『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

「ピーター・キャット」のアルバイト事情。突然叩き起こされて・・

「ピーター・キャット」のアルバイトは、二日おきか三日おきに入れていた。基本は夜で、7時から深夜1時半か2時まで。昼の時は、12時に入って7時までだった。カウンターに入ると立ちっぱなしなので結構疲れるが、若かったので特に辛かったという記憶はない。当時は長髪だったけれど、やはり飲食関係のバイトだったので、確か肩まであった髪を切って、当時流行り始めていたウルフカットにした。尚かつ清潔が大事と、当番の日は銭湯に行くようにした。さすがにジャズ喫茶に制服はなかったが、焦げ茶色のエプロンをした。

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『Jazz』1975年5月特別増大号より

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 昼のバイトは、サンドウィッチの仕込みが大変だったが、後はコーヒーや紅茶を入れるだけだったので比較的楽だったように記憶している。夜7時からのバイ トはアルコールが中心なので、店内はたいていいつも賑やかだった。同じ大学の友人や知人も大勢来たし、武蔵美以外にも、多摩美、一橋大、津田塾大、東経大農工大、学芸大などの学生が来た。農工大畜産の学生等は、今日は牛の膣に腕を突っ込んでどうたらこうたらと、非常に面白い話をしてくれたこともあった。春樹さん達と色々質問攻めにした。やはり専門課程の話は面白い。森林学科に行っていた息子の話も面白い。彼は卒論で日本で一番古い湿原の古代の花粉の研究をした。そのボーリング調査には私も参加したが、尾瀬が9000年に対して、その逆谷地湿原はなんと10万年という。また、私は古代科野国の研究をしているが、初代科野国造(クニノミヤツコ)の武五百建命(タケイオタツノミコト)とか話し始めると、たいていの人は目を開けたまま気絶してしまう。面白いんだがなあ(笑)。古代史や戦国時代に興味がある人はこちらを。最近は歴女も多いので、妻女山や斎場山で案内することもある。
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 そんなある非番の夕方のことだった。アルバイトと課題で疲労がたまっていたのだろう。夕食を食べてうつらうつらとしていた。そこへ突然のノック。ドアを開けると……。実はその時、誰が来たのか正確に思い出せない。春樹さんはカウンターに入っていたので違うと思う。陽子さんか、早番のKか。ウェイトレスの女の子か。たぶん陽子さんだったと思うのだが。用件は、遅番のYが来ないというのだ。店は大賑わいでてんてこ舞い。カウンターに入ってくれないか、というものだった。私のアパートが店の数十メートル先なので白羽の矢が立ったのだろう。
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 疲れてはいたが、明日提出という課題やレポートもなかったので、分かりましたと言って冷たい水で顔を荒い、目を覚まして店に向かった。店に入るとほぼ満席だったと記憶する。カウンター内では春樹さんがひとりで孤軍奮闘していた。私はエプロンをしながらカウンターに入り、早速サンドウィッチ作りやつまみの用意をした。そんなこんなで、なんとか忙しい夜を乗り越えた。たぶん後で、Yには陽子さんがきっちり説教をしたと思うのだが、その顛末までは覚えていない。恐らく課題に詰まってパニックになっていたか、彼女と遊んでうっかりバイトの日である事を忘れていたのだろう。そういう私も、きつい課題とバイトの入れ過ぎとで過労からインフルエンザにかかってしまい、店のバイトを休んだことがある。
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 その時は、「ピーター・キャット」で私が寝込んでいると聞きつけたバイトのKが、私と同じ専攻の彼女を連れて来た。編み上げブーツを脱いだり履いたりする度に5分かかるとKが笑っていたが、その彼女が卵酒を作ってくれて、私に無理矢理飲ませて帰って行った。これはまあ有難かったが、見舞いに来た別の友人は、ストーブをガンガン焚いてるから40度もあるんじゃないのと軽口をたたいて帰って行き、店でもその話をしたらしく、後で散々からかわれた。まあ、インフルエンザは、B.C.412年に「ある日突然に多数の住民が高熱を出し、震えがきて咳がさかんになった。たちまち村中にこの不思議な病が拡がり、住民たちは脅えたが、あっという間に去っていった。」という、まさにインフルエンザを示唆するヒポクラテスの記録がみられるように古代から人類を苦しめたものであるし、日本では『日本三代実録』に「(862年)1月自去冬末、京城畿内外、多患、咳逆、死者甚衆……」とある。死ななかっただけよしとしよう。
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 お客にも色々な人がいた。国立に「シモン」と「プレンティ・シモン」という喫茶店ができた。国立でデートをする時は、決まって大学通の二階にある「プレンティ・シモン」に行った。所謂ジャズ喫茶ではないけれど、BGMにはジャズが流れていた記憶がある。ガラス張りの明るい店内からは、大学通の桜並木が見えた。ある日、その社長が社員を引き連れて店を訪れた。よりによって彼はアイスティーを注文した。喫茶店で働いたことがある人は分かるだろうけど、アイスティーは結構難しい。クリームダウンという紅茶が白く濁る現象が起き易いのだ。一回目は失敗した。あちゃ〜っ!と悔しがっていると陽子さんが可哀想といって笑った (そこ笑うとこか?と思ったが)。冷汗が出たが、三回目ぐらいににようやっと成功した。やれやれの夜だった。
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 茶葉に含まれるカテキンとタンニンが結合し結晶化する現象なのだそうだ。コツはタンニンの少ないアールグレイなどの茶葉を選ぶことと、急冷すること。しかし、分かっていても失敗する時は失敗するのです。やれば分かる。完璧に透明なアイスティーを作る事がどんなに難しいか。たいていの喫茶店は、半分濁った様なアイスティーを出してくるだろう。ほとんどの客は何も気づかずに飲んでいるはず。
 シモンの社長は、「ピーター・キャット」のフローティング・キャンドルを取り入れたり、いいものは全部取り入れる感じで、吉祥寺、原宿、渋谷と店舗を広げて行った。アルバイトも可愛い子が多かった。「ピーター・キャット」では、そんな辣腕の彼のことを国立の糸山英太郎と呼んでいた。だが、彼女との想い出が詰まった懐かしいその店も、今はもうない。
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「キャット」の仕事に入る前は、まず夕食を食べてから銭湯に行くのが決まりだった。食事はたいていすぐ近くの定食屋「あかぎ」か近所の中華食堂だった。私は野菜が好きなので、いつも野菜たっぷりのメニューを選んだが、それでも外食は野菜不足になる。そんな時は、例の雪合戦の親爺のいる八百屋で買って来ては 野菜炒めを作って食べたものだ。実家が農家だったので、私は野菜には煩い。息子達も信州から送られて来る野菜と、近所の無農薬の無人販売の野菜で育ったので煩い。ある時、信州から送られて来た伝統野菜の丸ナスを、なにかのお礼で友人にあげたら、その家のナス嫌いの子供が、僕このナスなら食べられると言って喜んで食べたそうだ。その時、野菜嫌いのその子は実は、本当の野菜の味が分かるのではないかと思ったものだ。
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 息子達が小さい頃、隣に「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のジャッキー吉川さんが住んでいた。最初引っ越して来た時、ずいぶん似ている人がいるもの だなあと思っていた。ある夜、懐かしのグループサウンズの番組を観ていた息子達が、突然「あっ、隣のおじちゃんだ!」と言った。えっ!?と思って翌朝だったか「ひょっとしてジャッキー吉川さんですか?」と聞いたら「あっ、ばれちゃった?」と。それからおつき合いさせていただいた。息子達は可愛がってもらった。ある時、信州から送って来た大きな固定種のホウレン草を差し上げたら、「美味しくて甘くて、よく洗って根っこまで食べちゃったよ。」と言われた。お礼に昔ながらの製法の本造り塩鮭をい頂いた。やはり山歩きが好きで、一緒に登りたいねと言っていたのだが、果たせなかったのが残念である。
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 市販の野菜のほとんどはF1種(自殺種)だ。栄養も1/2か1/3しかない。カスを食べているようなものだ。固定種は歩留まりが悪く形も不揃いだが旨い し栄養もある。そして、F1種の行き着く先は、危険極まりない遺伝子組み換え作物である。TPPに入れば、伝統野菜は消えてしまうだろう。それは、郷土料理の消滅、日本の食文化の消滅を意味する。都会の多くの人は、そんなことも知らずグルメに興じている。野菜ソムリエなど片腹痛い。アルバイトの話が野菜の話になってしまったが、実は私が最初にしたアルバイトが、中学生の時の玉葱採りだった。毎日、ひたすら玉葱を抜きまくった。
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 このブログを始めて思うのだが、記憶というのは系統的に連続して脳に収納されているわけではなく、断片的にバラバラにある。しかも、思い込みというのが あって、自分に印象的な(都合の良いとは限らない)記憶が増幅される傾向にある。私の場合は楽天的なので、相当自覚しないと皆いい想い出になってしまうのだが、人によっては自覚できないトラウマによって(この言い方は変だ。自覚できないのがトラウマだから)、全てを悲劇的な想い出にしてしまう人もいる。記憶の断片を探る作業というのは、春樹さんがいう心の地下室に下りて行く作業だ。これに関しては、個人的に非常に関心を持たざるを得ない状況に追い込まれた事もあったし、勉強もしたので、いずれ書いてみようと思う。人を最もトラウマに陥れるものは、戦争だ。戦争が破壊するのは、街や自然だけではない。人の心を永きに渡って破壊する。戦国時代の農民の言葉に「七度の飢饉より一度の戦」という言葉がある。

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 今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」でリクエストの多かった、女性ジャズボーカルについて。「ピーター・キャット」に行った事があるとか、働いていたとか、演奏したぞとか、当時の国分寺や国立情報とか、当時のムサビや近隣大学の情報等、お気軽にコメントをください。

「ピーター・キャット」以外のユニークなバイト。それはスラップスティックな世界

『70年代は、オーディオブーム。そのために必死で「ピーター・キャット」等のバイトをした日々』で書いたが、大学一、二年の時はアルバイトに明け暮れた。「ピーター・キャット」のバイトは、週に2、3回ぐらいだが、その他にも色々なユニークなバイトをした。そして、それはスラップスティックな世界だった。当時既にアルバイト情報誌というものはあった。しかし、ほとんど全てのアルバイトは、知人、友人の依頼や勧誘によるものだった。美大ということで、一般の大学生ではできない特殊な仕事だったということもある。オイルショックもあったが、まだ外国人労働者もいない頃なので、学生のアルバイトは豊富だったのだろう。
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 日本橋にある有名な寝具メーカーで、寝具のデザインの手伝いと版下を作るアルバイトをしたことがある。国分寺から遠いので通うのが大変だったが、人形町辺りの下町の雰囲気は、田舎出身には和むものがあり、遠距離も苦にはならなかった。デザインは、ほとんど社内のデザイナーが仕上げるので、我々がしたのは補助的なものだった。主な仕事は、その版下を作る作業だった。モチーフは、プレイボーイのバニーだった。私は、マジソン・スクエア・ガーデンのバッグもプ レイボーイのトレーナーも買った事はないが、日本版の月刊誌も発売されて、特に団塊の世代には人気があったのだろう。
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 仕事は、小さな兎のマークやロゴを並べて、シーツや布団の柄を作るのだが、その作業場が変な所にあった。地下にあったのだが、その暗室に行くには、なんと女子社員の更衣室を通って行かないと行けないのだ。昼間はいいのだが、夕方から暗室に入らなければならない時は、女子社員のお姉様方が着替えをしている中を「すみませ〜ん、すみませ〜ん」と言いながら通らなければならないのだ。竜宮城の向こうにタコ部屋がある。そんな感じだった。
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 そんなある日のことだ。やはり夕方から暗室に友人と二人で籠りっきりになった。昼間二人で作った小さな兎を並べた版下を何枚も印画紙に焼き付けていくのだ。社員のデザイナーは帰宅してしまっていた。アルバイトだけ残して社員が皆帰ってしまうというのも珍しい会社だなと思ったが、それだけ信用されているんだろうと思う事にした。細かい面倒な作業が進行していく最中に、相棒がぽろっと呟いた。
「プレイボーイの兎って右向きだっけ……。」、「え〜!!!」。ドッカーーーーン!(暗室の天井を突き破って、本社ビルの各階を突き破り、二人が人形町の空に飛び出した音)
 蝶ネクタイをしたバニー・ヘッドは、正しく皆左向きである。目出たく一から作業のやり直しであった。その夜、我々が泣きながら深夜まで作業したのは言うまでもない。ちなみに、プレイボーイのマークに兎が採用された理由に、兎は人間と同じく年中発情期だからだという説がある。ヒュー・ヘフナーめ。「ピー ター・キャット」には、村上夫妻がつけた、ウサコというニックネームの女の子がいたが、確かにバニーガールのコスチュームが似合いそうな美しいボディだっ た。
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 谷保の田圃の中にあるイベント会社でのアルバイトもユニークだった。なんと、ここにも兎がいた。残念ながらイベント用のバニーガールではない。仕事は多岐に渡ったが、ほとんどがきつい肉体労働であった。中でもきつかったのが調布市民文化祭。大きな入場門は会社の庭で作った。ペイントや絵描きはお手の物なので楽しかったが、この巨大な門の搬送と設置は大仕事だった、それよりもきつかったのが、メインストリートへのテントの設営とステージ作りであった。何十張りものテントの支柱を運び、設営するのは重労働。さらに、ステージの設営が大変だった。まずパイプで足場を組み、そこへ平台という重い台をかついで乗せて行く。経験者は分かるだろうが、この平台が20キロ以上あり重い上に担ぎにくいことこの上ない。やっと並べてパンチカーペットを敷けばできあがりである。この上で調布の芸達者なおば様達が踊ったり、マイナーなアイドルが歌うのである。イベント中は暇なので支給された弁当を食べながらアホ面下げてステー ジを観たりしたのであった。もちろん最後には、辛い撤収作業が待っていた。門の制作以外は、体育大学の学生向きのバイトだった。
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 武蔵村山の市民祭だったと思うが、体育館で行われるアイドルのコンサートの設営に行った事がある。体育館中に、まず重いゴムのロールマットを広げて行 く。結構大変な作業だ。次にロールのゴザを敷いて行く。それで終わりである。私がひとりで、ステージ脇の跳び箱等が置いてある部屋に用具を片付けに行くと、ちょうどアイドルの卵がひとりでステージ衣装に着替え中だった。ごめんなさいと言ってすぐに出たが、薄ら寒い用具置き場で着替えしないといけないなんて、アイドルの卵も大変だなと思った。夕食の弁当をもらって体育館の二階に登り、彼女のショーを観た。体育館は老若男女で満員になった。5、6人のバンドで彼女の歌が始まった。当時デビューした山口百恵キャンディーズのような、白いフリフリスカートの衣装で彼女は歌い踊ったが、名前も歌も全く記憶にない。可愛い子だったが、誰だったのだろう。
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 外国ではあまり聞いた事がないが、社内運動会というのが日本にはある。その設営も結構大変だった。大玉や玉入れの篭や綱引きの綱、バトン等、用具一式は もちろん、ライン引きやゴールでのテープ持ちやスターターもやったりする。時には人数が足りなくて、社員のお姉様と肩を組んで二人三脚をしたりもするのであった。これは楽しかった。ところで、あの兎だが、会社の広い庭の片隅に小屋があった。最初我々はイベントで使うために飼っているのかと思った。それもあるらしいが、よくよく聞くと忘年会に兎鍋にして食べるために飼っているということが分かった。実にワイルドな会社であった。
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当時、創刊された雑誌の創刊号(ポパイだけは2号)


 一年の夏休みだったと思う。誰かのつてで『non-no』のバイトが入った。『non-no』といえば、1971年(昭和46年)5月25日に、前年に 創刊された『an・an』に対抗して創刊されたご存知集英社の女性向けファッション雑誌。当時は、アンノン族という言葉を生み出したほどの人気雑誌だっ た。今は日本人モデルが全盛だが、当時は外国人モデルばかりだった。ファッション・グルメ・インテリア・旅という定番企画が生まれたのも この頃だ。仕事は、インテリア企画の一環で、本社近くのスタジオでモデルルームを作る事だった。当時のある号を見ると、「この春の木綿/銀座/花のあるインテリア」等というタイトルが並んでいる。作ったのはA子さんの部屋みたいな感じだったと思う。
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 作業は、女子社員とスタイリストの指示に従って部屋を作って行くのである。まず部屋を作る。壁紙貼ったり小物を作ったりはお手の物。常時ついた女子社員がまだ新入りで、リードは外部スタッフのスタイリストがとらざるを得なかった。作業に行き詰まると、時には我々がアイデアを出す事もあった。連日深夜まで 続くハードなアルバイトだった。しかし、雑誌全盛期である。夕食などは、編集長自ら近くの豪華な中華料理屋に連れて行ってくれたこともあった。仕事は終電過ぎまで続いたので、神保町から国分寺までタクシーで帰った。今思えば、随分と贅沢なバイトだった。
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『non-no』は、その後も縁があって、西麻布の丘の上にある洋館のデザイン会社に出向で働きに行っていたことがあるが、その会社が『non-no』の仕事をしていた。ガーデンパーティーには、外国人モデルの女の子が沢山来た。北国生まれで肌が弱く、肌荒れに悩んでいた私に、ベビーローションの無香料と ウィッチヘーゼルのハマメリエキス入りアストリンジェントを勧めてくれたのも、そんなモデルの女の子のひとりだった。まだ10代の彼女は、たったひとりで アメリカから日本へ働きに来ている事、いずれは世界的なヴォーグやエルの雑誌に出たり、パリコレに出られる様なモデルになりたいという夢等を語ってくれた。フランス人形の様な可愛い容姿とは全く異なる強い意志を持っていることに驚いたものだ。
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 モデルといえば、美大や芸大では、たいていヌードデッサンの授業がある。一般の人は奇異に感じるかもしれないが、美大生はたいてい研究所時代に経験しているし、男女の学生がいるが、描く事に集中するので特にどうということはない。モデルは劇団員の女性や専門のモデルと様々だが、一様にプロなので照れる事もない。休憩時間には雑談したこともあった。たいていは20代な半ばの女性だが、稀にピチピチの若い劇団員が来たりすると、男共は普段以上に頑張って描いたりしたものである。ヌードモデルは確かに報酬がいいが、20分ジッとポーズをとって10分休憩で計3時間とか、大変な仕事であることは間違いない。
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 青学の近くにある高級輸入家具の店でのアルバイト。当時でも100万円以上のものばかりで、気を遣う仕事だった。ただバロックやロロコ様式の家具が多く、さすがに欲しいとは思わなかった。20世紀のアール・ヌーボーアール・デコバウハウスの家具などには憧れたが、学生にはとても手が出せる値段ではなかったし、四畳半のアパートに合うはずもなかった。しかし、好みは別としてそれらの洗練され磨き上げられたデザインと技術は、非常に勉強になった。昼食は、近くにある青学の学食を利用することが多かった。美大とは異なる雰囲気が新鮮だった。後に青学の図書館の検索マニュアルのディレクションやデザインをすることになろうとは、想像もしなかったが。
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 こんな感じのアルバイト事情であった。能天気で楽しそうに思えるかもしれないが、アルバイトを入れすぎて過労で寝込んだこともあった。そして、実は卒業時が大変だった。オイルショックで企業が採用を控えたのである。特にデザイン系は最悪で、多くの広告代理店や企業が募集を取りやめてしまった。そこから、 私の冗談抜きのスラップスティックな人生が始まったのである。
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今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」のアルバイト事情。突然叩き起こされて・・

村上夫妻の三角地帯からの引越し、友人の引越し。獣の臭いのする布団

「今度引越しするから手伝ってくれない?」と春樹さんに言われたのが、75年の春だったと思う。まず当時の地図を見て欲しい。国分寺駅からの西武国分寺線と中央線が分岐する通称三角地帯(村上夫妻命名)に、その家はあった。正確にいうと2013年現在も、Googleマップで見るとある。 Googleストリートビューで見ると三角地帯の手前のY字路でストリートビュー・カーが反転しているので、その先のカーブの向こうにある三角地帯の家は見る事ができない。しかし、中央線を挟んで南側にある75年の地図では都営第八住宅、現在は都営泉町一丁目アパート10号連の東側の通りからは、その家が見えるのだ。濃いグレーのスレート瓦に色あせたブルーのペンキで塗られた小さな家。驚いたことに当時のままだ。現在住人がいるのかは分からないが、無闇に 行って迷惑だけはかけないで欲しい。

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1974年当時の国分寺と引越し先や店など

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 この小さな家に初めて行ったのは引越しの日だった。確か私とバイトのKと、後でバイトをすることになったHの三人で、レンタカーの2トン車のトラックで行った様に記憶している。Y字路のところで方向転換してバックで路地の手前につけた。初めて見たその家は、驚くべき場所にあった。なにせ二つの線路に挟ま れた岬の先端のような所だったから。皆で笑ったというか驚いたものだ。その住み心地については、「カンガルー日和」の「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」に春樹さんが書いている。Googleマップの航空写真を最大限に拡大すると分かるが、家の北側の屋根が北へカーブして行く西武国分寺線に沿って ギザギザになっている。つまり、その屋根の下の部屋の形がギザギザなのである。狭い敷地の中で、精一杯広い部屋を確保しようとした涙ぐましい工夫の結果な のだろう。実物を見たら、「チーズ・ケーキのような形をした」というのは、かなり無理な表現だと思うだろう。ギザギザな青いチーズ・ケーキなど見た事はないからだ。もし、この家が空き家になったなら村上春樹記念館にしてくれないかなと冗談半分に思う。
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 引越し荷物の大半は春樹さんの本だった気がする。本の詰まった重い段ボール箱を何度も運びながら、古本屋が開けるねと笑いあったものだ。荷物を積み込んで向かった先は、中央線を渡って南東方向の野川沿いにあるメゾン・ケヤキである。三角地帯からメゾン・ケヤキ天と地との差がある響きだが、実際の家もそうだった。距離にすれば、わずか600m余りなのだが、これがそう簡単にはいかなかった。近くに南に渡る陸橋がなく、駅に抜ける中央公園南の道は車は通れない。そこで日立中央研究所の広い敷地をグルーッと回って花沢通りに入り、花沢橋(陸橋)を南下して多喜窪通りに出る。左折して急坂を下ると、やっとメゾ ン・ケヤキである。だいたい国分寺は、中央線によって南北に分断されていた。昭和31年にできるまでは、南口さえなかったのだから。もっとも南口といっても、平屋の簡素な駅舎と売店と臭いトイレがあるだけだった。当時は、今の様に自由通路もなく、北口に行くには入場券を買うか、東のガードをくぐるか、西の花沢橋を渡るしかなかったのである。もの凄く不便な街だった。
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 新居のメゾン・ケヤキは、野川の脇にあり、前の多喜窪通りは盛り土がしてあるため、通路を入って行くと、そこが二階だった。部屋は確か二階だったと思う。記憶では三階建ての白いお洒落なマンションで、名前の通りケヤキの木があった。間取りはよく覚えていないが、結構広いリビングがあり、他に寝室とダイニングキッチンと風呂があったのではないかと思う。リビングに入ると、すでに春樹さんが発注してあった分厚いラワン材で作られたチョコレート色の箱が沢山積み上げられていた。春樹さんの膨大な書籍を入れる本棚だった。これはいいねと皆思ったが、今考えると地震には相当弱かったと思われる。当時、大地震がなくて良かった。
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 引越しは順調に進み、夕方前につつがなく終わった。私たちは引越し蕎麦だったかは忘れたが、食事と風呂を頂いた。たぶんビールもごちそうになっただろ う。実は頂いた風呂に関して面白いエピソードがあるのだが、それは忘れたことにしておく。とにかく、わずか一年で、あの魔の三角地帯から抜け出せたのだから「ピーター・キャット」は、なんとか軌道に乗ったということだったのだろう。春樹さんも、やれやれと思ったはずだ。
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 当時の学生の引越しというのは、たいていレンタカーを借りて友人が集まってやった。田舎から出てくる時以外は引越し業者は使わなかったと思う。使っても 赤帽ぐらいか。私なんぞは、最初は従兄のギャランGTに布団と最小限の家財道具だけ積んで上京したものだ。どうでもいい事だが、私は最初のレオーネ.ツー リング・ワゴンから今のフォレスターまで、全部スバルである。車は道具だという考えの元に、最も質実剛健で実用的な車と選んだ結果に過ぎないのだが。特にそれ以上の思い入れはない。ただ、息子達は私以上にスバリストで、ペーパークラフトも作っていてテレビや新聞、スバルの『カ−トピア』の取材を受けた事がある。「T & T STUDIO」が彼らのサイトだ。最近は自転車のペパクラも作っている。学生時代の自転車には思い入れがあるので、いつか書こう。
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 春樹さんの引越しから数年後のことだが、国立駅北口の丘の上にある古いマンションに住んでいた友人 I の引越しを友人三人で手伝ったことがある。トラック を借りて荷物を積み込んだが、その際布団セットを積もうとして、皆が仰け反った。布団が獣の異様な臭いがするのである。気を失いそうになった。理由を考えた。彼は学生時代に米軍ハウスに住んでいて、ビリーという小型の黒い犬を飼っていた。コッカースパニエルだったかな。ビリーは、我々が行くと狂喜乱舞して放尿しながら部屋の中を走り回る癖があった。それだ。彼は何年もその臭いの中で寝ていたので、なんとも思わなくなっていたのだろう。しかし、堪え難い酷い悪臭だった。我々は、こんな布団に寝ていたら絶対に病気になる捨てろと言って、彼がいやまだ充分使えると言うのを振り切って無理矢理捨てさせた。その判断は正しかったと、今になっても思う。
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 その彼が引越した先は、同じ国立の旭通りにできたばかりのワンルームマンションだったが、そこがまた信じられない所だった。マンションの玄関ロビーは大理石。各階のエレベーターホールには絨毯が敷かれ、一見高級マンションの様。ほう凄いね豪華だねと言いながら部屋に入って全員が再び仰け反った。天井に手が届くのである。おまけに広い窓に比べて横長の部屋の奥行きが異様に狭く視覚的に不安定。落ち着かないのだ。いつも大きな窓の列車に乗っている様な部屋といえば理解してもらえるだろうか。しかも、驚いた事に部屋の角に高さ1mちょっとの不思議な金属の四角い柱がニョキッと立っているのである。なんだこれは!?と訝しがる我々に彼がした説明は驚愕のものだった。
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 まず窓を開ける。次に柱の先端を引き抜いてベルトの様な固定器具を出す。折ると、それが窓の外に出る。なんとそれは非常用の脱出装置だったのである。腰にベルトを固定し、窓の外に体を投げ出すと降下器が働いて地上まで脱出できるというものだ。しかし、彼の部屋は確か七階だった。高所恐怖症の人はまず助からないマンションであった。我々はただただ呆れて大爆笑するしかなかった。他にも、どうやって料理するんだという狭い台所や、牛乳パックと缶ビールと豆腐 を一丁入れたらいっぱいになりそうな小さな冷蔵庫等、突っ込みどころ満載のマンションであった。住めば都だったかは、彼のみぞ知る。
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 引越しといえば、私は37年の東京暮らしで、実に11回の引越しをした。そう、引越し魔である。私は小さな頃から好奇心が強く、しかも放浪癖があった。 小学校の頃、自転車に乗れる様になると、どこまでも自転車で行った。ある時などは、友人と三人で犀川信州新町にある久米路峡まで20キロのサイクリング に出かけたが、西山を超えて帰る途中に日が暮れて来てしまい、友人の母親の実家にやっとたどりついて一泊させてもらったことがある。当時は電話がなく、有線電話が主で各自治体で別れていた。なんとか伝言でつないでもらって、今夜は帰らないことを家に伝えてもらったが、帰って大目玉をくらった。捜索願を出す寸前だったと言われた。しかし、そういう事はこれだけでは済まなかった。まだまだ色々ある。その挙げ句のアマゾン放浪である。

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これらのペーパー・クラフトは、息子達の作品。詳細は、T & T STUDIO


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 今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」以外のユニークなバイト。それはスラップスティックな世界

「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語

「ピーター・キャット」の店名は、村上夫妻が飼っていた猫の名前に由来するが、マッチのイラストは、英国の数学者で作家のルイス・キャロルこと、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンの『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫(Cheshire cat)。絵はジョン・テニエルによるものである。出版は、1865年なので当然著作権は切れている。「チェシャ猫のように笑う」という英語の慣用表現から作られたキャラクターで、意味のない笑いを残して消えてゆく不思議な猫。
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不思議の国のアリス』は、絵本やディズニーでは実写やアニメで何度も映画化されていてお馴染だろうが、少女が主人公なので男子の読むものではないと 思っている人もいるようだ。しかし、原作の題名が「Alice's Adventures in Wonderland」とあるように、本来は『不思議の国でのアリスの冒険』と訳すべきもので、冒険小説である。
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 作者のルイス・キャロルが、偏頭痛持ちで、モノが小さく見えたり大きく見えたりする体験(不思議の国のアリス症候群)から、この本を書いたともいわれているが、駄洒落やナンセンス、夢や幻覚、パロディや皮肉、ゲームやなぞなぞなどの要素がぎっしり詰まった、実は奥の深い物語である。故に世界で聖書の次に多く読まれる本といわれるほど人気があるのだろう。「不思議の国(ワンダーランド)」は、後に春樹さんが『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という小説の題に使っている。なにか繋がるものがあるのかも知れない。
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 村上夫妻が猫好きだったためか、はたまた偶然集まったのか、「ピーター・キャット」のアルバイターには猫好きが多かった。私もその一人である。誰にもらったかは思い出せないが、ある時小さな茶虎をもらった。私のアパートは、もちろん動物は飼ってはいけないのだが、内緒で飼うことにした。名前をキースとした。そう、キース・ジャレットのキースである。茶虎は、猫のくせに愛想がよくおっとりしている。ちょっと間抜けなところもあるが、好奇心は強い。
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 ある夜、就寝中にものすごい鼾(いびき)が頭の中でするので目が覚めた。頭の上の方で音がしたので頭を少しもたげて見ると、キースがやはり目覚めてなんで起こすんだよという顔をした。枕の上で、私の頭に頭をくっつけて寝ていたため、頭蓋骨から彼の鼾が伝導してきたのだ。まあそんなで、楽しい日々は過ぎて行ったのだが、悪いことはできないもので、ひょんなことから猫を飼っているのが大家さんにばれてしまい。泣く泣く手放すことになった。たいしたことではないのだが、ある事情で蚤が大発生して両隣の部屋に侵入したのだ。大家さんが、優しいおばさんだったので追い出されることはなかったが、猫は友人に預けるこ とになった。
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 それが、国立の小さな庭付きの一軒家で同棲していた吉田君とHさんだった。二人は東経大ジャズ研のメンバーで、店の常連だった。後に我々がバイトを止めた後、バイトに入った。彼らの練習を見にジャズ研の汚い部室に行ったこともある。同棲していたなどと書くとHさんが女性に思えるが、笑顔の素敵な大きな男性である。吉田君は、春樹さんのエッセイにも出て来る人で、トランペットをやっていた。以前は、国立の旭通りで「キャンディ・ポット」 というジャズ喫茶をやってたが、現在は富士見通りの金水ビル地下1階に移転したそうだ。私は南米から帰国した後、ブラジルで買ったサンバの女王・アルシ オーネのアルバムを持って行ったことがある。雰囲気のいい落ち着く店だ。テレビを見ないので知らないのだが、最近はなんだかタレント稼業をしているらしく CMで見るそうだ。最近若い奥さんとの間に赤ちゃんができたそうで、うらやましい限りである。
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 そんなある日のことだった。大学の授業がなかったので日曜日かもしれない。ドアをノックする音がした。開けるとHさんが悲しそうな顔をして立っていた。「ごめん。キースが死んでしまった。」、「えー………………。」
 取る物も取りあえず、中央線に乗り国立に向かった。丸山通りの坂道を国分寺の駅に向かいながら、死ぬにいたった経緯を聞いた。二人は、富士見通りから少し入った竹やぶに囲まれた小さな一軒家に住んでいた。ここが東京かというような草庵だった。部屋に入ると吉田君と死後硬直して横たわったキースがい た。
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 死んでいるのを発見したのは、確か隣家の人だった。お宅の猫がうちで死んでいると言いに来たらしい。なんでも隣家が置いておいた鼠捕りの毒団子を誤って食べてしまったらしい。間抜けな茶虎キースらしい最後だった。三人で小さな草だらけの庭に穴を掘り、簡単な葬式をして、キースをタオルに包んで埋めた。その晩は、たぶん「ピーター・キャット」に行ったと思う。二人は死なせてしまってものすごく申し訳ないと謝ってくれたが、私は二人に責任は全くないと思っていたので、今まで預かってくれてありがとうと思っていた。それをどう口にしたかは覚えていない。確か陽子さんは慰めてくれた。春樹さんは慰めつつも、なに かシニカルなことを言ったような気がするのだが、はっきりと思い出せない。ショックな出来事ではあったが、それが彼の運命だと諦めることにした。そういえば、吉田君は村上夫妻から、眼が青と金色の白い猫をもらったことがあった。名前は「かもめ」。
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 写真の「ナオコ」は、村上夫妻が飼っていたが、もう一匹の猫とどうにも折り合いが悪く、喧嘩ばかりするので、私の友人Hがもらい受けたものだ。見て分かる様に目つきがキツい。決して悪い猫ではないのだが、気位が高い猫らしい猫だった。何度遊びに行っても私には懐かなかった。「ナオコ」という名でピンと来た人もいるだろう。実はこの「ナオコ」には、命名の元になった実在の人物がいる。ストレートのロン毛で前髪パッツンの色白な可愛い女性だ。ターコイズブルーダンガリーシャツとブルージーンズのマキシスカートがよく似合っていた。仕草が猫の様な女の子だった。一時期好きだったのだが、猫の「ナオコ」同様、私には懐いてくれなかった。
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 その後、私は男友達と南麻布にあるフランス大使館横の2DKのマンションに住んでいたことがある。動物OKだったので、猫を二匹飼った。たしか南青山の 写植屋の奥さんからもらったものだ。雌の白と雄の白茶で、雌はローズマリー、雄はシナモンと名付けた。二匹は仲良しで、いつもじゃれあっていた。部屋に布のサンドバッグを下げ、鴨居に三角の厚いスチレンボードの棚を作ってやって登れる様にした。棚には真ん中に穴があって、そこから下を覗く二匹が可愛らしかった。
 いつも、狭い部屋では可哀想と、バスケットに入れて代々木公園まで行き遊ばせたこともあった。当然縄張り外なので、最初はバスケットから出ようともせず、無理矢理出すと恐る恐る芝生の上を歩いていたが、やがて慣れると木に登ったりして遊び始めた。
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 そんな二匹であったが、猫はすぐに大きくなる。大きくなると活発になる。じゃれあいも時には激しくなる。特に雄のシナモンが乱暴になってきた。ある日、 同居していたSが、ローズマリーの様子が変だと言って来た。見るとぐったりしている。熱もありそうだ。体中を調べてみると、腹部に化膿した傷があった。かなり前から傷があったようだった。恐らくシナモンが傷つけたのだろう。当時二人とも赤坂のデザイン事務所で、ある発電所のコントロールパネルの実物大模型を作っていたのだが、私だけ仕事に出向き、彼に動物病院へ行ってもらうことにした。
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 昼頃だったか、彼が仕事場に来たが涙ぐんでいた。ローズマリーが息を引き取ったという。信じられなかったが事実だった。傷を負ったことにもっと早く気がついていればと自分たちを責めたが、もう遅かった。ローズマリーは、湘南の逗子のとある椰子の木の下に眠っている。息子達が小さい頃、何度もその辺りに遊びに連れて行ったが、行くたびにローズマリーのことを思い出さずにはいられなかった。それ以降私は猫を飼っていない。
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 私が持っている『不思議の国のアリス』。Alice's Adventures in Wonderland -1907's 1st Edition 【不思議の国のアリス

 チェシャ猫は、2分49秒に出て来るが、店のマッチのイラストとは違う。『不思議の国のアリス』は、世界中から色々な本が出ているが、イラストはこれが一 番好きだ。スライドショーのBGMは、GarageBandによる私の作曲で[Alis01]。作曲といってもパーツを組み合わせてミキシングしただけ。


Alice's Adventures in Wonderland -1907's 1st Edition 【不思議の国のアリス】


 実はこの本は、76年の春休みにロンドンの書店街、Charing Cross Road と St. Martins Lane をつなぐ Cecil Courtの小さな古本屋で見つけたもの。記憶が間違っていなければ確かそうだ。当時つきあっていたピアニストの彼女がロンドンに留学していて(美人で才能豊かな女性だった)、私もR.C.A.にプチ遊学ついでにイースターの休みにフラットを借りて滞在していた。書店街では、たくさん画集などを買った。
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 この本は、1907年に出版されたもので初版本。100年以上前の本だ。挿絵はアーサー・ラッカム(Arthur Rackham 1867年9月19日 - 1939年9月6日)。『不思議の国のアリス』、『ニーベルンゲンの指輪』、『ケンジントン・ガーデンのピーター・パン』など妖精や動物たちを描いた可憐で繊細な絵を書いた画家。本は1908年のクリスマスにプレゼントとして贈られたもののようだ。ペンで書かれたLANCE HOUSEというメモが気になる。検索してみると、イギリス南部のブリストル近郊の田園地帯にある部屋がわずか2つの小さなホテル(B&B:ベッ ド・アンド・ブレックファスト)がヒットした。創業何年とは書いてないが、もしここだったら凄い。100年以上前だから、改築はされているだろうが。本の傷み方からすると、相当愛読されたようだ。いったいどれほどの英国の少年少女達の胸を躍らせたことだろう。
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ALICE'S ADVENTURES IN WONDERLAND
A Macmillan Pop-up Book

 これは、息子達が小さい時に買った『不思議の国のアリス』の立体絵本。私は立体絵本が好きで、ナショナル・ジオグラフィック熱帯雨林や恐竜の立体絵本などを買っては息子達に見せていた。『かいじゅうとう』や『おばけやしき』などは、いきなり開くと小さな息子がひっくり返るほど驚いて楽しかった。彼らの性教育も『生命の誕生』というほるぷ出版の立体絵本だった。
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 信州の田舎では、飼い猫も野良猫もそう違いはない。朝目覚めると、畑を通り過ぎて土手を越え、千曲川の河原に出かける猫が必ずいる。河川敷の葦(ヨシ)の中にいる野鼠を狩るためだ。夕方、河原で佇んでジッと北アルプスの稜線に沈む夕日を見ている猫もいた。なにも獲れなかったらしく、しばらくしてとぼとぼ と帰って行った。田舎の猫は普段人に構われないので、子猫は別として、猫じゃらしやチッチッチという音に反応しない。その代わり猫の鳴き真似をするとえらく反応する。そんなことをする人間がほとんどいないからだが。厳しい暮らしでも、都会の残飯をあさっている野良猫よりは、いい「猫生」かもしれない。
借りて来た猫」。私のブログ「モリモリキッズ」の記事。猫の諺、猫のジョーク、猫の俳句等。笑える話です。
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 今日はここまで。次回は、引越しについて。村上夫妻の三角地帯からの引越し、友人の引越し。獣の臭いのする布団