。海外のニュースを選んで読まなければ、決して真実は見えてこない。
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『風の歌を聞け』村上春樹/『スラップ・スティック』カート・ヴォネガット/『ウォーク・ドント・ラン』村上龍vs村上春樹/『夢を見るために毎朝僕は目 覚めるのです』村上春樹/『悲しき熱帯』レヴィ・ストロース構造主義の原典/『百年の孤独G・ガルシア・マルケス:この小説を読み終えた後は、もう フィクションは読まなくていいなと思ったほど。登場するブエンディーア家は典型的な機能不全家族かもしれない。
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 今日はここまで。次回は当時の学生の自炊・外食、つまり食料事情について。抱腹絶倒の物語。お金で食料が、しかも安全な食料が手に入るのが幻想となる日はすぐそこまで来ているかもしれない。いや、既に来ている。

国立ロンド(輪舞曲)。亡き王女のためのパヴァーヌ

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亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴くと、なぜか晩秋の大学通りを思い出す。桜の葉が色付き風に舞う。枯葉の間から木漏れ日が挿す。散歩中の少女が子犬と戯れる。ラヴェルルーブル美術館でベラスケスの「マルガリータ王女」の肖像画を観てインスピレーションを得たとされる名曲。大学通りから一橋大学のキャンパスに入り兼松講堂へ、サド・ジョーンズ&メル・ルイスのビッグバンドの演奏を聴きに行ったのが、つい昨日の事の様に思い出される。

枯葉」というとマイルス・デイビスの「Somethin' Else」に収録の「枯葉」がまず思い出される。リクエストも多かったが、私は、チェット・ベーカーの「枯葉」を一押ししたい。女性とのデュエットは珍しい。甘い調べが切ない。「ピーター・キャット」でも彼のアルバムは人気で、特に雨の日や深夜にリクエストが多かった様な気がする。

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 国立も国分寺に負けないぐらい面白い店や美味しいものが食べられる店がたくさんあった。まだ、チェーン店が普及する前だから個性的な店も多かった。大学通り、旭通り、富士見通りとあるけれど、まず富士見通り入り口近くのブランコ通りから思い出してみよう。当時の地図を見ても明らかだが、現在は南北に通り抜けが出来るが、76年当時はL字型の通りで南は行き止まりだったということ。(添付の地図では、「マクドナルド」と「りず」の間を南に入って東へ折れ曲がっている小路)2012年に35周年記念のイベントをやったので、ブランコ通りの成立は1977年ということか。そうだったのか。
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 駅前から入ると、右角にマクドナルドがあり、まだまともなフィレオフィッシュ・バーガーを売っていた。もっともここ十数年以上ファストフードは食べた事がないので、今の味は知らないが。小路を入って右手にはクーラーもない焼き肉屋があり、真夏に二階の座敷に上がり、開け放たれた窓と座敷に置かれた粗末な折りたたみテーブルで扇風機に吹かれながら汗ダラダラで食べた焼き肉と生ビールは旨かった。まだ安価な輸入牛肉なんてない頃だから、学生にとっては焼き肉は最高の贅沢だった。左手には本格的に野菜の油通しをする中華食堂があり(名前は失念)、そこのピーマン肉炒めは旨くてよく食べた。
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 その先にジャズスナックの「韻」ができて友人と度々行った。10人も入ればいっぱいの小さな店で、彼女を連れて行く様な店ではなかったが、男友達としみじみ飲むにはいい店だった。その右手にレトロなインテリアが落ち着く「ナジャ」。水出しアイスコーヒーを初めて飲んだのはここじゃなかったかな。ジャズ喫茶のコーヒーは作り置きでそれなりの味なので、旨いコーヒーを飲みたい時に行った。角を曲がってすぐ右が「邪宗門」。 ここもよく行った。門主は外国航路に乗っていたそうで、アンティークの溢れるゴチャゴチャしたインテリアが妙に落ち着く喫茶店だったが、2008年門主の 他界により閉店したそうだ。地味だけれど国立の一時代を作った店のひとつだったと思う。その先の右手に昭和28年オープンの故忌野清志郎も贔屓だったという「ロジーナ茶房」。 インテリアやオーナメントが凝っている。ビーフ・ストロガノフなる料理を初めて食べたのはここだったかもしれない。所謂業界関係者がよく来る店だった。たぶん今もそうなのだろう。ここのザイカレーだけは、迂闊に頼んではいけない。茶房からそのまま進むと大学通りに出るが、左角に「金文堂」。文房具や、 ちょっとした画材はここで買った。
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 その大学通りは、43.64m(24間)だから相当広い。戦前か戦中かは知らないが、滑走路に使用という案もあったそうだ。多摩には住んでいても知らない人が多いが、軍事施設の跡がたくさんある。大学通りは両側に広い歩道と並木があり、美しい緑のアーケードを作っている。その西側。順番はちょっと怪しいが、ジャズ喫茶「プレンティしもん」、「銀杏書房」、高級スーパーの「紀ノ国屋」、陶器の「やま芳」、パンの「サンジェルマン」等がよく通った店なので覚えている。
「プレンティしもん」は、ジャズ喫茶「しもん」の姉妹店で、大学通りの並木が見える二階にあり、ガラス張りで明るい店だった。デートによく使った記憶がある。「銀杏書房」 は、1947年(昭和22年)創業の洋書古書店で、文教都市国立らしくいい洋書が置いてあったし、今もそうだろう。通りかかると必ず覗いた店だ。スーパー の「紀ノ国屋」は、村上春樹夫妻もよく通っていて、何が美味しいとかおすすめとか情報をくれた。なにせ高いのでたまに行くだけだったが、私のお気に入りは 甘鯛のテリーヌだった。陶器の「やま芳」では、バーゲンの時にNORITAKEの白地に紺の唐草模様の大皿を二枚買った。なんと今でも現役で使っている。「サンジェルマン」の食パンは「ピーター・キャット」でも使っていた。私はシナモン風味のパンプキンパイが好きでよく買った。
               ◆
 大学通りの東側は、当時はそんなに店がなかったような気がする。散歩するにはこちらが良かった。いつだったか「ミルキーウェイ」というライブもやるカフェバーができた。そのオープニングに友人と行った。黒い内装でステップのある店内。ビールはハイネッケンが日本で発売された頃だったのか、わざわざ日本支社長が店に来て、客の周りを回って感想を聞いていたのが印象的だった。店には何度か行ったが、アリスが好きなロン毛の可愛いウェイトレスがいたのを思い 出した。既にない様だが検索したら、久保田早紀さんと経営者の鈴木昭一さんの81年の対談を 見つけた。彼女は店でライブをやったらしい。店名は失念したが、「ミルキーウェイ」のずっと先にフレンチレストラン、もっと先にドイツ料理の店があったと 思う。デートでフレンチレストランへ行って、いざ支払いの時に金が足りなくて、彼女を人質にしてアパートへ金を走って取りに行った間抜けなことがあったのも、今となっては懐かしい想い出だ。
               ◆
 次に旭通り。通りを少し入って左手にあった「越前屋」のタンメンは人気でいつも混んでいた。麺は多少柔らかめだったと記憶するが、野菜好きの私には嬉しいラーメンだった。その斜め向かい辺りだったか、大学通りと結ぶ通りにある「ステーキ・テキサス」。とにかくガッツリ肉を食べたい!という時には、ここのハンバーグを食べに行った。さすがに当時は、ステーキは高くてなかなか手が出なかった。
 旭通りのシンボルといえば「国立スカラ座」だった。ここはよく行った。当時は二本立てで500円ぐらいだったと思う。色々観たが、一番記憶に残っているのは『ドクトル・ジバゴ』かな。「ラーラのテーマ」 を聴くと今でも鳥肌が立つ。ラーラ役のジュリー・クリスティが、どうしようもなく哀しく美しかった。調べて分かったが、『ドクトル・ジバゴ』は、『ローマ の休日』との二本立てだったようだ。前者が197分、後者が118分、両方観ると5時間余りと、とんでもない長さになる。体力があったんだね。


 スタン リー・キューブリックの今後の日本と世界を暗示する様な『時計じかけのオレンジ』と『博士の異常な愛情(または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようにな­ったか)』の二本立てもここで観た様な気がするのだが……。
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 今は無きテアトル東京で3回観た、代表作『2001年宇宙の旅』 はもちろん、スタンリー・キューブリックは私が最も敬愛する監督の一人だが、実にクレイジーな組み合わせだ。『博士の異常な愛情』は、核による世界破滅を 描いたブラック・コメディだが、福島第一原発の事故は、このフィクションを遥かに超えてしまった。東京の空には、今も見えないセシウムやクリプトンが舞っている。

www.youtube.com「国立スカラ座」は作品の選択と組み合わせが絶妙だったと思う。残念ながら1987年(昭和62年)に閉館したそうだ。旭通りの終わり頃に、家族でやっている「レモンの木」というレストランがあった。ここのレアチーズ・ケーキは美味しかった。


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 富士見通りにも行きつけの店があった。まずロータリー近くにあった老夫婦が営んでいた「蛇の目寿司」。まだ回転寿司などなかった頃で、寿司は学生にとって焼き肉と双璧をなす贅沢なものだったが、この店はそんな学生にも比較的優しい値段だったと思う。そして、音大の近くにあった「叉焼ライスの店」。正確な店名は失念。富士見通りは大学通りに対して60度の角度で延びているので、東西の道路と交差する地点は30度になる。その店は30度の形をしていた。7、 8人しか座れないカウンターだけの店だった。メニューは、楕円形のステンレスの皿に茹でたもやしが山となり、その上に薄い叉焼が一列に並んでタレがかかっている。それにご飯と味噌汁。友人が異常に好きで、訪ねていくと必ずその店に誘われた。彼によると290円だったそうだ。しかし、今のチェーン店の激安メ ニューとは違う手作りの味だった。その向かい辺りにあったのが、今や全国展開している名物スタ丼の元祖、「サッポロラーメン国立本店」。スタ丼は、もちろんスタミナ丼の略で、ニンニクが強烈に効いた豚丼のこと。学生だったから食べられた量と味。今食べたら胸焼けするだろう。いずれにせよデートの前には食べられないメニューだった。
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 その先に「みみずく茶房」という喫茶店があって、遊び人風の男性二人が共同経営していた。二人はよく「ピーター・キャット」にも来た。「ピーター・ キャット」でドラキュラさんと呼んでいた背の高い人と、メガネの背の低い人。彼は通称ヨタハチと呼ばれた赤いトヨタスポーツ800に乗っていて、「ピー ター・キャット」に行く時に何度か乗せてもらった。名車だが、歩道を歩く女の子のミニスカートを下から見上げるほど乗車位置が極端に低く、座椅子に座ったまま道路を引きずられる様な車だった。店には国立音大の美人の女子学生がバイトしていて、そういえば少しつきあったことがある。富士見通りには、その他に ワッパ飯を食べさせる新潟郷土料理の店や大皿料理の食堂があって通った。若い夫婦がやっていたと思うが、ナスに摺り下ろしニンニクを塗って小麦粉をはたいて油で焼く料理があった。これはうちの定番料理のひとつになったのだが、店名が思い出せない。
               ◆
 その他の店。食料の買い出しは、普段は国立デパートが多かったと思う。スーパーより対面販売の店の方が好きだった。親しくなるとおまけしてくれるしね。 酒は、アパートの近くの酒屋を一番利用したかな。引越し先はたいてい酒屋と銭湯が近くにある所を選んだ気がする。酒好き風呂好きなものでね。そして最初に仲良くなるのはたいてい酒屋のおばちゃんだった。よくおまけをもらった。よく物をもらうというのは息子も引き継いでいて、彼が小さな頃「この子を見ると、つい何かあげたくなっちゃうのよね」と、よく言われた。仙川のまだモルタルの倉庫の様な店だった輸入食材の「カルディ」から、1キロのマヨネーズをもらって帰って来たことがあった。親子してそんなに物欲しげな顔をしているのだろうか、いや人徳ということにしておこう。
               ◆
 番外編。北口は、打ちっぱなしの国立ゴルフと立ち食い蕎麦屋ぐらいしか思いつかないな。ほぼ国分寺市だしねって、私も崖線の上の国分寺市民だったのだが・・。国立ゴルフは友人達がよく行っていたようだが、私は一度行っただけかな、どうもあんな広い場所で小さな穴に小さな玉を入れるせせこまさが苦手だ。 玉は大きな方がいい。ならば大玉送り。いや、そんなに大きくなくていい。サッカーボール位でいい。サッカー小僧だったものでね。忌野清志郎の歌にある「多摩蘭坂」 坂下の一橋大学の寮の向かい辺りに、これも老夫婦がやっていたおでん屋があった。木枯らしが吹く冬の夜に行った覚えがある。国立から国分寺まで自転車で行こうとすると、多摩蘭坂を初めとして結構きつい坂が多く、いい運動になった。国分寺崖線(がいせん)は侮れない。国分寺、国立、仙川と国分寺崖線沿いに暮 らしたが、結局私は坂好きなのだと思う。


               ◆
 ある雨上がりの早朝に白いアロー号に乗って崖線の坂を下り、旭通りから大学通りを抜けて多摩川までサイクリングしたことがある。イメージする曲は、ラヴェルの「ボレロ」だな。ほとんど車も人もいない大学通りから谷保天神に寄ってママ(ハケ)の坂道を下ると突然風景が開け、土手まで一面の水田が広がっていたあの夏の日。もう戻らない。

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1976年の大学通り。友人の中古のブルーバードで駅に向かう途中

  タイトルの国立ロンドだが、これは松浦亜弥の『横浜ロンド』からインスピレーションを受けてつけた。国立同様に横浜も私には思い出深い街だ。


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 今日はここまで。次回は村上春樹さんの言う地下室に下りてみようと思うのだが……。『風の歌を聞け』にも触れるつもり。深層心理とか機能不全家族とかしんどいテーマだ。

ラプソディ・イン・国立。雨上がりの夜空に・・・近くにいた忌野清志郎

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 ラプソディとは、狂詩曲のことをいうが、語源は古代ギリシャの吟遊詩人達の即興詩。おもにホメロス叙事詩の断章であるrhapsōǐdiaに由来する。「ラプソディ・イン・国立」は、もちろん故忌野清志郎率いるRCサクセションの1980年のアルバム『RHAPSODY』(ラプソディー)に因むもので、「忌野清志郎 雨あがりの夜空に 」は、その中の代表的な曲のひとつ。「こんな夜にお前に乗れないなんて、こんな夜に発射できないなんて」というエロチックな比喩の歌詞は、夕立の後に草いきれの立つ国立の夏の夜を想いださせる。彼の歌にある「多摩蘭坂」の坂下を彼女と横切って歩いた夏の夜。サルビアの赤い花が、月明かりに映えていた。
「お月さまのぞいてる 君の口に似てる キスしておくれよ窓から」
原発いらねえと、天国でも歌っているだろう・・。

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 76年の春に、私は国立へ引っ越した。理由は、3年になって課題が忙しくなるため「ピーター・キャット」のアルバイトを止めた事。国立の街が気に入って前から住みたいと思っていたこと。大学へ電車ではなく高校時代の様に自転車で通いたいと思った事。自転車は自由だからね。子供の頃、初めて自転車に乗れる様になって一気に行動半径が広がった喜びは、いつになっても忘れないものだ。もっとも、そのために日帰りで帰れない所まで行ってしまい、這う這うの体で知人や親戚の家に泊めてもらったことが何度かあった。
 そして、もうひとつ、当時つきあっていた彼女の家が借りたアパートから徒歩で行ける距離にあったこと。 これが一番大きかったかな。アパートから駅に向かうと、都営第十住宅の先で急坂を下る。国分寺崖線坂上からは、まだ高いビルがなかったので、国立の街と多摩の山々のスカイライン、天気が良ければ富士山が見えた。坂上には5月になるとマーガレットの花がたくさん咲いた。
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 上の地図は、76年当時の国立。右の青丸は、私が借りていたアパートの場所だが、今はない。両側に外階段の付いた各階二部屋ある二階建てのモルタルアパートで、6畳間に2畳ほどの板の間の台所とトイレがあった。隣は確か多摩美の学生で、階下は若いホステスのお姉さんが住んでいた。左の青丸は、友人が住んでいた米軍ハウスがあったと思われる場所と思ったが、彼がいたのは立川市羽衣町なので、もう少し西の様だ。「キャンディ・ポット」は、『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で書いた吉田君がやっているジャズ喫茶。以前は国立の旭通りだったが、現在は富士見通りの金水ビル地下1階に移転したそうだ。他に当時つけたと思われる赤鉛筆で書いた赤丸があるが、これがよく思い出せない。たぶん友人が住んでいたアパートの場所だと思うのだが・・。
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 地図を見るとよく分かるが、南北に延びる大学通りを中央に、東(右)の旭通りが大学通りから45度の角度で、西(左)の富士見通りが60度の角度で、それぞれ南へ伸びている。ちょうど三角定規の二枚を置いた様な街なのだ。多分、都市開発した設計者が、三角定規を置いて線を引いたのだろう。その他の道も碁盤の目に走り、ひと目で都市計画がされた街だと分かる。昔の街道や畑道がそのまま残る隣接の街とは全く違う。そして、旭通りと富士見通りの角度が違うため、街はシンメトリーではない。
 では、なぜシンメトリーではないか。日本人は シンメトリーを嫌うのだ。中国を模した平城京平安京も、微妙に崩してある。旧国立駅だって奇麗な三角形ではなく、右側が途中で縦に切られていた。左右対称は、最も合理的な様式美であり、古代エジプト古代ギリシャ古代ローマに、その完成が見られる。ルネッサンスに復活するが、やがて解剖学に基づいたマニエリスムへと変化する。しかし、現在でもシンメトリーを好む傾向は根強く見られる。
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 では、なぜ日本人は古代よりシンメトリーを嫌うのか。これについて明確な答えはない。荒唐無稽な推論だが、古代日本人は中国大陸で敗残した末裔が渡来して縄文人と交わり、弥生時代大和王権を造ったといわれる。春秋戦国時代に滅びた呉・越の渡来人。日本各地に残る「徐福伝説」。 百済伽耶の滅亡と大和王権。ひょっとしたら空白の4世紀に、そのヒントがあるかもしれない。中国も半島もシンメトリーの世界である。左右否対称、アシンメトリーは、そんな祖国を捨てて来た敗残者のトラウマが生み出したのではないだろうか。
 シンメトリーは、単調だが安定的で永遠を感じさせる完成形。対してアシンメトリーは、アンバランス。非常に不安定な上に成り立つバランスで、一歩間違うと崩壊する危険性を孕(はら)む。わざわざ不安定な形態を選ぶというのは、普通の精神状態とはいえない。その上に、10年に一度の災害、100年に一度の大災害、1000年に一度の超大災害に見舞われる日本である。「無常」という観念もそういう根源と風土の中で培われて来たのではないだろうか。アシンメトリーの歴史を繙(ひもと)くと、日本人の本質が見えて来るかもしれ ない。
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 気がついた人もいるだろうが、私は国立に引っ越したが、国分寺市民のままだった。近くには、「好きよキャプテン」がヒットした双子のザ・リリーズ渡辺プロダクションの寮に住んでいて、セーラー服で出かけるのをよく見かけた。私が去った年に「まちぶせ」がヒットした石川ひとみが入寮したらしい。その寮も今はない。


 国立の芸能人といえば、「異邦人」(1979)の久保田早紀だろう。私が居た頃は、まだ女子高生で、八王子の共立女子高校に通っていたはずだ。超絶美少女だった彼女は、無名の当時から国立では知られていた。本当に美 しい人だったけれど、私はちょっとハスキーな彼女の声が好きで、30歳過ぎたらジャズを歌ってくれないかなと思っていたものだ。だが、少しでも芸能界にかかわり、中身を見た人なら分かるだろうが、所詮虚構と妄想の世界。伏魔殿だ。アイドルは元々アメリカが自国民に対して行った愚民化政策を、戦後日本に適用したものだから。
 そうは言っても、私自身アイドルの仕事もたくさんしたので、歌うことやダンスが好きで一生懸命精進する女の子達は応援したいのです。ハロプロとかさくら学院とかBABYMETALとか。

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 引っ越してすぐに私は、アロートレーディングの コースター・ブレーキの白い自転車を買った。この自転車にはハンドルにブレーキがなかった。ペダルを逆回転すると止まるフット・ブレーキなのである。西荻窪の店まで買いに行き、国分寺まで乗って帰った。私が買った初代の白いアロー号は、前ブレーキさえなかった。よって、ある時国分寺駅前の交番で警官に呼び止められ、「ブレーキのない自転車に乗っちゃいかん!」と怒られた。「ブレーキのない自転車なんて怖くて乗れないでしょう。かくかくしかじか」と説明するとえらく驚かれた。
 その後、谷保の交番でも呼び止められて、また説明する羽目になった。しかし、フット・ブレーキにはすぐ慣れるし、非常によく止まる。オランダなどでは相当普及しているようだが、なぜ日本のメーカーは普及させなかったのだろう。
               ◆
 大学へは戸倉橋一本西の陸橋を渡り、清志郎の母校・国分寺市立第二小の横を駆け抜け、高木通りに出たら右折して四つ目の道をひたすら北上すると玉川上水に出る。橋を渡って朝鮮大学のガウガウ吠えるドーベルマンに金網越しに追い掛けられながら大学へと向かうのが日課だった。その最短距離のルートを調べるために買ったのが添付の地図である。当時は今より住宅が少なく、畑の中を抜ける快適な通学路だった。
 その後、アロー号は南麻布のマンションへも持って行き、 青山の事務所への通勤や、六本木へ遊びに行く時に大活躍した。同居の友人も乗っていたが、自転車で六本木のディスコやパブに遊びに行っていたというのは珍しかったかもしれない。結局アロー号は、南米アマゾンへ旅する体力をつけるため、新発売のプジョーのPF10Jというクロモリのロードレーサーを買った時に手放した。そのロードレーサーは非常に大切に乗り、なんと25年後高校のトライアスロン部に入った長男も乗った。現在はちょっと故障して倉庫に眠っている。もう部品を作っていた会社がないのであるが、息子になんとか直してくれと頼んである。(その後なんとか直った。いずれ私の元に戻るはず)
               ◆
 正確な場所は忘れたが大学へ通う途中の辺り、恋ケ窪のどこかだったかに「イエスの方舟」があった。たぶん米軍ハウスだったと思う。「イエスの方舟事件」 として、馬鹿なマスコミのバッシングに遭ったが、当時私は、これはカルト集団でもなんでもなく、カート・ヴォネガットが『スラップ・スティック』の中で書いていた「人工的拡大家族」ではないかと思った。機能不全家族に育った女性達が、救いを求めて集まったのではないかと。結局、冷静でまともな取材を続けた鳥越俊一氏の「サンデー毎日」だけが真実を伝え、集団妄想と化した誤解が解けた。『スラップ・スティック』は、私達の間で非常に流行ったが、カート・ヴォネ ガットを教えてくれたのは、もちろん春樹さんである。
               ◆
 国立は、街のど真ん中に広大な一橋大学の敷地がある、東京で最初に文教地区に指定された街である。だからパチンコ店も風俗もない。そういうのが好きな人は、そういうものがある街に住むか行けばいいわけである。ただ、国立は大正時代末期に箱根土地株式会社(国土計画の前身)が、谷保村の山林を買い取って国立音楽大学と駅を新設し、続いて商科大学(現在の一橋大学)を誘致したという完全に人工的に造られた街だ。国立という名も、国分寺と立川の頭文字を合わせただけのものである。「くにたち」ではなく「こくりつ」と読まれてしまうのも仕方が無い面もある。イギリスの地方都市の様な趣がある美しい街だが、どこか整形美人の様な側面があるのも確かだ。
               ◆
 でも、国立の街は好きだった。私は夜になるとシーンという静寂の音が聞こえる様な田舎で育ったので、騒音は苦手だ。呼吸器が敏感なので空気が悪い所もだめだ。国立は静かで時もゆったりと流れているような気がした。大学通りの木漏れ日の下を、谷保を抜けて多摩川までよくサイクリングをした。夏は友人と隣の矢川のし尿処理施設の隣にあった清化園プールに泳ぎに行った。ここの水は井戸水だったので真夏でも冷たく、長く入っていると唇が紫色になった。よくしたもので、焼きそば、かき氷の他に、真夏なのにおでん屋があって、よく食べたものだ。現在は温泉施設になったようだ。
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空が広かった70年代の国立


 写真は、76年の春の国立。駅から南へ大学通りを1キロほど南下した桐朋学園と国立高校の間に架かる歩道橋の上から撮影したものである。桜が満開なので 4月上旬だろう。現在の様に車道と自転車道の間に植木鉢はなく、違法駐車もし放題だった。取り締まりもそう厳しくなかったのは交通量がまだ多くなかったからだろうか。一輪車を押す作業員といい、犬を連れた自転車の人といい、長閑な光景である。国立駅の背後にも高層ビルがなく、駅舎の三角が美しいシルエットを作っている。
 桜並木は美しいが、若葉の季節は毛虫が発生するのが難点かな。これは国立ではなく、ずっと後の仙川での話だが、畑道を抜け、桐朋学園の桜並木の下を通って通勤していたある日、電車に乗ったら前に立っていた美しい女性が、突然ティッシュを取り出して私の麻のジャケットの肩からなにかを摘んで取った。へ?と思っているとニコッと微笑んで見せてくれたのは小さな青虫だった。彼女はそれを丸めてバックに仕舞った。いやぁ、一瞬で恋に堕ちたが既に既婚だったのでどうにもならなかった。虫嫌いの女性が多いのに、絹布のような白く美しい肌の美人だったので、彼女の前世は蚕かいと思った。
               ◆
 虫ではなく鳥の糞と美人の話。学生時代のことだが、帰省のために特急あさまに乗った。四人掛けの席には、向かいに少し年上の社会人の美しい女性が座った。他の席は空いていた。彼女は藤の小さなバスケットを持って乗って来た。しばらくすると、彼女は蓋を開けて文鳥を取り出した。文鳥はよく慣れているようで、彼女の周りを跳ねていた。ところが、何を思ったか私の所へ飛びついて来た。しかもだ、事もあろうに私の股に糞をして彼女の所へ戻って行ったのである。すると彼女は手で口を押さえてククッと小さく笑った後でティッシュを取り出し、そのうんこ、いや糞を取り除いてくれた。いやぁ、一瞬で恋に堕ちたが既に彼女がいたのでどうにもならなかった。彼女の前世は鶴か。鶴の恩返し。
               ◆
 整然と造られた国立の街だが、碁盤の目の街は、対角線に動こうと思うと最短距離では行けないもどかしさがある。では国立市ではない、国立の私のアパート から国分寺の「ピーター・キャット」まで最短で行こうとすると、線路沿いに行けばいいということになるのだが、そうは問屋が卸さない。西国分寺辺りで道が グダグダになるのである。
 地図を見ると分かるが、恋ケ窪辺りまで、道が斜めで細長い長方形を形作っている。武蔵境辺りは南北だが、武蔵野市になると見事に傾いている。これは、街道や用水に対して直角に畑地や水田を振り分けたからである。特に飲料水の用水路を最短で結ぶために、短冊地形が取り入れられたとい う(参考資料:小平周辺の新田開発)。それに比べると、国分寺市三鷹市調布市、世田谷区を流れる暴れ川といわれた蛇行する野川沿いの道は、見事にグダグダである。
               ◆
 玉川上水は、 増大する江戸の人口を支えるために造られた水道である。昔は太宰治が入水自殺したほど水量が豊富だった。江戸の民の命の水であったため、洗い物、漁撈、水浴び、塵埃の投棄などはご法度とされ、厳重に取り締まられていた。また水路の両側幅三間は保護地帯とし、樹木の伐採だけでなく下草刈りさえも厳禁であったという。
 最初は、国立の青柳から工事を始めたが、府中の八幡宮下辺りで流れなくなり失敗。その後福生から引いたが、関東ローム層の水喰土にぶつかり失敗。 三度目にやっと成功を見た。辛苦の末に江戸まで命の水を引いた玉川兄弟初め先人達が、放射能汚染された多摩川や用水を知ったらなんと思うだろうか。
               ◆
 国立で水といえば、谷保天満宮の境内にある常磐の清水だろう。天満宮だから菅原道真が祀られている。よって受験生の参拝が多い。ここも自転車でよく行った。真夏、蝉時雨が降る午後に訪れると、暑さを忘れる佇まいがそこにはあった。谷保の崖線(がいせん)は、国分寺ではハケというが、谷保ではママと いう。もちろんパパママのママではない。儘、墹、真間等と表記される崖のことである。谷保ではママ下湧水といって崖線のあちこちから湧き出している。それらが集まり小川となる。当時は現在の様に住宅は多くなく、崖線の小径を下ると、一面緑の水田が広がっていた。地元の子供達が小川で遊んでいた。それは、吉田拓郎の「夏休み」を口ずさみたくなる、ちょっと切ない懐かしい光景だった。そんな光景は、今も見られるのだろうか……。
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※参考サイト:玉川上水散策地図玉川上水
タチオンWalking-谷保天満宮・城山・ママ下湧き水公園(国立市
菅原道真自作の木像がある信州千曲市の岡地天満宮についての私のブログ記事
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 今日はここまで。次回は、国立の通りや店について。国分寺とは、またひと味違う面白い店がたくさんあった。ロジーナ茶房、ナジャ、邪宗門、プレンティしもん、レモンの木、みみずく茶房、蛇の目寿司等々。

雨の日とミッドナイトには、女性ヴォーカルがよく似合う

 ジャズ喫茶といっても、「ピーター・キャット」は、会話をするとウェイターがやってきて「お静かに!」などと言われる様なおしゃべり禁止の店ではなかった。そういう本格的にジャズを聴きに行くための店は、それはそれで存在理由があって貴重だった。私も吉祥寺の「OutBack」や「Funky」には、よく行った。ハードロックを聴きたいときは、「赤毛とそばかす」にも。彼女とのデートには、「西洋乞食」に。当時の吉祥寺を知る人は知っているだろう が、全て故野口伊織氏プロデュースの店だ。70年代のジョージの文化を作った人と言っても過言ではないだろう。
 国分寺の「ピーター・キャット」は、概ね新宿の「DUG」をモデルにしたものだと思う。夜はアルコールがメインのジャズバーで、ここにも友人とよく行った。長い木のカウンターもよく似ている。(参照:50年以上の歴史を誇るジャズ喫茶の名店! 新宿「DUG」オーナー中平穂積さんに聞く「カルチャーの集合地が育つまで」)
               ◆
 そういう訳で、ジャズを聴きに来るだけが目的の本格的なジャズ喫茶の様に。アルバムのリクエストが、ひっきりなしに来るという状況ではなかった。それでも、満席になると、LPを替えるのに忙しかったこともあった。音が途切れてはいけないからね。リクエストの定番は、やはり男性中心のピノトリオや、アルトやテナーサックスのカルテットが中心になる。けれども、ハードバップばかり聴いていると、箸休めならぬ耳休めが欲しくなるのも事実。特に、ブルーな雨の日や、夜10時を過ぎると無性に女性ヴォーカルが聴きたくなるものだ。実際、そういう時には女性ヴォーカルのリクエストが多かった様な気がする。そんな 「キャット」にあった女性ジャズヴォーカリストの中から、思いつくままに書いてみようと思う。(写真左上から右へ)

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Lee Wiley"West of thw Moon"
Chris Connor"CHRIS IN PERSON"
Monica Zetterrlund/Bill Evans"WALTZ FOR DEBBY"
Billie Holiday"LADY LOVE"
Helen Merrill"helen merrill with Clifford Brown"

Jo Stafford"JO+JAZZ"
Peggy Lee"Latin ala Lee"
Astrud Gilberto"GILBERTO with Turrentine"
Marlene"My Favorite Songs"
Kimiko Kasai"WE CAN FALL IN LOVE""TOKYO SPECIAL" "ROUND AND ROUND"
"Dejavu" "Left Alone" "It's MAGIC"

               ◆
 リー・ワイリー(1908 -1975)。スウィング全盛の古い時代から活躍していた人なので、若いジャズファンには馴染みが無いかもしれないが、エレガントで包容力のある、その歌声は一度聴いたらたぶん病み付きになるはず。"West of thw Moon"は、録音が少ない彼女の最後の傑作と呼ばれるアルバムで、彼女のハスキーヴォイスがたまらない。A面もいいけれど、B面の"East of the Sun"や"As Time Goes by(時の経つまま)"は、本当に素晴しい。ささくれ立った心を静めるのには最適な歌声。映画『カサブランカ』の名曲をイングリット・バークマンの美貌とともに堪能して欲しい。

"Lee Wiley - As Time Goes By"

               ◆
 クリス・コナー(1927-2009)。写真の"CHRIS IN PERSON"は、ヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ録音。クリス・コナーといえば、「ミスティ」か「バードランドの子守唄」だろう。"Chris Connor - Lullaby of birdland"バラードもいいけれど、アップテンポの曲もスリリングで最高だ。ドライブしながら聴くと、ついついスピードを出しすぎてしまうかもしれない。リクエストが多かったアルバムの一枚。

               ◆
 モニカ・ゼタールンド(1937-2005)。スウェーデンのジャズシンガー。昔はセッテルンドと表記されていたが、スウェーデンの発音はこちらが近いのかな。所謂ジャケ買いの筆頭にくるアルバム。ビル・エヴァンスとの素晴しい共演の一枚が、この『ワルツ・フォー・デビー』。「ピーター・キャット」の女性ヴォーカリストの中でも、一番リクエストの多かった一枚だと思う。女優もしていたというその美貌はもちろん、ハスキーでアンニュイな歌声は、まさにミッドナイトの定番アルバム。"Monica Zetterlund with Bill Evans Trio Waltz for Debby" 2005年に寝たばこが元で焼死してしまった……。

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               ◆
 ビリー・ホリデー(1915-1959)。恋と酒と麻薬に身を滅ぼしたジャズシンガーだが、生涯に渡り人種差別や性差別と戦った女性でもある。店にあったのは、代表作『レディ・デイ』他だったと思う。この"LADY LOVE"は、A面もいいが、B面の"Billie's Blues"と"Lover come back to me"が私は好きだ。ジャニス・ジョプリン他、多くの女性ヴォーカリストに影響を与えた偉大な歌手である。麻薬とアルコール依存症のために、初期と晩年では声質が全く異なるが、両方とも私は好きだ。最も有名な曲は、人種差別によるリンチで殺されて木に吊るされた黒人を歌った"Strange Fruit"「奇妙な果実」だが、私は彼女の"Summer Time"が好きだ。ジャニス・ジョプリンアルバート・アイラーのと共に、三大サマータイムと勝手に呼んでいる。"Billie Holiday - Summertime- JazzAndBluesExperience"


 彼女の死後に、晩年の伴奏者だったマル・ウォルドロンが出した追悼盤のタイトル曲"LEFT ALONE"は、彼女の愛唱歌でもあった。ジャッキー・マクリーンのサックスとマル・ウォルドロンのピアノが壮絶に切ない。これもリクエストが絶えなかったアルバム。
               ◆
 ヘレン・メリル(1930-)。"helen merrill with Clifford Brown"は、モニカの『ワルツ・フォー・デビー』と共に、最もリクエストの多かったアルバム。ニューヨークのため息と呼ばれた彼女の歌声は、何度聴いても飽きる事がない。代表曲の"You'd Be So Nice To Come Home To" は、彼女の歌声はもちろん、クリフォード・ブラウンの珠玉のソロがクインシー・ジョーンズの編曲と相まって非常に都会的で洗練された曲に仕上がっている。 日本ではCMに使われたので、ジャズに詳しくない人でも聴いた事がある曲だろう。「ピーター・キャット」でも、多い時は、一日に三回くらいリクエストがあった記憶がある。


               ◆
 ジョー・スタッフォード(1920-2008)。写真の"JO+JAZZ"は、トランペット・ヴォイスといわれた彼女の代表作の一枚。A面最初の"Jo Stafford - Just Squeeze Me (But Please Don't Tease Me)"、大人の曲だなあと思う。ウィスキーもいいけれど、ブランデーが似合う様な曲だ。
 邦題が「煙が目にしみる」の"SMOKE GETS IN YOUR EYES(JO STAFFORD)"もいい。


               ◆
 ペギー・リー(1920-2002)。少したれ目で、笑顔が可愛い女性。ソフトで少し甘ったるい声は、ピロートーク代わりに聴くといい。代表作は『ブラック・コーヒー』で、これもリクエストが多かった。"Peggy Lee - Black Coffee"。私の愛聴盤は、ラテンを歌った"Latin ala Lee"。バラードの彼女とは違う魅力がある。


               ◆
 アストラッド・ジルベルト(1940-)。ブラジルのボサノバの女王。スタン・ゲッツとの共演による「イパネマの娘」 は、余りにも有名。写真のアルバムは、スタンリー・タレンタインとの共演。世界的なヒットで、一躍有名になった彼女だが、意外にブラジルでは実績が乏しい。まあ、ガル・コスタとか凄い歌手が何人もいるので仕方がない面もあるのかな。もう昔だが、青山の「ブルーノート東京」で、彼女のライブを聴いたことが ある。日本人では、小野リサが好きだ。彼女の「イパネマの娘」のムービーには、モデルとなったエロイーザという娘の写真と舞台となったレストランも出て来る。ボサノバというと、昔リオデジャネイロのコパカバーナの高層アパートのドミトリーに滞在して、毎日プライア(浜辺)に日光浴に行っていた頃を思い出す。

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 最後の二枚は、「ピーター・キャット」には無かったアルバム。日本人のジャズシンガーのアルバムは無かったと思う。マリーンと笠井紀美子、そして写真にはないけれど吉田美奈子。この三人は、70-80年代にかけての日本の三大歌姫と私は思っているのです。
"マリーン - It's Magic - 1983.09"
 角川の映画のテーマで“Left Alone”も歌っているが、それもいい。
笠井紀美子“We Can Fall In Love” なんてキュート!なんてセクシー!


"夢で逢えたら - 吉田美奈子"、"吉田美奈子/時よ(フルバージョン)"凄い。圧巻のライブです。時が戻せるのなら……。スキャットもつぶやきも全て極上の魂の歌

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 こうやって、女性ジャズヴォーカリストを挙げてみると、ハスキー・ヴォイスの人が多い。男共はハスキーな声の女性が好きなのかね。そう、好きだ。亡き妻の祖父は、シュドゥビドゥビドゥバドゥビドゥバーの青江三奈が好きだったが、その彼女も"You'd Be So Nice To Come Home To"を歌っているものね。いやこれ凄くいいよ。

 八代亜紀も歌ってる。演歌≒ブルースなのかな。固定観念を排除すべき。例えば松浦亜弥。単なるアイドルではない事は、この曲を聴けば分かる。"ダブルレインボー Aya Matsuura Maniac Live Vol 4 2 07"大手広告代理店やマスコミによって作られたステレオタイプのイメージにはまるのは損なだけでなく、原発事故によって極めて危険なことだということも分かったはずだ。分からないならあなたは情報弱者。生き残れない。
 東京は、ウクライナキエフではなくチェルノブイリ級の放射能汚染。海外の情報弱者でない人は、東京は終わったと思っている。キエフでさえ健康な子供は 5パーセントしかいない。それが東京の未来。そんな都市が発展するわけがないだろう。終わりの始まりは、既に始まっている。


               ◆
 もちろん、他にもまだまだたくさん素敵なヴォーカリストはいる。忘れてはいけない大御所も。
エラ・フィッツジェラルドElla Fitzgerald) 『マック・ザ・ナイフ』の中の"ハイ・ハウ・ザ・ムーン"のアドリブのスキャットは圧巻。
サラ・ヴォーンSarah Vaughan) 太い包容力のある声が魅力。"マイ・ファニー・ヴァレンタイン"
ニーナ・シモンNina Simone) "フィーリング・グッド"彼女の歌は、アメリカというよりもアフリカを感じさせる。
ダイナ・ワイントン(Dinah Wshington) "カム・レイン・オア・カム・シャイン"艶のある歌声が魅力。
ナンシー・ウィルソン(Nancy Wilson) カウント・ベイシー・オーケストラをバックに"Satin Doll"。ゴージャスなビッグバンドをバックに、彼女の伸びのある軽快なヴォーカルが心地いい。
カーメン・マックレェ(Carmen McRae) "ラウンド・ミッドナイト"切々と聴かせる味わい深い歌声。
アニタ・オデイ(Anita O'day) なんともいえない色気がある。"ザ・マン・アイ・ラヴ"
ジューン・クリスティ(June Christy) "ソフトリィ、アズ・イン・ア・モーニング・サンライズ"キュートでクールな歌声。このアルバムもリクエストが多かった。
 エトセトラ、エトセトラ・・・。
 もしリンクの切れているものがあったら検索してみて欲しい。見つかるかも。
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 今日はここまで。次回はラプソディ・イン・国立。雨上がりの夜空に・・故忌野清志郎さんへ捧ぐ