『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

国立ロンド(輪舞曲)。亡き王女のためのパヴァーヌ

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亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴くと、なぜか晩秋の大学通りを思い出す。桜の葉が色付き風に舞う。枯葉の間から木漏れ日が挿す。散歩中の少女が子犬と戯れる。ラヴェルルーブル美術館でベラスケスの「マルガリータ王女」の肖像画を観てインスピレーションを得たとされる名曲。大学通りから一橋大学のキャンパスに入り兼松講堂へ、サド・ジョーンズ&メル・ルイスのビッグバンドの演奏を聴きに行ったのが、つい昨日の事の様に思い出される。

枯葉」というとマイルス・デイビスの「Somethin' Else」に収録の「枯葉」がまず思い出される。リクエストも多かったが、私は、チェット・ベーカーの「枯葉」を一押ししたい。女性とのデュエットは珍しい。甘い調べが切ない。「ピーター・キャット」でも彼のアルバムは人気で、特に雨の日や深夜にリクエストが多かった様な気がする。


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 国立も国分寺に負けないぐらい面白い店や美味しいものが食べられる店がたくさんあった。まだ、チェーン店が普及する前だから個性的な店も多かった。大学通り、旭通り、富士見通りとあるけれど、まず富士見通り入り口近くのブランコ通りから思い出してみよう。当時の地図を見ても明らかだが、現在は南北に通り抜けが出来るが、76年当時はL字型の通りで南は行き止まりだったということ。(添付の地図では、「マクドナルド」と「りず」の間を南に入って東へ折れ曲がっている小路)2012年に35周年記念のイベントをやったので、ブランコ通りの成立は1977年ということか。そうだったのか。
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 駅前から入ると、右角にマクドナルドがあり、まだまともなフィレオフィッシュ・バーガーを売っていた。もっともここ十数年以上ファストフードは食べた事がないので、今の味は知らないが。小路を入って右手にはクーラーもない焼き肉屋があり、真夏に二階の座敷に上がり、開け放たれた窓と座敷に置かれた粗末な折りたたみテーブルで扇風機に吹かれながら汗ダラダラで食べた焼き肉と生ビールは旨かった。まだ安価な輸入牛肉なんてない頃だから、学生にとっては焼き肉は最高の贅沢だった。左手には本格的に野菜の油通しをする中華食堂があり(名前は失念)、そこのピーマン肉炒めは旨くてよく食べた。
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 その先にジャズスナックの「韻」ができて友人と度々行った。10人も入ればいっぱいの小さな店で、彼女を連れて行く様な店ではなかったが、男友達としみじみ飲むにはいい店だった。その右手にレトロなインテリアが落ち着く「ナジャ」。水出しアイスコーヒーを初めて飲んだのはここじゃなかったかな。ジャズ喫茶のコーヒーは作り置きでそれなりの味なので、旨いコーヒーを飲みたい時に行った。角を曲がってすぐ右が「邪宗門」。 ここもよく行った。門主は外国航路に乗っていたそうで、アンティークの溢れるゴチャゴチャしたインテリアが妙に落ち着く喫茶店だったが、2008年門主の 他界により閉店したそうだ。地味だけれど国立の一時代を作った店のひとつだったと思う。その先の右手に昭和28年オープンの故忌野清志郎も贔屓だったという「ロジーナ茶房」。 インテリアやオーナメントが凝っている。ビーフ・ストロガノフなる料理を初めて食べたのはここだったかもしれない。所謂業界関係者がよく来る店だった。たぶん今もそうなのだろう。ここのザイカレーだけは、迂闊に頼んではいけない。茶房からそのまま進むと大学通りに出るが、左角に「金文堂」。文房具や、 ちょっとした画材はここで買った。
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 その大学通りは、43.64m(24間)だから相当広い。戦前か戦中かは知らないが、滑走路に使用という案もあったそうだ。多摩には住んでいても知らない人が多いが、軍事施設の跡がたくさんある。大学通りは両側に広い歩道と並木があり、美しい緑のアーケードを作っている。その西側。順番はちょっと怪しいが、ジャズ喫茶「プレンティしもん」、「銀杏書房」、高級スーパーの「紀ノ国屋」、陶器の「やま芳」、パンの「サンジェルマン」等がよく通った店なので覚えている。
「プレンティしもん」は、ジャズ喫茶「しもん」の姉妹店で、大学通りの並木が見える二階にあり、ガラス張りで明るい店だった。デートによく使った記憶がある。「銀杏書房」 は、1947年(昭和22年)創業の洋書古書店で、文教都市国立らしくいい洋書が置いてあったし、今もそうだろう。通りかかると必ず覗いた店だ。スーパー の「紀ノ国屋」は、村上春樹夫妻もよく通っていて、何が美味しいとかおすすめとか情報をくれた。なにせ高いのでたまに行くだけだったが、私のお気に入りは 甘鯛のテリーヌだった。陶器の「やま芳」では、バーゲンの時にNORITAKEの白地に紺の唐草模様の大皿を二枚買った。なんと今でも現役で使っている。「サンジェルマン」の食パンは「ピーター・キャット」でも使っていた。私はシナモン風味のパンプキンパイが好きでよく買った。
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 大学通りの東側は、当時はそんなに店がなかったような気がする。散歩するにはこちらが良かった。いつだったか「ミルキーウェイ」というライブもやるカフェバーができた。そのオープニングに友人と行った。黒い内装でステップのある店内。ビールはハイネッケンが日本で発売された頃だったのか、わざわざ日本支社長が店に来て、客の周りを回って感想を聞いていたのが印象的だった。店には何度か行ったが、アリスが好きなロン毛の可愛いウェイトレスがいたのを思い 出した。既にない様だが検索したら、久保田早紀さんと経営者の鈴木昭一さんの81年の対談を 見つけた。彼女は店でライブをやったらしい。店名は失念したが、「ミルキーウェイ」のずっと先にフレンチレストラン、もっと先にドイツ料理の店があったと 思う。デートでフレンチレストランへ行って、いざ支払いの時に金が足りなくて、彼女を人質にしてアパートへ金を走って取りに行った間抜けなことがあったのも、今となっては懐かしい想い出だ。
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 次に旭通り。通りを少し入って左手にあった「越前屋」のタンメンは人気でいつも混んでいた。麺は多少柔らかめだったと記憶するが、野菜好きの私には嬉しいラーメンだった。その斜め向かい辺りだったか、大学通りと結ぶ通りにある「ステーキ・テキサス」。とにかくガッツリ肉を食べたい!という時には、ここのハンバーグを食べに行った。さすがに当時は、ステーキは高くてなかなか手が出なかった。
 旭通りのシンボルといえば「国立スカラ座」だった。ここはよく行った。当時は二本立てで500円ぐらいだったと思う。色々観たが、一番記憶に残っているのは『ドクトル・ジバゴ』かな。「ラーラのテーマ」 を聴くと今でも鳥肌が立つ。ラーラ役のジュリー・クリスティが、どうしようもなく哀しく美しかった。調べて分かったが、『ドクトル・ジバゴ』は、『ローマ の休日』との二本立てだったようだ。前者が197分、後者が118分、両方観ると5時間余りと、とんでもない長さになる。体力があったんだね。


 スタン リー・キューブリックの今後の日本と世界を暗示する様な『時計じかけのオレンジ』と『博士の異常な愛情(または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようにな­ったか)』の二本立てもここで観た様な気がするのだが……。
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 今は無きテアトル東京で3回観た、代表作『2001年宇宙の旅』 はもちろん、スタンリー・キューブリックは私が最も敬愛する監督の一人だが、実にクレイジーな組み合わせだ。『博士の異常な愛情』は、核による世界破滅を 描いたブラック・コメディだが、福島第一原発の事故は、このフィクションを遥かに超えてしまった。東京の空には、今も見えないセシウムやクリプトンが舞っている。


「国立スカラ座」は作品の選択と組み合わせが絶妙だったと思う。残念ながら1987年(昭和62年)に閉館したそうだ。旭通りの終わり頃に、家族でやっている「レモンの木」というレストランがあった。ここのレアチーズ・ケーキは美味しかった。


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 富士見通りにも行きつけの店があった。まずロータリー近くにあった老夫婦が営んでいた「蛇の目寿司」。まだ回転寿司などなかった頃で、寿司は学生にとって焼き肉と双璧をなす贅沢なものだったが、この店はそんな学生にも比較的優しい値段だったと思う。そして、音大の近くにあった「叉焼ライスの店」。正確な店名は失念。富士見通りは大学通りに対して60度の角度で延びているので、東西の道路と交差する地点は30度になる。その店は30度の形をしていた。7、 8人しか座れないカウンターだけの店だった。メニューは、楕円形のステンレスの皿に茹でたもやしが山となり、その上に薄い叉焼が一列に並んでタレがかかっている。それにご飯と味噌汁。友人が異常に好きで、訪ねていくと必ずその店に誘われた。彼によると290円だったそうだ。しかし、今のチェーン店の激安メ ニューとは違う手作りの味だった。その向かい辺りにあったのが、今や全国展開している名物スタ丼の元祖、「サッポロラーメン国立本店」。スタ丼は、もちろんスタミナ丼の略で、ニンニクが強烈に効いた豚丼のこと。学生だったから食べられた量と味。今食べたら胸焼けするだろう。いずれにせよデートの前には食べられないメニューだった。
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 その先に「みみずく茶房」という喫茶店があって、遊び人風の男性二人が共同経営していた。二人はよく「ピーター・キャット」にも来た。「ピーター・ キャット」でドラキュラさんと呼んでいた背の高い人と、メガネの背の低い人。彼は通称ヨタハチと呼ばれた赤いトヨタスポーツ800に乗っていて、「ピー ター・キャット」に行く時に何度か乗せてもらった。名車だが、歩道を歩く女の子のミニスカートを下から見上げるほど乗車位置が極端に低く、座椅子に座ったまま道路を引きずられる様な車だった。店には国立音大の美人の女子学生がバイトしていて、そういえば少しつきあったことがある。富士見通りには、その他に ワッパ飯を食べさせる新潟郷土料理の店や大皿料理の食堂があって通った。若い夫婦がやっていたと思うが、ナスに摺り下ろしニンニクを塗って小麦粉をはたいて油で焼く料理があった。これはうちの定番料理のひとつになったのだが、店名が思い出せない。
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 その他の店。食料の買い出しは、普段は国立デパートが多かったと思う。スーパーより対面販売の店の方が好きだった。親しくなるとおまけしてくれるしね。 酒は、アパートの近くの酒屋を一番利用したかな。引越し先はたいてい酒屋と銭湯が近くにある所を選んだ気がする。酒好き風呂好きなものでね。そして最初に仲良くなるのはたいてい酒屋のおばちゃんだった。よくおまけをもらった。よく物をもらうというのは息子も引き継いでいて、彼が小さな頃「この子を見ると、つい何かあげたくなっちゃうのよね」と、よく言われた。仙川のまだモルタルの倉庫の様な店だった輸入食材の「カルディ」から、1キロのマヨネーズをもらって帰って来たことがあった。親子してそんなに物欲しげな顔をしているのだろうか、いや人徳ということにしておこう。
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 番外編。北口は、打ちっぱなしの国立ゴルフと立ち食い蕎麦屋ぐらいしか思いつかないな。ほぼ国分寺市だしねって、私も崖線の上の国分寺市民だったのだが・・。国立ゴルフは友人達がよく行っていたようだが、私は一度行っただけかな、どうもあんな広い場所で小さな穴に小さな玉を入れるせせこまさが苦手だ。 玉は大きな方がいい。ならば大玉送り。いや、そんなに大きくなくていい。サッカーボール位でいい。サッカー小僧だったものでね。忌野清志郎の歌にある「多摩蘭坂」 坂下の一橋大学の寮の向かい辺りに、これも老夫婦がやっていたおでん屋があった。木枯らしが吹く冬の夜に行った覚えがある。国立から国分寺まで自転車で行こうとすると、多摩蘭坂を初めとして結構きつい坂が多く、いい運動になった。国分寺崖線(がいせん)は侮れない。国分寺、国立、仙川と国分寺崖線沿いに暮 らしたが、結局私は坂好きなのだと思う。


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 ある雨上がりの早朝に白いアロー号に乗って崖線の坂を下り、旭通りから大学通りを抜けて多摩川までサイクリングしたことがある。イメージする曲は、ラヴェルの「ボレロ」だな。ほとんど車も人もいない大学通りから谷保天神に寄ってママ(ハケ)の坂道を下ると突然風景が開け、土手まで一面の水田が広がっていたあの夏の日。もう戻らない。

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1976年の大学通り。友人の中古のブルーバードで駅に向かう途中

  タイトルの国立ロンドだが、これは松浦亜弥の『横浜ロンド』からインスピレーションを受けてつけた。国立同様に横浜も私には思い出深い街だ。


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 今日はここまで。次回は村上春樹さんの言う地下室に下りてみようと思うのだが……。『風の歌を聞け』にも触れるつもり。深層心理とか機能不全家族とかしんどいテーマだ。