『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

ラプソディ・イン・国立。雨上がりの夜空に・・・近くにいた忌野清志郎

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 ラプソディとは、狂詩曲のことをいうが、語源は古代ギリシャの吟遊詩人達の即興詩。おもにホメロス叙事詩の断章であるrhapsōǐdiaに由来する。「ラプソディ・イン・国立」は、もちろん故忌野清志郎率いるRCサクセションの1980年のアルバム『RHAPSODY』(ラプソディー)に因むもので、「忌野清志郎 雨あがりの夜空に 」は、その中の代表的な曲のひとつ。「こんな夜にお前に乗れないなんて、こんな夜に発射できないなんて」というエロチックな比喩の歌詞は、夕立の後に草いきれの立つ国立の夏の夜を想いださせる。彼の歌にある「多摩蘭坂」の坂下を彼女と横切って歩いた夏の夜。サルビアの赤い花が、月明かりに映えていた。
「お月さまのぞいてる 君の口に似てる キスしておくれよ窓から」
原発いらねえと、天国でも歌っているだろう・・。

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 76年の春に、私は国立へ引っ越した。理由は、3年になって課題が忙しくなるため「ピーター・キャット」のアルバイトを止めた事。国立の街が気に入って前から住みたいと思っていたこと。大学へ電車ではなく高校時代の様に自転車で通いたいと思った事。自転車は自由だからね。子供の頃、初めて自転車に乗れる様になって一気に行動半径が広がった喜びは、いつになっても忘れないものだ。もっとも、そのために日帰りで帰れない所まで行ってしまい、這う這うの体で知人や親戚の家に泊めてもらったことが何度かあった。
 そして、もうひとつ、当時つきあっていた彼女の家が借りたアパートから徒歩で行ける距離にあったこと。 これが一番大きかったかな。アパートから駅に向かうと、都営第十住宅の先で急坂を下る。国分寺崖線坂上からは、まだ高いビルがなかったので、国立の街と多摩の山々のスカイライン、天気が良ければ富士山が見えた。坂上には5月になるとマーガレットの花がたくさん咲いた。
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 上の地図は、76年当時の国立。右の青丸は、私が借りていたアパートの場所だが、今はない。両側に外階段の付いた各階二部屋ある二階建てのモルタルアパートで、6畳間に2畳ほどの板の間の台所とトイレがあった。隣は確か多摩美の学生で、階下は若いホステスのお姉さんが住んでいた。左の青丸は、友人が住んでいた米軍ハウスがあったと思われる場所と思ったが、彼がいたのは立川市羽衣町なので、もう少し西の様だ。「キャンディ・ポット」は、『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で書いた吉田君がやっているジャズ喫茶。以前は国立の旭通りだったが、現在は富士見通りの金水ビル地下1階に移転したそうだ。他に当時つけたと思われる赤鉛筆で書いた赤丸があるが、これがよく思い出せない。たぶん友人が住んでいたアパートの場所だと思うのだが・・。
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 地図を見るとよく分かるが、南北に延びる大学通りを中央に、東(右)の旭通りが大学通りから45度の角度で、西(左)の富士見通りが60度の角度で、それぞれ南へ伸びている。ちょうど三角定規の二枚を置いた様な街なのだ。多分、都市開発した設計者が、三角定規を置いて線を引いたのだろう。その他の道も碁盤の目に走り、ひと目で都市計画がされた街だと分かる。昔の街道や畑道がそのまま残る隣接の街とは全く違う。そして、旭通りと富士見通りの角度が違うため、街はシンメトリーではない。
 では、なぜシンメトリーではないか。日本人は シンメトリーを嫌うのだ。中国を模した平城京平安京も、微妙に崩してある。旧国立駅だって奇麗な三角形ではなく、右側が途中で縦に切られていた。左右対称は、最も合理的な様式美であり、古代エジプト古代ギリシャ古代ローマに、その完成が見られる。ルネッサンスに復活するが、やがて解剖学に基づいたマニエリスムへと変化する。しかし、現在でもシンメトリーを好む傾向は根強く見られる。
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 では、なぜ日本人は古代よりシンメトリーを嫌うのか。これについて明確な答えはない。荒唐無稽な推論だが、古代日本人は中国大陸で敗残した末裔が渡来して縄文人と交わり、弥生時代大和王権を造ったといわれる。春秋戦国時代に滅びた呉・越の渡来人。日本各地に残る「徐福伝説」。 百済伽耶の滅亡と大和王権。ひょっとしたら空白の4世紀に、そのヒントがあるかもしれない。中国も半島もシンメトリーの世界である。左右否対称、アシンメトリーは、そんな祖国を捨てて来た敗残者のトラウマが生み出したのではないだろうか。
 シンメトリーは、単調だが安定的で永遠を感じさせる完成形。対してアシンメトリーは、アンバランス。非常に不安定な上に成り立つバランスで、一歩間違うと崩壊する危険性を孕(はら)む。わざわざ不安定な形態を選ぶというのは、普通の精神状態とはいえない。その上に、10年に一度の災害、100年に一度の大災害、1000年に一度の超大災害に見舞われる日本である。「無常」という観念もそういう根源と風土の中で培われて来たのではないだろうか。アシンメトリーの歴史を繙(ひもと)くと、日本人の本質が見えて来るかもしれ ない。
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 気がついた人もいるだろうが、私は国立に引っ越したが、国分寺市民のままだった。近くには、「好きよキャプテン」がヒットした双子のザ・リリーズ渡辺プロダクションの寮に住んでいて、セーラー服で出かけるのをよく見かけた。私が去った年に「まちぶせ」がヒットした石川ひとみが入寮したらしい。その寮も今はない。


 国立の芸能人といえば、「異邦人」(1979)の久保田早紀だろう。私が居た頃は、まだ女子高生で、八王子の共立女子高校に通っていたはずだ。超絶美少女だった彼女は、無名の当時から国立では知られていた。本当に美 しい人だったけれど、私はちょっとハスキーな彼女の声が好きで、30歳過ぎたらジャズを歌ってくれないかなと思っていたものだ。だが、少しでも芸能界にかかわり、中身を見た人なら分かるだろうが、所詮虚構と妄想の世界。伏魔殿だ。アイドルは元々アメリカが自国民に対して行った愚民化政策を、戦後日本に適用したものだから。
 そうは言っても、私自身アイドルの仕事もたくさんしたので、歌うことやダンスが好きで一生懸命精進する女の子達は応援したいのです。ハロプロとかさくら学院とかBABYMETALとか。

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 引っ越してすぐに私は、アロートレーディングの コースター・ブレーキの白い自転車を買った。この自転車にはハンドルにブレーキがなかった。ペダルを逆回転すると止まるフット・ブレーキなのである。西荻窪の店まで買いに行き、国分寺まで乗って帰った。私が買った初代の白いアロー号は、前ブレーキさえなかった。よって、ある時国分寺駅前の交番で警官に呼び止められ、「ブレーキのない自転車に乗っちゃいかん!」と怒られた。「ブレーキのない自転車なんて怖くて乗れないでしょう。かくかくしかじか」と説明するとえらく驚かれた。
 その後、谷保の交番でも呼び止められて、また説明する羽目になった。しかし、フット・ブレーキにはすぐ慣れるし、非常によく止まる。オランダなどでは相当普及しているようだが、なぜ日本のメーカーは普及させなかったのだろう。
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 大学へは戸倉橋一本西の陸橋を渡り、清志郎の母校・国分寺市立第二小の横を駆け抜け、高木通りに出たら右折して四つ目の道をひたすら北上すると玉川上水に出る。橋を渡って朝鮮大学のガウガウ吠えるドーベルマンに金網越しに追い掛けられながら大学へと向かうのが日課だった。その最短距離のルートを調べるために買ったのが添付の地図である。当時は今より住宅が少なく、畑の中を抜ける快適な通学路だった。
 その後、アロー号は南麻布のマンションへも持って行き、 青山の事務所への通勤や、六本木へ遊びに行く時に大活躍した。同居の友人も乗っていたが、自転車で六本木のディスコやパブに遊びに行っていたというのは珍しかったかもしれない。結局アロー号は、南米アマゾンへ旅する体力をつけるため、新発売のプジョーのPF10Jというクロモリのロードレーサーを買った時に手放した。そのロードレーサーは非常に大切に乗り、なんと25年後高校のトライアスロン部に入った長男も乗った。現在はちょっと故障して倉庫に眠っている。もう部品を作っていた会社がないのであるが、息子になんとか直してくれと頼んである。(その後なんとか直った。いずれ私の元に戻るはず)
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 正確な場所は忘れたが大学へ通う途中の辺り、恋ケ窪のどこかだったかに「イエスの方舟」があった。たぶん米軍ハウスだったと思う。「イエスの方舟事件」 として、馬鹿なマスコミのバッシングに遭ったが、当時私は、これはカルト集団でもなんでもなく、カート・ヴォネガットが『スラップ・スティック』の中で書いていた「人工的拡大家族」ではないかと思った。機能不全家族に育った女性達が、救いを求めて集まったのではないかと。結局、冷静でまともな取材を続けた鳥越俊一氏の「サンデー毎日」だけが真実を伝え、集団妄想と化した誤解が解けた。『スラップ・スティック』は、私達の間で非常に流行ったが、カート・ヴォネ ガットを教えてくれたのは、もちろん春樹さんである。
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 国立は、街のど真ん中に広大な一橋大学の敷地がある、東京で最初に文教地区に指定された街である。だからパチンコ店も風俗もない。そういうのが好きな人は、そういうものがある街に住むか行けばいいわけである。ただ、国立は大正時代末期に箱根土地株式会社(国土計画の前身)が、谷保村の山林を買い取って国立音楽大学と駅を新設し、続いて商科大学(現在の一橋大学)を誘致したという完全に人工的に造られた街だ。国立という名も、国分寺と立川の頭文字を合わせただけのものである。「くにたち」ではなく「こくりつ」と読まれてしまうのも仕方が無い面もある。イギリスの地方都市の様な趣がある美しい街だが、どこか整形美人の様な側面があるのも確かだ。
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 でも、国立の街は好きだった。私は夜になるとシーンという静寂の音が聞こえる様な田舎で育ったので、騒音は苦手だ。呼吸器が敏感なので空気が悪い所もだめだ。国立は静かで時もゆったりと流れているような気がした。大学通りの木漏れ日の下を、谷保を抜けて多摩川までよくサイクリングをした。夏は友人と隣の矢川のし尿処理施設の隣にあった清化園プールに泳ぎに行った。ここの水は井戸水だったので真夏でも冷たく、長く入っていると唇が紫色になった。よくしたもので、焼きそば、かき氷の他に、真夏なのにおでん屋があって、よく食べたものだ。現在は温泉施設になったようだ。
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空が広かった70年代の国立


 写真は、76年の春の国立。駅から南へ大学通りを1キロほど南下した桐朋学園と国立高校の間に架かる歩道橋の上から撮影したものである。桜が満開なので 4月上旬だろう。現在の様に車道と自転車道の間に植木鉢はなく、違法駐車もし放題だった。取り締まりもそう厳しくなかったのは交通量がまだ多くなかったからだろうか。一輪車を押す作業員といい、犬を連れた自転車の人といい、長閑な光景である。国立駅の背後にも高層ビルがなく、駅舎の三角が美しいシルエットを作っている。
 桜並木は美しいが、若葉の季節は毛虫が発生するのが難点かな。これは国立ではなく、ずっと後の仙川での話だが、畑道を抜け、桐朋学園の桜並木の下を通って通勤していたある日、電車に乗ったら前に立っていた美しい女性が、突然ティッシュを取り出して私の麻のジャケットの肩からなにかを摘んで取った。へ?と思っているとニコッと微笑んで見せてくれたのは小さな青虫だった。彼女はそれを丸めてバックに仕舞った。いやぁ、一瞬で恋に堕ちたが既に既婚だったのでどうにもならなかった。虫嫌いの女性が多いのに、絹布のような白く美しい肌の美人だったので、彼女の前世は蚕かいと思った。
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 虫ではなく鳥の糞と美人の話。学生時代のことだが、帰省のために特急あさまに乗った。四人掛けの席には、向かいに少し年上の社会人の美しい女性が座った。他の席は空いていた。彼女は藤の小さなバスケットを持って乗って来た。しばらくすると、彼女は蓋を開けて文鳥を取り出した。文鳥はよく慣れているようで、彼女の周りを跳ねていた。ところが、何を思ったか私の所へ飛びついて来た。しかもだ、事もあろうに私の股に糞をして彼女の所へ戻って行ったのである。すると彼女は手で口を押さえてククッと小さく笑った後でティッシュを取り出し、そのうんこ、いや糞を取り除いてくれた。いやぁ、一瞬で恋に堕ちたが既に彼女がいたのでどうにもならなかった。彼女の前世は鶴か。鶴の恩返し。
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 整然と造られた国立の街だが、碁盤の目の街は、対角線に動こうと思うと最短距離では行けないもどかしさがある。では国立市ではない、国立の私のアパート から国分寺の「ピーター・キャット」まで最短で行こうとすると、線路沿いに行けばいいということになるのだが、そうは問屋が卸さない。西国分寺辺りで道が グダグダになるのである。
 地図を見ると分かるが、恋ケ窪辺りまで、道が斜めで細長い長方形を形作っている。武蔵境辺りは南北だが、武蔵野市になると見事に傾いている。これは、街道や用水に対して直角に畑地や水田を振り分けたからである。特に飲料水の用水路を最短で結ぶために、短冊地形が取り入れられたとい う(参考資料:小平周辺の新田開発)。それに比べると、国分寺市三鷹市調布市、世田谷区を流れる暴れ川といわれた蛇行する野川沿いの道は、見事にグダグダである。
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 玉川上水は、 増大する江戸の人口を支えるために造られた水道である。昔は太宰治が入水自殺したほど水量が豊富だった。江戸の民の命の水であったため、洗い物、漁撈、水浴び、塵埃の投棄などはご法度とされ、厳重に取り締まられていた。また水路の両側幅三間は保護地帯とし、樹木の伐採だけでなく下草刈りさえも厳禁であったという。
 最初は、国立の青柳から工事を始めたが、府中の八幡宮下辺りで流れなくなり失敗。その後福生から引いたが、関東ローム層の水喰土にぶつかり失敗。 三度目にやっと成功を見た。辛苦の末に江戸まで命の水を引いた玉川兄弟初め先人達が、放射能汚染された多摩川や用水を知ったらなんと思うだろうか。
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 国立で水といえば、谷保天満宮の境内にある常磐の清水だろう。天満宮だから菅原道真が祀られている。よって受験生の参拝が多い。ここも自転車でよく行った。真夏、蝉時雨が降る午後に訪れると、暑さを忘れる佇まいがそこにはあった。谷保の崖線(がいせん)は、国分寺ではハケというが、谷保ではママと いう。もちろんパパママのママではない。儘、墹、真間等と表記される崖のことである。谷保ではママ下湧水といって崖線のあちこちから湧き出している。それらが集まり小川となる。当時は現在の様に住宅は多くなく、崖線の小径を下ると、一面緑の水田が広がっていた。地元の子供達が小川で遊んでいた。それは、吉田拓郎の「夏休み」を口ずさみたくなる、ちょっと切ない懐かしい光景だった。そんな光景は、今も見られるのだろうか……。
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※参考サイト:玉川上水散策地図玉川上水
タチオンWalking-谷保天満宮・城山・ママ下湧き水公園(国立市
菅原道真自作の木像がある信州千曲市の岡地天満宮についての私のブログ記事
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 今日はここまで。次回は、国立の通りや店について。国分寺とは、またひと味違う面白い店がたくさんあった。ロジーナ茶房、ナジャ、邪宗門、プレンティしもん、レモンの木、みみずく茶房、蛇の目寿司等々。

雨の日とミッドナイトには、女性ヴォーカルがよく似合う

 ジャズ喫茶といっても、「ピーター・キャット」は、会話をするとウェイターがやってきて「お静かに!」などと言われる様なおしゃべり禁止の店ではなかった。そういう本格的にジャズを聴きに行くための店は、それはそれで存在理由があって貴重だった。私も吉祥寺の「OutBack」や「Funky」には、よく行った。ハードロックを聴きたいときは、「赤毛とそばかす」にも。彼女とのデートには、「西洋乞食」に。当時の吉祥寺を知る人は知っているだろう が、全て故野口伊織氏プロデュースの店だ。70年代のジョージの文化を作った人と言っても過言ではないだろう。
 国分寺の「ピーター・キャット」は、概ね新宿の「DUG」をモデルにしたものだと思う。夜はアルコールがメインのジャズバーで、ここにも友人とよく行った。長い木のカウンターもよく似ている。(参照:50年以上の歴史を誇るジャズ喫茶の名店! 新宿「DUG」オーナー中平穂積さんに聞く「カルチャーの集合地が育つまで」)
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 そういう訳で、ジャズを聴きに来るだけが目的の本格的なジャズ喫茶の様に。アルバムのリクエストが、ひっきりなしに来るという状況ではなかった。それでも、満席になると、LPを替えるのに忙しかったこともあった。音が途切れてはいけないからね。リクエストの定番は、やはり男性中心のピノトリオや、アルトやテナーサックスのカルテットが中心になる。けれども、ハードバップばかり聴いていると、箸休めならぬ耳休めが欲しくなるのも事実。特に、ブルーな雨の日や、夜10時を過ぎると無性に女性ヴォーカルが聴きたくなるものだ。実際、そういう時には女性ヴォーカルのリクエストが多かった様な気がする。そんな 「キャット」にあった女性ジャズヴォーカリストの中から、思いつくままに書いてみようと思う。(写真左上から右へ)

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Lee Wiley"West of thw Moon"
Chris Connor"CHRIS IN PERSON"
Monica Zetterrlund/Bill Evans"WALTZ FOR DEBBY"
Billie Holiday"LADY LOVE"
Helen Merrill"helen merrill with Clifford Brown"

Jo Stafford"JO+JAZZ"
Peggy Lee"Latin ala Lee"
Astrud Gilberto"GILBERTO with Turrentine"
Marlene"My Favorite Songs"
Kimiko Kasai"WE CAN FALL IN LOVE""TOKYO SPECIAL" "ROUND AND ROUND"
"Dejavu" "Left Alone" "It's MAGIC"

               ◆
 リー・ワイリー(1908 -1975)。スウィング全盛の古い時代から活躍していた人なので、若いジャズファンには馴染みが無いかもしれないが、エレガントで包容力のある、その歌声は一度聴いたらたぶん病み付きになるはず。"West of thw Moon"は、録音が少ない彼女の最後の傑作と呼ばれるアルバムで、彼女のハスキーヴォイスがたまらない。A面もいいけれど、B面の"East of the Sun"や"As Time Goes by(時の経つまま)"は、本当に素晴しい。ささくれ立った心を静めるのには最適な歌声。映画『カサブランカ』の名曲をイングリット・バークマンの美貌とともに堪能して欲しい。

"Lee Wiley - As Time Goes By"

               ◆
 クリス・コナー(1927-2009)。写真の"CHRIS IN PERSON"は、ヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ録音。クリス・コナーといえば、「ミスティ」か「バードランドの子守唄」だろう。"Chris Connor - Lullaby of birdland"バラードもいいけれど、アップテンポの曲もスリリングで最高だ。ドライブしながら聴くと、ついついスピードを出しすぎてしまうかもしれない。リクエストが多かったアルバムの一枚。

               ◆
 モニカ・ゼタールンド(1937-2005)。スウェーデンのジャズシンガー。昔はセッテルンドと表記されていたが、スウェーデンの発音はこちらが近いのかな。所謂ジャケ買いの筆頭にくるアルバム。ビル・エヴァンスとの素晴しい共演の一枚が、この『ワルツ・フォー・デビー』。「ピーター・キャット」の女性ヴォーカリストの中でも、一番リクエストの多かった一枚だと思う。女優もしていたというその美貌はもちろん、ハスキーでアンニュイな歌声は、まさにミッドナイトの定番アルバム。"Monica Zetterlund with Bill Evans Trio Waltz for Debby" 2005年に寝たばこが元で焼死してしまった……。

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               ◆
 ビリー・ホリデー(1915-1959)。恋と酒と麻薬に身を滅ぼしたジャズシンガーだが、生涯に渡り人種差別や性差別と戦った女性でもある。店にあったのは、代表作『レディ・デイ』他だったと思う。この"LADY LOVE"は、A面もいいが、B面の"Billie's Blues"と"Lover come back to me"が私は好きだ。ジャニス・ジョプリン他、多くの女性ヴォーカリストに影響を与えた偉大な歌手である。麻薬とアルコール依存症のために、初期と晩年では声質が全く異なるが、両方とも私は好きだ。最も有名な曲は、人種差別によるリンチで殺されて木に吊るされた黒人を歌った"Strange Fruit"「奇妙な果実」だが、私は彼女の"Summer Time"が好きだ。ジャニス・ジョプリンアルバート・アイラーのと共に、三大サマータイムと勝手に呼んでいる。"Billie Holiday - Summertime- JazzAndBluesExperience"


 彼女の死後に、晩年の伴奏者だったマル・ウォルドロンが出した追悼盤のタイトル曲"LEFT ALONE"は、彼女の愛唱歌でもあった。ジャッキー・マクリーンのサックスとマル・ウォルドロンのピアノが壮絶に切ない。これもリクエストが絶えなかったアルバム。
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 ヘレン・メリル(1930-)。"helen merrill with Clifford Brown"は、モニカの『ワルツ・フォー・デビー』と共に、最もリクエストの多かったアルバム。ニューヨークのため息と呼ばれた彼女の歌声は、何度聴いても飽きる事がない。代表曲の"You'd Be So Nice To Come Home To" は、彼女の歌声はもちろん、クリフォード・ブラウンの珠玉のソロがクインシー・ジョーンズの編曲と相まって非常に都会的で洗練された曲に仕上がっている。 日本ではCMに使われたので、ジャズに詳しくない人でも聴いた事がある曲だろう。「ピーター・キャット」でも、多い時は、一日に三回くらいリクエストがあった記憶がある。


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 ジョー・スタッフォード(1920-2008)。写真の"JO+JAZZ"は、トランペット・ヴォイスといわれた彼女の代表作の一枚。A面最初の"Jo Stafford - Just Squeeze Me (But Please Don't Tease Me)"、大人の曲だなあと思う。ウィスキーもいいけれど、ブランデーが似合う様な曲だ。
 邦題が「煙が目にしみる」の"SMOKE GETS IN YOUR EYES(JO STAFFORD)"もいい。


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 ペギー・リー(1920-2002)。少したれ目で、笑顔が可愛い女性。ソフトで少し甘ったるい声は、ピロートーク代わりに聴くといい。代表作は『ブラック・コーヒー』で、これもリクエストが多かった。"Peggy Lee - Black Coffee"。私の愛聴盤は、ラテンを歌った"Latin ala Lee"。バラードの彼女とは違う魅力がある。


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 アストラッド・ジルベルト(1940-)。ブラジルのボサノバの女王。スタン・ゲッツとの共演による「イパネマの娘」 は、余りにも有名。写真のアルバムは、スタンリー・タレンタインとの共演。世界的なヒットで、一躍有名になった彼女だが、意外にブラジルでは実績が乏しい。まあ、ガル・コスタとか凄い歌手が何人もいるので仕方がない面もあるのかな。もう昔だが、青山の「ブルーノート東京」で、彼女のライブを聴いたことが ある。日本人では、小野リサが好きだ。彼女の「イパネマの娘」のムービーには、モデルとなったエロイーザという娘の写真と舞台となったレストランも出て来る。ボサノバというと、昔リオデジャネイロのコパカバーナの高層アパートのドミトリーに滞在して、毎日プライア(浜辺)に日光浴に行っていた頃を思い出す。

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 最後の二枚は、「ピーター・キャット」には無かったアルバム。日本人のジャズシンガーのアルバムは無かったと思う。マリーンと笠井紀美子、そして写真にはないけれど吉田美奈子。この三人は、70-80年代にかけての日本の三大歌姫と私は思っているのです。
"マリーン - It's Magic - 1983.09"
 角川の映画のテーマで“Left Alone”も歌っているが、それもいい。
笠井紀美子“We Can Fall In Love” なんてキュート!なんてセクシー!


"夢で逢えたら - 吉田美奈子"、"吉田美奈子/時よ(フルバージョン)"凄い。圧巻のライブです。時が戻せるのなら……。スキャットもつぶやきも全て極上の魂の歌

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 こうやって、女性ジャズヴォーカリストを挙げてみると、ハスキー・ヴォイスの人が多い。男共はハスキーな声の女性が好きなのかね。そう、好きだ。亡き妻の祖父は、シュドゥビドゥビドゥバドゥビドゥバーの青江三奈が好きだったが、その彼女も"You'd Be So Nice To Come Home To"を歌っているものね。いやこれ凄くいいよ。

 八代亜紀も歌ってる。演歌≒ブルースなのかな。固定観念を排除すべき。例えば松浦亜弥。単なるアイドルではない事は、この曲を聴けば分かる。"ダブルレインボー Aya Matsuura Maniac Live Vol 4 2 07"大手広告代理店やマスコミによって作られたステレオタイプのイメージにはまるのは損なだけでなく、原発事故によって極めて危険なことだということも分かったはずだ。分からないならあなたは情報弱者。生き残れない。
 東京は、ウクライナキエフではなくチェルノブイリ級の放射能汚染。海外の情報弱者でない人は、東京は終わったと思っている。キエフでさえ健康な子供は 5パーセントしかいない。それが東京の未来。そんな都市が発展するわけがないだろう。終わりの始まりは、既に始まっている。


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 もちろん、他にもまだまだたくさん素敵なヴォーカリストはいる。忘れてはいけない大御所も。
エラ・フィッツジェラルドElla Fitzgerald) 『マック・ザ・ナイフ』の中の"ハイ・ハウ・ザ・ムーン"のアドリブのスキャットは圧巻。
サラ・ヴォーンSarah Vaughan) 太い包容力のある声が魅力。"マイ・ファニー・ヴァレンタイン"
ニーナ・シモンNina Simone) "フィーリング・グッド"彼女の歌は、アメリカというよりもアフリカを感じさせる。
ダイナ・ワイントン(Dinah Wshington) "カム・レイン・オア・カム・シャイン"艶のある歌声が魅力。
ナンシー・ウィルソン(Nancy Wilson) カウント・ベイシー・オーケストラをバックに"Satin Doll"。ゴージャスなビッグバンドをバックに、彼女の伸びのある軽快なヴォーカルが心地いい。
カーメン・マックレェ(Carmen McRae) "ラウンド・ミッドナイト"切々と聴かせる味わい深い歌声。
アニタ・オデイ(Anita O'day) なんともいえない色気がある。"ザ・マン・アイ・ラヴ"
ジューン・クリスティ(June Christy) "ソフトリィ、アズ・イン・ア・モーニング・サンライズ"キュートでクールな歌声。このアルバムもリクエストが多かった。
 エトセトラ、エトセトラ・・・。
 もしリンクの切れているものがあったら検索してみて欲しい。見つかるかも。
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 今日はここまで。次回はラプソディ・イン・国立。雨上がりの夜空に・・故忌野清志郎さんへ捧ぐ

「ピーター・キャット」のアルバイト事情。突然叩き起こされて・・

「ピーター・キャット」のアルバイトは、二日おきか三日おきに入れていた。基本は夜で、7時から深夜1時半か2時まで。昼の時は、12時に入って7時までだった。カウンターに入ると立ちっぱなしなので結構疲れるが、若かったので特に辛かったという記憶はない。当時は長髪だったけれど、やはり飲食関係のバイトだったので、確か肩まであった髪を切って、当時流行り始めていたウルフカットにした。尚かつ清潔が大事と、当番の日は銭湯に行くようにした。さすがにジャズ喫茶に制服はなかったが、焦げ茶色のエプロンをした。

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『Jazz』1975年5月特別増大号より

               ◆
 昼のバイトは、サンドウィッチの仕込みが大変だったが、後はコーヒーや紅茶を入れるだけだったので比較的楽だったように記憶している。夜7時からのバイ トはアルコールが中心なので、店内はたいていいつも賑やかだった。同じ大学の友人や知人も大勢来たし、武蔵美以外にも、多摩美、一橋大、津田塾大、東経大農工大、学芸大などの学生が来た。農工大畜産の学生等は、今日は牛の膣に腕を突っ込んでどうたらこうたらと、非常に面白い話をしてくれたこともあった。春樹さん達と色々質問攻めにした。やはり専門課程の話は面白い。森林学科に行っていた息子の話も面白い。彼は卒論で日本で一番古い湿原の古代の花粉の研究をした。そのボーリング調査には私も参加したが、尾瀬が9000年に対して、その逆谷地湿原はなんと10万年という。また、私は古代科野国の研究をしているが、初代科野国造(クニノミヤツコ)の武五百建命(タケイオタツノミコト)とか話し始めると、たいていの人は目を開けたまま気絶してしまう。面白いんだがなあ(笑)。古代史や戦国時代に興味がある人はこちらを。最近は歴女も多いので、妻女山や斎場山で案内することもある。
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 そんなある非番の夕方のことだった。アルバイトと課題で疲労がたまっていたのだろう。夕食を食べてうつらうつらとしていた。そこへ突然のノック。ドアを開けると……。実はその時、誰が来たのか正確に思い出せない。春樹さんはカウンターに入っていたので違うと思う。陽子さんか、早番のKか。ウェイトレスの女の子か。たぶん陽子さんだったと思うのだが。用件は、遅番のYが来ないというのだ。店は大賑わいでてんてこ舞い。カウンターに入ってくれないか、というものだった。私のアパートが店の数十メートル先なので白羽の矢が立ったのだろう。
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 疲れてはいたが、明日提出という課題やレポートもなかったので、分かりましたと言って冷たい水で顔を荒い、目を覚まして店に向かった。店に入るとほぼ満席だったと記憶する。カウンター内では春樹さんがひとりで孤軍奮闘していた。私はエプロンをしながらカウンターに入り、早速サンドウィッチ作りやつまみの用意をした。そんなこんなで、なんとか忙しい夜を乗り越えた。たぶん後で、Yには陽子さんがきっちり説教をしたと思うのだが、その顛末までは覚えていない。恐らく課題に詰まってパニックになっていたか、彼女と遊んでうっかりバイトの日である事を忘れていたのだろう。そういう私も、きつい課題とバイトの入れ過ぎとで過労からインフルエンザにかかってしまい、店のバイトを休んだことがある。
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 その時は、「ピーター・キャット」で私が寝込んでいると聞きつけたバイトのKが、私と同じ専攻の彼女を連れて来た。編み上げブーツを脱いだり履いたりする度に5分かかるとKが笑っていたが、その彼女が卵酒を作ってくれて、私に無理矢理飲ませて帰って行った。これはまあ有難かったが、見舞いに来た別の友人は、ストーブをガンガン焚いてるから40度もあるんじゃないのと軽口をたたいて帰って行き、店でもその話をしたらしく、後で散々からかわれた。まあ、インフルエンザは、B.C.412年に「ある日突然に多数の住民が高熱を出し、震えがきて咳がさかんになった。たちまち村中にこの不思議な病が拡がり、住民たちは脅えたが、あっという間に去っていった。」という、まさにインフルエンザを示唆するヒポクラテスの記録がみられるように古代から人類を苦しめたものであるし、日本では『日本三代実録』に「(862年)1月自去冬末、京城畿内外、多患、咳逆、死者甚衆……」とある。死ななかっただけよしとしよう。
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 お客にも色々な人がいた。国立に「シモン」と「プレンティ・シモン」という喫茶店ができた。国立でデートをする時は、決まって大学通の二階にある「プレンティ・シモン」に行った。所謂ジャズ喫茶ではないけれど、BGMにはジャズが流れていた記憶がある。ガラス張りの明るい店内からは、大学通の桜並木が見えた。ある日、その社長が社員を引き連れて店を訪れた。よりによって彼はアイスティーを注文した。喫茶店で働いたことがある人は分かるだろうけど、アイスティーは結構難しい。クリームダウンという紅茶が白く濁る現象が起き易いのだ。一回目は失敗した。あちゃ〜っ!と悔しがっていると陽子さんが可哀想といって笑った (そこ笑うとこか?と思ったが)。冷汗が出たが、三回目ぐらいににようやっと成功した。やれやれの夜だった。
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 茶葉に含まれるカテキンとタンニンが結合し結晶化する現象なのだそうだ。コツはタンニンの少ないアールグレイなどの茶葉を選ぶことと、急冷すること。しかし、分かっていても失敗する時は失敗するのです。やれば分かる。完璧に透明なアイスティーを作る事がどんなに難しいか。たいていの喫茶店は、半分濁った様なアイスティーを出してくるだろう。ほとんどの客は何も気づかずに飲んでいるはず。
 シモンの社長は、「ピーター・キャット」のフローティング・キャンドルを取り入れたり、いいものは全部取り入れる感じで、吉祥寺、原宿、渋谷と店舗を広げて行った。アルバイトも可愛い子が多かった。「ピーター・キャット」では、そんな辣腕の彼のことを国立の糸山英太郎と呼んでいた。だが、彼女との想い出が詰まった懐かしいその店も、今はもうない。
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「キャット」の仕事に入る前は、まず夕食を食べてから銭湯に行くのが決まりだった。食事はたいていすぐ近くの定食屋「あかぎ」か近所の中華食堂だった。私は野菜が好きなので、いつも野菜たっぷりのメニューを選んだが、それでも外食は野菜不足になる。そんな時は、例の雪合戦の親爺のいる八百屋で買って来ては 野菜炒めを作って食べたものだ。実家が農家だったので、私は野菜には煩い。息子達も信州から送られて来る野菜と、近所の無農薬の無人販売の野菜で育ったので煩い。ある時、信州から送られて来た伝統野菜の丸ナスを、なにかのお礼で友人にあげたら、その家のナス嫌いの子供が、僕このナスなら食べられると言って喜んで食べたそうだ。その時、野菜嫌いのその子は実は、本当の野菜の味が分かるのではないかと思ったものだ。
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 息子達が小さい頃、隣に「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のジャッキー吉川さんが住んでいた。最初引っ越して来た時、ずいぶん似ている人がいるもの だなあと思っていた。ある夜、懐かしのグループサウンズの番組を観ていた息子達が、突然「あっ、隣のおじちゃんだ!」と言った。えっ!?と思って翌朝だったか「ひょっとしてジャッキー吉川さんですか?」と聞いたら「あっ、ばれちゃった?」と。それからおつき合いさせていただいた。息子達は可愛がってもらった。ある時、信州から送って来た大きな固定種のホウレン草を差し上げたら、「美味しくて甘くて、よく洗って根っこまで食べちゃったよ。」と言われた。お礼に昔ながらの製法の本造り塩鮭をい頂いた。やはり山歩きが好きで、一緒に登りたいねと言っていたのだが、果たせなかったのが残念である。
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 市販の野菜のほとんどはF1種(自殺種)だ。栄養も1/2か1/3しかない。カスを食べているようなものだ。固定種は歩留まりが悪く形も不揃いだが旨い し栄養もある。そして、F1種の行き着く先は、危険極まりない遺伝子組み換え作物である。TPPに入れば、伝統野菜は消えてしまうだろう。それは、郷土料理の消滅、日本の食文化の消滅を意味する。都会の多くの人は、そんなことも知らずグルメに興じている。野菜ソムリエなど片腹痛い。アルバイトの話が野菜の話になってしまったが、実は私が最初にしたアルバイトが、中学生の時の玉葱採りだった。毎日、ひたすら玉葱を抜きまくった。
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 このブログを始めて思うのだが、記憶というのは系統的に連続して脳に収納されているわけではなく、断片的にバラバラにある。しかも、思い込みというのが あって、自分に印象的な(都合の良いとは限らない)記憶が増幅される傾向にある。私の場合は楽天的なので、相当自覚しないと皆いい想い出になってしまうのだが、人によっては自覚できないトラウマによって(この言い方は変だ。自覚できないのがトラウマだから)、全てを悲劇的な想い出にしてしまう人もいる。記憶の断片を探る作業というのは、春樹さんがいう心の地下室に下りて行く作業だ。これに関しては、個人的に非常に関心を持たざるを得ない状況に追い込まれた事もあったし、勉強もしたので、いずれ書いてみようと思う。人を最もトラウマに陥れるものは、戦争だ。戦争が破壊するのは、街や自然だけではない。人の心を永きに渡って破壊する。戦国時代の農民の言葉に「七度の飢饉より一度の戦」という言葉がある。

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 今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」でリクエストの多かった、女性ジャズボーカルについて。「ピーター・キャット」に行った事があるとか、働いていたとか、演奏したぞとか、当時の国分寺や国立情報とか、当時のムサビや近隣大学の情報等、お気軽にコメントをください。

「ピーター・キャット」以外のユニークなバイト。それはスラップスティックな世界

『70年代は、オーディオブーム。そのために必死で「ピーター・キャット」等のバイトをした日々』で書いたが、大学一、二年の時はアルバイトに明け暮れた。「ピーター・キャット」のバイトは、週に2、3回ぐらいだが、その他にも色々なユニークなバイトをした。そして、それはスラップスティックな世界だった。当時既にアルバイト情報誌というものはあった。しかし、ほとんど全てのアルバイトは、知人、友人の依頼や勧誘によるものだった。美大ということで、一般の大学生ではできない特殊な仕事だったということもある。オイルショックもあったが、まだ外国人労働者もいない頃なので、学生のアルバイトは豊富だったのだろう。
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 日本橋にある有名な寝具メーカーで、寝具のデザインの手伝いと版下を作るアルバイトをしたことがある。国分寺から遠いので通うのが大変だったが、人形町辺りの下町の雰囲気は、田舎出身には和むものがあり、遠距離も苦にはならなかった。デザインは、ほとんど社内のデザイナーが仕上げるので、我々がしたのは補助的なものだった。主な仕事は、その版下を作る作業だった。モチーフは、プレイボーイのバニーだった。私は、マジソン・スクエア・ガーデンのバッグもプ レイボーイのトレーナーも買った事はないが、日本版の月刊誌も発売されて、特に団塊の世代には人気があったのだろう。
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 仕事は、小さな兎のマークやロゴを並べて、シーツや布団の柄を作るのだが、その作業場が変な所にあった。地下にあったのだが、その暗室に行くには、なんと女子社員の更衣室を通って行かないと行けないのだ。昼間はいいのだが、夕方から暗室に入らなければならない時は、女子社員のお姉様方が着替えをしている中を「すみませ〜ん、すみませ〜ん」と言いながら通らなければならないのだ。竜宮城の向こうにタコ部屋がある。そんな感じだった。
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 そんなある日のことだ。やはり夕方から暗室に友人と二人で籠りっきりになった。昼間二人で作った小さな兎を並べた版下を何枚も印画紙に焼き付けていくのだ。社員のデザイナーは帰宅してしまっていた。アルバイトだけ残して社員が皆帰ってしまうというのも珍しい会社だなと思ったが、それだけ信用されているんだろうと思う事にした。細かい面倒な作業が進行していく最中に、相棒がぽろっと呟いた。
「プレイボーイの兎って右向きだっけ……。」、「え〜!!!」。ドッカーーーーン!(暗室の天井を突き破って、本社ビルの各階を突き破り、二人が人形町の空に飛び出した音)
 蝶ネクタイをしたバニー・ヘッドは、正しく皆左向きである。目出たく一から作業のやり直しであった。その夜、我々が泣きながら深夜まで作業したのは言うまでもない。ちなみに、プレイボーイのマークに兎が採用された理由に、兎は人間と同じく年中発情期だからだという説がある。ヒュー・ヘフナーめ。「ピー ター・キャット」には、村上夫妻がつけた、ウサコというニックネームの女の子がいたが、確かにバニーガールのコスチュームが似合いそうな美しいボディだっ た。
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 谷保の田圃の中にあるイベント会社でのアルバイトもユニークだった。なんと、ここにも兎がいた。残念ながらイベント用のバニーガールではない。仕事は多岐に渡ったが、ほとんどがきつい肉体労働であった。中でもきつかったのが調布市民文化祭。大きな入場門は会社の庭で作った。ペイントや絵描きはお手の物なので楽しかったが、この巨大な門の搬送と設置は大仕事だった、それよりもきつかったのが、メインストリートへのテントの設営とステージ作りであった。何十張りものテントの支柱を運び、設営するのは重労働。さらに、ステージの設営が大変だった。まずパイプで足場を組み、そこへ平台という重い台をかついで乗せて行く。経験者は分かるだろうが、この平台が20キロ以上あり重い上に担ぎにくいことこの上ない。やっと並べてパンチカーペットを敷けばできあがりである。この上で調布の芸達者なおば様達が踊ったり、マイナーなアイドルが歌うのである。イベント中は暇なので支給された弁当を食べながらアホ面下げてステー ジを観たりしたのであった。もちろん最後には、辛い撤収作業が待っていた。門の制作以外は、体育大学の学生向きのバイトだった。
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 武蔵村山の市民祭だったと思うが、体育館で行われるアイドルのコンサートの設営に行った事がある。体育館中に、まず重いゴムのロールマットを広げて行 く。結構大変な作業だ。次にロールのゴザを敷いて行く。それで終わりである。私がひとりで、ステージ脇の跳び箱等が置いてある部屋に用具を片付けに行くと、ちょうどアイドルの卵がひとりでステージ衣装に着替え中だった。ごめんなさいと言ってすぐに出たが、薄ら寒い用具置き場で着替えしないといけないなんて、アイドルの卵も大変だなと思った。夕食の弁当をもらって体育館の二階に登り、彼女のショーを観た。体育館は老若男女で満員になった。5、6人のバンドで彼女の歌が始まった。当時デビューした山口百恵キャンディーズのような、白いフリフリスカートの衣装で彼女は歌い踊ったが、名前も歌も全く記憶にない。可愛い子だったが、誰だったのだろう。
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 外国ではあまり聞いた事がないが、社内運動会というのが日本にはある。その設営も結構大変だった。大玉や玉入れの篭や綱引きの綱、バトン等、用具一式は もちろん、ライン引きやゴールでのテープ持ちやスターターもやったりする。時には人数が足りなくて、社員のお姉様と肩を組んで二人三脚をしたりもするのであった。これは楽しかった。ところで、あの兎だが、会社の広い庭の片隅に小屋があった。最初我々はイベントで使うために飼っているのかと思った。それもあるらしいが、よくよく聞くと忘年会に兎鍋にして食べるために飼っているということが分かった。実にワイルドな会社であった。
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当時、創刊された雑誌の創刊号(ポパイだけは2号)


 一年の夏休みだったと思う。誰かのつてで『non-no』のバイトが入った。『non-no』といえば、1971年(昭和46年)5月25日に、前年に 創刊された『an・an』に対抗して創刊されたご存知集英社の女性向けファッション雑誌。当時は、アンノン族という言葉を生み出したほどの人気雑誌だっ た。今は日本人モデルが全盛だが、当時は外国人モデルばかりだった。ファッション・グルメ・インテリア・旅という定番企画が生まれたのも この頃だ。仕事は、インテリア企画の一環で、本社近くのスタジオでモデルルームを作る事だった。当時のある号を見ると、「この春の木綿/銀座/花のあるインテリア」等というタイトルが並んでいる。作ったのはA子さんの部屋みたいな感じだったと思う。
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 作業は、女子社員とスタイリストの指示に従って部屋を作って行くのである。まず部屋を作る。壁紙貼ったり小物を作ったりはお手の物。常時ついた女子社員がまだ新入りで、リードは外部スタッフのスタイリストがとらざるを得なかった。作業に行き詰まると、時には我々がアイデアを出す事もあった。連日深夜まで 続くハードなアルバイトだった。しかし、雑誌全盛期である。夕食などは、編集長自ら近くの豪華な中華料理屋に連れて行ってくれたこともあった。仕事は終電過ぎまで続いたので、神保町から国分寺までタクシーで帰った。今思えば、随分と贅沢なバイトだった。
               ◆
『non-no』は、その後も縁があって、西麻布の丘の上にある洋館のデザイン会社に出向で働きに行っていたことがあるが、その会社が『non-no』の仕事をしていた。ガーデンパーティーには、外国人モデルの女の子が沢山来た。北国生まれで肌が弱く、肌荒れに悩んでいた私に、ベビーローションの無香料と ウィッチヘーゼルのハマメリエキス入りアストリンジェントを勧めてくれたのも、そんなモデルの女の子のひとりだった。まだ10代の彼女は、たったひとりで アメリカから日本へ働きに来ている事、いずれは世界的なヴォーグやエルの雑誌に出たり、パリコレに出られる様なモデルになりたいという夢等を語ってくれた。フランス人形の様な可愛い容姿とは全く異なる強い意志を持っていることに驚いたものだ。
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 モデルといえば、美大や芸大では、たいていヌードデッサンの授業がある。一般の人は奇異に感じるかもしれないが、美大生はたいてい研究所時代に経験しているし、男女の学生がいるが、描く事に集中するので特にどうということはない。モデルは劇団員の女性や専門のモデルと様々だが、一様にプロなので照れる事もない。休憩時間には雑談したこともあった。たいていは20代な半ばの女性だが、稀にピチピチの若い劇団員が来たりすると、男共は普段以上に頑張って描いたりしたものである。ヌードモデルは確かに報酬がいいが、20分ジッとポーズをとって10分休憩で計3時間とか、大変な仕事であることは間違いない。
               ◆
 青学の近くにある高級輸入家具の店でのアルバイト。当時でも100万円以上のものばかりで、気を遣う仕事だった。ただバロックやロロコ様式の家具が多く、さすがに欲しいとは思わなかった。20世紀のアール・ヌーボーアール・デコバウハウスの家具などには憧れたが、学生にはとても手が出せる値段ではなかったし、四畳半のアパートに合うはずもなかった。しかし、好みは別としてそれらの洗練され磨き上げられたデザインと技術は、非常に勉強になった。昼食は、近くにある青学の学食を利用することが多かった。美大とは異なる雰囲気が新鮮だった。後に青学の図書館の検索マニュアルのディレクションやデザインをすることになろうとは、想像もしなかったが。
               ◆
 こんな感じのアルバイト事情であった。能天気で楽しそうに思えるかもしれないが、アルバイトを入れすぎて過労で寝込んだこともあった。そして、実は卒業時が大変だった。オイルショックで企業が採用を控えたのである。特にデザイン系は最悪で、多くの広告代理店や企業が募集を取りやめてしまった。そこから、 私の冗談抜きのスラップスティックな人生が始まったのである。
               ◆
今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」のアルバイト事情。突然叩き起こされて・・