『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

ある大雪の日の春樹さん一時行方不明事件

「ピーター・キャット」で冬にリクエストが多かったアルバムで記憶にあるのは、デューク・ジョーダンの「フライト・トゥー・デンマーク」。真っ白な雪景色の森の小径にたたずむデューク・ジョーダンのジャケットが印象的。特にA面最初の「危険な関係のブルース:No Problem」は、忘れられないメロディーライン。雪景色のジャケットと共に、心を静めてくれる一曲だった。デンマークは行ったことがないが、ノルウェーの夏は知っている。夏至の頃は白夜で、夜中の2時頃が夜明けで、夜の10時頃が日没。反対に冬至の頃は、午前10時が夜明けで、午後2時には日没となる。北欧の冬は厳しい。しかし、彼らはそれを楽しむ術を知っている。

危険な関係のブルース:No Problem」 本来は、1960年ロジェパディム監督の映画「危険な関係」のサウンドトラック。演奏はアートブレイキー・ジャズ・メッセンジャーズで、危険な香りがする演奏である。デューク・ジョーダンのアレンジは、危険な関係が水面下に潜った感じか。泡沫(うたかた)の平穏。まるで、晩発性障害が爆発的に出現する前の、現在の福島や首都圏のようだ。チェルノブイリで5年間医療に携わった菅谷昭松本市市長が言う様に、海外から日本は放射能汚染された被曝国と見られている。それが事実。砂の中に頭を突っ込んで敵がいない様に思い込むダチョウ症候群に陥ってはいけない。
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 70年代の国分寺・国立辺りの冬の気温は現在より低く、最低気温がマイナス7度近くになることもあった。日中の平均も2度ぐらい。真夏の最高気温は34 度とかもあったが、最低気温が20度ぐらいと低く、熱帯夜は少なかった。それはそうだ。原発がまだ三基しかなかったのだから。原発は、発電量の二倍の熱量を温排水として海に垂れ流す非効率で環境破壊の発電。実は温暖化の原因。ある方が計算をしてくれた。「国内総発電出力、約10基はおシャカだが、50基稼働で5000万KWと概算、排熱はその出力の倍1億KW、1基あたり、70tの海水を7℃上昇、50基、毎秒3500tの海水を7℃上昇させる。原油1万トン積みのタンカーならば、3秒で満タン。0度の海水を1万トン分いい湯加?にするならば、18秒で1万トン分の海水が42℃の適温に!」ということだ。村上春樹さんが、カタルーニャ賞受賞スピーチで 述べた様に、原発=核は効率のよい発電システムであると国民を騙し、たかがお湯を沸かすために最も危険な核を使うという愚かな道を政府、官僚、財界は選んだ。そして、福島第一原発の取り返しのつかない大事故。我々はもう永久的に、放射能で汚れていない美しい地球に住むことはできないのだ。
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 その原発がまだ三基しかなかった74年の冬のことだった。明けて75年かもしれないが、東京に大雪が降ったことがある。その日、私は昼の当番で、カウン ター内でサンドウィッチのフィリングの仕込みをしていた。レジは春樹さんだった。国分寺駅南口からピーター・キャットまでの丸山通りは、結構な坂道なので積雪があると、粉塵公害の原因となったスパイクタイヤかチェーンなしでは走れない。スタッドレス・タイヤなどなかった頃だ。アパートから店に向かう時も、 車はほとんど通らなかった。時々金属チェーンをつけた車が、チャリチャリと音をたてて通り過ぎる程度で、人通りも少なかった。
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 サーモンサンドの仕込みをしていて、胡瓜が足りなくなった。春樹さんに向かいの八百屋まで買いに行ってもらうことになった。たぶんボタンダウンのワイシャツの上にザックリしたセーターを着て、スリムのコットンパンツ、バスケットシューズを履いた春樹さんが、鉄のドアを開けて階段を駆け上がって行った。私は、たぶんベルボトムのジーンズに、 ハイヒールブーツを履いて、タートルネックのセーターを腕まくりしてエプロン姿で仕込みをしていたと思う。玉葱のスライスやら、ゆで卵を作ったり、珈琲を入れたりと忙しく働いていた。開店前なので、もちろんまだ客はいない。雪は降り止んでいたが、結構積もったし大学も冬休みに入っていたので、客足は鈍いと予想できた。
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 そんなこんなで仕込みの作業をしていたのだが、胡瓜を買いに行った春樹さんが、いつまで経っても戻って来ない。それでも、暇だから八百屋の親爺と話をしているのだろうと思った。しかし、待っても待っても帰って来ない。ひょっとして、通りがかりの雪女に誘惑されて逃避行。いやいや、それはないだろう。もしや雪の道路を横断する時に車に撥ねられたかと、一瞬嫌な想像が駆け巡った。地下で鉄の扉だから救急車がサイレンを鳴らしても聞こえない。なにかあったかと、見に行くことにした。そんなことは、今まで一度もなかったから。
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 階段を上り一階の通路に出ると表の道路が見えてくる。通路の半ばまで行くと、不思議な光景が見えた。道路の向こうに前掛けをした八百屋の親爺がいるのだが、引きつった笑みで雪玉を作り、こちらに向かって必死に投げているのだ。しかも、こちらからはその数倍の雪玉が八百屋の親爺に向かって飛んで行く。歩道に出て左を見ると、なんということでしょう。
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 春樹さんを初め、一階の寺珈屋のマスターと従業員が、道路を挟んで八百屋の親爺と雪合戦をしているではありませんか。4対1。どうしてそういう状況に なったのかは分からないが、余りに理不尽。そこで私も寺珈屋&ピーター・キャット・チームに参戦した。たったひとりの八百屋の親爺には雨霰と雪玉が投げられた。親爺はといえば、半狂乱状態で投げ返して来るが、そこは多勢に無勢。惨めなものであった。稀に車が通ると休戦になった。チェーンをつけてジャリジャリ音をたててバスも通った。通行人もいないので、誰に迷惑をかけるということもなかったが、結局、馬鹿馬鹿しくなって笑いが止まらず、つまり飽きたので止めた。
 春樹さんは、胡瓜は買ってあった。どうせ客も来ないだろうと、ゆっくりと仕込みを再会した。
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 寺珈屋とピーター・キャットの従業員とは、仲がよかった。確か両方でバイトした者もいたはず。寺珈屋のバイト連中で映画のエキストラのアルバイトをしたこともあった。春樹さんは一人っ子のためか、皆を誘ってハイキングに行くとかはなかったが、定食の「あかぎ」やレコードショップなどには、一緒に行ったことがある。兄弟や同級生が多い団塊の世代にありがちな群れたがるというのが嫌いな人だったというのも、その後に生まれた三無主義世代の我々と、なんとなく馬が合った理由かも知れない。
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 春樹さんは、色々なことを話してくれたが、学生運動についても、必ずしも全面的に肯定はしなかった。ある人が「あの頃は純粋だった。」と言ったが、店が 終わった後で二人で話した時に、純粋なんて嘘だよ。オルグと称して女の子を軟派したり、資本論なんかロクに読んじゃいない。そんな連中がほとんどだったと言っていた。孫崎 享さんの『戦後史の正体』 (導入部 )を読むと、学生運動自体がアメリカに利用されていたということが分かる。団塊の世代はやたら群れたがるが、そういうところも春樹さんは違和感を感じていたようだ。結局、その後、その世代はCIAの出先機関の大手広告代理店により「ニュー・ファミリー」というネーミングをされ、大量消費社会のメインター ゲットになっていったのである。
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 学生運動といえば、そのずっと後に、東大法学部卒、東大駒場際の創設に初代委員長として携わり、日本航空労組委員長をした故小倉寛太郎さんと仕事をしたことがある。山崎豊子著 小説『沈まぬ太陽』の主人公の原型となった人だ。渡辺謙主演で映画にもなった。私が関わったのは、氏が創設した東アフリカの自然と人を愛する会「サバン ナ・クラブ」の書籍『サバンナの風』の編集アートディレクションとデザインをしたことがきっかけだった。村上春樹さんと共に私に大きな影響を与えてくれた人だ。
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 ナイロビ左遷の憂き目にあった小倉さんだが、捨てる神あれば拾う神あり。アフリカの水は氏にピッタリと合ったようだ。もし、アフリカに出会わなければ氏の人生は、冷徹な労働運動活動家としてだけの、実に味気ないものになっていたに相違ない。「アフリカの水を飲んだものは必ずアフリカに帰る」という言葉があるように、氏もまたその幸せなひとりだったと私は思う。
 仕事が一段落すると、小倉さんとはよく雑談をした。アフリカや私が放浪したアマゾンの話、自然保護の話、ハンティングを銃からカメラに持ち替えた話、 アフリカの動物はほとんど食べたという話、アフリカを撮る写真家は多いのに、なぜアマゾンを撮る写真家は少ないのかという話、アフリカンに嫁いだ日本女性の話、アフリカを訪れた日本人観光客がサバンナでひとり迷い、翌朝半狂乱で発見された話など話題は尽きなかった。今でも人なつっこい小倉さんの笑顔と、ア フリカを語るときの情熱的な眼差しは忘れることができない。
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 70年代のアフリカの話だが、小倉さん曰く「田舎の娘がナイロビのクラブにほとんど裸で出勤してくるんですよ。そして服を着て舞台に出る。踊りながらだんだん服を脱いで裸になる。家に帰る時は、またほとんど裸になって帰るんです。」と。急速な近代化を迎えたアフリカのちょっと哀しい笑い話もしてくれた。 「ナイロビに住んでいても野生動物を見たことがない人もいるんです。実際、来日して上野動物園で始めて実物のライオンを見たというアフリカンもいるんですよ。」と。
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『サバンナの風』の氏の文章の一節に、私が好きな言葉として、こういう一文がある。
「ここ東アフリカの大地に立つと、夜空を仰いでは天文学者になればよかったなあと思い、大地の亀裂、大地溝帯の不思議さを見て、ああ地理学者でもよかったなあと思う。原野を走る動物を見て、そうだ、動物学者という手もあった。目を落として足元の花を見て、植物学者でもよかった…と。こんな風に思わせるの が、東アフリカの自然なのです。」と。アフリカを通じて、「自然の中の人類の位置を見直す。」ということを訴え続けた方だった。しかし、それは日本の自然でもいえることだと私は思う。放射能で失われた福島や東北、関東の貴重な自然。権威と金に負けた原子力村の御用学者や政治家、官僚、財界人は、間違いなく地獄に堕ちるであろう。金の亡者になり、完全に生物である人間としてのプライオリティーを失している。
★小倉寛太郎さん東大での講演「私の歩んできた道駒場からナイロビまで~

『沈まぬ太陽』のモデル小倉寛太郎さんの思い出『サバンナの風』(妻女山里山通信) 表紙や巻頭グラビアの写真を提供してくださった岩合光昭さんとのエピソードも
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 2010年のノーベル物理学賞受賞者の小林誠さんの神戸大学入学式での講演が秀逸だった。「深い専門知識と広い視野の両立が課題」、「未知の領域の解決 の糸口は思いがけないと ころにある」、「習った知識はすぐに陳腐化する。知識の背後にあるものの考え方を身に付けてほしい。体系的な理解ができれば次に起こる事象や取るべき対応が判断できる」等々。
「考え方は一人一人違っていていい。学ぶとはどういうことか、自分で考えて学生生活を充実させてほしい」とも。何をどう学ぶかは自分で考えないといけないのが本来の大学である。高校までの様に教えてもらいに行くところではない。多くの学生が、ここの所を勘違いしている。そして、専門馬鹿ではいけない。まず ジェネラリストであれと、かのボードリヤールも言っていた。
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「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉があるが、これにも巧妙なレトリックがあって、気を付けないといけない。歴史というのは英雄史観や 階級史観が入り込みやすく、扇情的でセンチメンタルで、容易く人を魅了する非常に偏った一面的なものの見方に収斂してしまう危険性がある。小林誠さんが述べておられる「深い専門知識と広い視野の両立」、「糸口は思いがけないところに」、「体系的な理解」が重要なのは、そういう硬直した袋小路に入り込まないため、柔軟で広い思考力をつけろということなのだろう。また、ノーベル賞をとる功績は、失敗から得られたものが多いということも特筆すべき ことだ。失敗は成功の元。若者よ、チャレンジ精神を忘れずに。
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 今日はここまで。次回は、『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』
もうひとつのブログ「モリモリキッズ」では、「借りて来た猫」掲載中。笑える話です。

村上春樹さんチョイスのバンドで「ピーター・キャット」ライブ演奏の熱い夜

「ピーター・キャット」では、ほぼ毎月二回、日曜日の夜にライブ演奏を行っていた。出演のあるジャズマンによく言われた言葉がある。10枚のアルバム買う金があったら、半分はライブに使った方がいいと。俺たちのライブに来て!というのもあるが、それを置いても真実だと思う。生に勝るものはない。セッ ションにおける各自の息づかいや、メンバー同士のバトル。特に観客とのグルーブ感は、その場にいないと本当には分からない。しかも、ホールでなく小さな店 でやるわけだから、その臨場感は半端ない。子宮に響くと言った女性がいるのも分かる。レコードやCDでは聞こえない周波数も感じることができる。
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 女優の加賀まりこさ んが「上質なジャズは、上質なサッカーと似ている。」と言ったことがある。インプロビゼーションの妙。即興演奏こそがジャズの命。サッカーもそう。全く同じプレイは二度とできない。相方達との呼吸が全て。行く時は一緒でないといけない。彼女はよく分かっている。1964年の『月曜日のルカ』は、もちろん同時代には観ていないが、横浜のクラブで働く、男を喜ばせるのが生き甲斐という天性の淫婦ユカを見事に演じた。誰とでも寝るが決して唇は許さないという古典的な娼婦。ダンス・ジャズ曲などの音楽は黛敏郎。後年1981年の小栗康平監督の『泥の河』。彼女は、ここでも娼婦を演じている。当時38歳であるが、信じられないほど哀しく美しい。おばあさんになっても素敵な女性です。

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フォト・コラージュ。何かの課題で制作したものだろう。
典型的な70年代の写真ばかり。インプロビゼーション

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 ライブの日は、以前店内の俯瞰図を描いたが、イラストの上部にバンドが配置された。ピアノを上に移動して、テーブルセットを下げる。カップル用テーブル セットは外に出したかもしれない。ライブを始めた当初はそうでもなかったが、知られるに連れて人気が出た。バンドメンバーの彼女や友人も来ただろうし、お客も増えて店内は毎回もの凄い熱気に包まれた。ライブに勝るものはない。日によっては、満員で入れない人が出ることさえあった。イスが足りずに入り口のベ ンチチェストに、馴染みのお客さんに座ってもらったこともあった。非番で観に行った時は、私らバイトは立ち見がほとんどだった。注目の若手や、知り合いのジャズメンの時は必ず聴きに行った。
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 ライブ・セッションの日がバイトだと、ラッキーだが忙しかった。曲の合間にオーダーがどっと来る。カウンター内はてんてこ舞いであった。ただ、演奏中は概ね暇なので演奏を堪能できた。私は、ミルト・ジャクソンが好きだったので、ヴァイブラフォンの生演奏を身近で聴いた時は、本当に感動した。出演メンバー は、大御所ではなく、売り出し中の、あるいは、これから売り出そうという若手が中心だった。その中には、現在日本のジャズシーンの中枢を担う人も沢山いる。全ての出演者を覚えているわけではないが、特に印象に残っている人達を挙げてみよう。ただ、記憶違いもあるかもしれない。ご容赦を。
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男が女を愛する時」 水橋 孝カルテット。1974年発売のアルバムで、出るとすぐに春樹さんが買って来た。人気があり、リクエストも多かった。このアルバムは、大友義雄 (as),辛島文雄(p),水橋孝(b),関根英雄(ds)中村誠一(ts,B面のみ),向井滋春(tb,B面のみ),山本剛(p),福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds),鈴木勲(celo),和田直(g)と豪華なメンバーだった。トロンボーン向井滋春さんが、ライブをしたと思うのだが、どういう面子だったかは記憶にない。
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 板橋文雄さんは、リリカルで美しい反面、激しさも持った演奏が素敵だった。「渡良瀬」は、非常に好きな曲。ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」のセッションもいい。迫力あるソロ演奏も凄く好きだ。

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 山下洋輔トリオに入る前の小山彰太さんも、誰のバンドでかは忘れたが、ライブ・セッションに参加したことがあった。彼自身のバンドだったかもしれない。演奏は、フリージャズではなかったと思うが、店が壊れるかというほどの迫力があった。彼の激しいドラムは、上の寺珈屋を突き抜けて、漆黒の国分寺の空に尽きぬけて行ったに違いない。
 小山彰太さんには、やはりフリージャズが似合う。「ダイロー×坂田明×彰太「インプロ音楽祭・春」より@yokohamaエアジン2011」。「ピーター・キャット」では、春樹さんの趣向で、フリージャズはかけなかったが、私は大好きではまった。即興演奏が、どこまでもグルーブして昇天していく様は、何物にも代え難いエクスタシーを感じる。


 75年だったかな。イイノホールで行われた、山下洋輔トリオとマンフレッド・ショーフ・セクステットとのバトルはもの凄かった。坂田明がキレキレで、彼がソロを始めると、マンフレッドの面々が思わず苦笑いするほどぶっ飛んでいた。二つ前の席に在りし日の殿山泰司さんがいて、体を揺らしていた。
 フリージャズは、放射能で汚れてしまった今の日本に最も相応しい怒りと哀しみの音楽だ。「山下洋輔トリオ GUGAN」。


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 高瀬アキさん「SMCオーケストラ イースト・ウインド」1975年7月16日 新宿・朝日生命ホールファーストコンサートでのライブ。さすがに「ピー ター・キャット」では、ビッグバンドの演奏は無理だったが。店では、カルテットかトリオで演奏したと思う。女性ボーカルの人もライブをしたと思うのだが、 思い出せない。ビッグバンドは、国立の一橋大学の学園祭にサド・ジョーンズ&メル・ルイス・オーケストラが来たので聴きに行った。彼は、かつてカウント・ ベイシー・オーケストラにもいた。とにかくゴージャスな音に魅了された。特に「エイプリル・イン・パリズ」は大好きな曲で、私の「【信州の里山】五一山脈踏破 Goichi Mountain range in Nagano 」のBGMにも使っている。新緑の萌える信州の里山と、北アルプスの白く美しいスカイラインに、ピッタリと合っていると思うのだが、どうだろう。


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 佐山雅弘さんの「【佐山雅弘(P)、井上陽介(B)、大坂昌彦(Ds) 】.wmv」曲はサマー・タイム。大坂昌彦さんのドラムソロから入る。思わず引き込まれるいいセッションだ。二曲目は、なかなか思い出せなかったが「シェルブールの雨傘」。ミュージカルで、歌の部分はダニエル・リカーリ。カトリーヌ・ドヌーブが哀しく美しかった。1964年のフランス映画だが、当時はフランス&イタリア映画全盛だった。


 佐山さんは、国立音楽大学当時、私の友人が住んでいた国立の米軍ハウス近くのアパートに引っ越して来た。友人がアート・ペッパーを聴いていたら、ガラスの花瓶を持って挨拶に来たそうだ。どうやらサックス・プレイヤーだと思われたようだ。今や日本のジャズシーンを牽引する人である。
当時のジャズメンのつながりも分かるロング・インタビュー。(2005年3月31日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
★「カトリーヌ・ドヌーブ(クレオパトラの夢)バド・パウエル
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 生活向上委員会にいたベースのヨネキさんは、彼女とよく来ていた。ベースを乗せるために大きな中古のアメ車に乗っていた。「ピーター・キャット」の前に停めると、邪魔なのですぐ分かった。彼は佐山さんのバンドで出たのだろうか。彼女共々面白くて優しい人だったけれど、ベーシストは縁の下の力持ちで優しい人が多い。ドラマーは筋肉フェチ、ナルシストで変態が多いとか聞いた。ピアニストはインテリが多いが変人。サックスプレーヤーは、女たらし。ギタリストは マイペースで、恋人がギターという変態が多い。スイングジャーナルから1962に、『楽器別ジャズメン性格占い』なんていうとんでも本が出ていたのも可笑しい。楽器が性格を作るのか、性格が楽器を選ぶのか不明だが、それぐらいジャズメンにはクレージーで面白い人が多かったということだ。信州産の山猿の私が、アマゾンまで、とんでも放浪の旅に出る様になったのも、彼らとの付き合いがあったからである。間違いなくジャズメンは、私の人生を狂わせた。
 後に柳ジョージ&レイニーウッドに入ったサックスの鈴木明夫さんもライブをやったし、店にもよく来ていた。一緒に27歳の美しいママがやってるスナックにも飲みに行った。彼の話は「視線だけで行かせる技」とか面白かったが、ほとんど女にまつわる話だった。女はジャズの肥やし? どこかで聞いた言葉だが、彼は私の女学の先生のひとりである。
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 ライブ・セッションが終わってお客さんが帰り、メンバーが楽器を片付け、誰もいなくなると、その虚脱感も凄かった。激しい音の余韻だけが店内中に残っているのである。言霊(ことだま)という言葉があるが、それは音霊(おとだま)ともいうべきものだった。
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 今日はここまで。次回は、ある大雪の日の春樹さん一時行方不明事件。

人生は、ジャズと酒とバラの日々。村上春樹さんが教えてくれたカクテルあれこれ

「ピーター・キャット」のお酒は、ビールはキリンのラガーだった。キリンだから、輸入ビールはバドワイザーハイネケン、ギネスなども置いていたと思うが、確かな記憶がない。ウィスキーは、開店の74年発売のロバート・ブラウンオン・ザ・ロックや水割りは、オールド・ファッションド・グラスで。シングル、ダブルは、メジャーで量ってグラスに入れた。レモンスライスを添えるのが珍しかった。後にカティーサークとシーバス・リーガルも入れたかな。学生なんて普段は、トリスやレッドを飲んでいたから、ロバート・ブラウンなんて本当に贅沢な高級酒だった。当時、通称だるまと呼ばれるオールドは既に爺臭い酒というイメージだったから、新発売のロバート・ブラウンは余計に格好よく見えたのだ ろう。
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 ハイボールは、背の高いコリンズ・グラス(トール・グラス)で出していた。チムニー(煙突)・グラスともいうね。冬にはホット・ウィスキーをコリンズ・ グラスに持ち金具をつけて出していた。ソフトドリンクでコカコーラとジンジャエールを出していたので、それで割る人もいた。私はコーラが嫌いなので、コー クハイは飲まなかったが、ジンジャエールウィルキンソンが好きで、よくウォッカと合わせた。店ではカナダドライだったかな。これも記憶が曖昧。ロバー ト・ブラウンは、当時、定価が2820円もしたけれど、ボトルを入れる人は多かった。オイルショックといっても、今の不景気よりは遥かにましだったわけだ。 学生でも、こんなボトルを入れられたのだから。
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 バーボンは、アーリー・タイムズ。後にフォア・ローゼズやI.W.ハーパー、ワイルド・ターキーも入ったと思う。「ピーター・キャット」で初めてバーボ ンを飲んだという学生も多かったのではないだろうか。私もバーボンにははまった。個人的には、ブラントンやI.W.ハーパーの12年ものがつぼかな。ちなみにバーボンというのは、世界五大ウィスキー(スコッチ、アイリッシュ、カナディアン、アメリカン、ジャパニーズ)のひとつで、アメリカのケンタッキー州 で作られたものをいう。そういうわけで、有名なジャック・ダニエルは、バーボンではなくテネシー・ウィスキーということになる。『ララミー牧場』や『ロー ハイド』などの西部劇で、ショットグラスでカウボーイがグイッとのんだのはバーボンだったのだろうね。ストレート・ノー・チェイサーだ。バーボンは、基本トウモロコシとライ麦が原料だが、アーリー・タイムズは7割がトウモロコシなので個性的な風味を醸し出している。

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ストレート・ノー・チェイサー』 といえば、セロニアス・モンクだ。ジャズ喫茶に通っていた人なら、イントロを数秒聴いただけで分かるだろう。「ピーター・キャット」でも人気の曲だった。 「ジャズに名曲はない。名演奏があるだけ。」という言葉があるが、正に名演奏の一枚。曲ではなく酒の方は、小さなショットグラスで出していたけれど、トー ル・グラスの氷水(チェイサー)は必須で、いらないと言ったお客さんは記憶にない。いずれにせよ、体にはこの上なく悪い飲み方だ。20度以上の酒を生で飲 むと、食道が焼けただれる。それを続けると食道ガンや喉頭ガンになる。おすすめしない。ブラジルの叔父は、ピンガという透明なラム酒をポリタンクで買いに行くと、おまけのピンガをコップ一杯ストレートで空けてから運転して帰った。ほとんど車も通らない田舎道だからよかったものの、ブラジルとはいえ、リオや サンパウロでは、とてもできないだろう。

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「ピーター・キャット」で出していたバーボンのオン・ザ・ロックソルティ・ドッグ

このレモンのスライスを見て、懐かしいと思う常連さんもいるだろう。

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 ブランデーも出していた。銀座の倶楽部じゃないのだから、ヘネシーとかレミーマルタンとかではなく、ずっと安いものだけれど…。ワインも置いてあっ たが、銘柄までは覚えていない。ワインゼリーとコーヒーゼリーも作ったような気がするのだがはっきりしない。前回、皆でサドヤの一升瓶ワインを買ったと書 いたが、実はわが家は明治時代ワイナリーだった。葡萄酒製造業だった。父が戦前、近隣の集落の古老から、よくお宅へ葡萄酒買いに行きましたと言われたそうだ。そのまま続けていたら、私はワイナリーのオーナーだったかもしれない。いや、恐らく飲み潰しただろう。
 ジンやウォッカもあったのでジン・ライムとかジン・トニックは出していたかな。春樹さんが買い揃えて、少しずつ酒の種類が増えていった様な記憶がある。
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 店では、簡単なカクテルも出していて、私もよく作った。よく出たのは、ソルティ・ドッグ、ブラッディ・メアリーにカンパリソーダソルティ・ドッグ は、ゴブレットグラスの縁を濡らして塩をまずつけ、氷を入れてウォッカを注ぎ、絞ったグレープフルーツを入れ、バースプーンで軽くステアして完成。最初に 塩を付け忘れると作り直しになる。ソルティ・ドッグとは、甲板員のことで、塩っぱい野郎という意味。本来はジンを使うが、英国からアメリカに渡ってウォッカを使うロングドリンクになった。これは、男女問わず夏によく出た記憶がある。グラスの縁についた塩が、またグレープフルーツとよく合うのだ。塩をつけないのはブルドッグという。ジョージ・ガーシュウィンが 1935年のオペラ『ポギーとベス』の挿入歌として作った『サマー・タイム』が合うかな。エラ・フィッツジェラルドのボーカルで。ちなみに、私見三大「サマー・タイム」。ビリー・ホリデージャニス・ジョプリンアルバート・アイラー。いずれも素晴しい。


               ◆
 ブラッディ・メアリーは、コリンズ・グラスで出した。ウォッカとトマトジュースをステアするだけなので、家でも簡単にできる。黒胡椒をちょっと入れるといい。「血まみれメアリー」とは、新教徒を迫害した女王メリー1世ことメアリー・チューダーのこと。名前のおどろおどろしさに反して、トマトジュースが体によさそうとか、二日酔いに効くとかで流行ったカクテルだが、飲み過ぎれば二日酔いになることには変わりはない。ウォッカとトマトジュースの割合は、 1:4である。似合う曲といえば、トマトだからラテン系で、ガトー・バルビエリサンタナの『EUROPA』なんていいんじゃないだろうか。ヨーロッパといってもトマトの採れる南欧の香りがする曲だ。


               ◆
 カンパリソーダは、言わずともがな真夏の味である。あの苦みがいい。60種類もの薬草やらが入っている、まあ養命酒みたいなものだが、チンザノととも に、イタリアを代表するリキュールといっていいだろう。カンパリソーダカンパリ・オレンジが一般的だが、カンパリ・ビールも旨い。私的には、ネグロー ニが一押し。カンパリベルモットドライ・ジンのカクテルである。カンパリとグレープフルーツを合わせると、マダムロゼという女性好みのカクテルになる。カンパリソーダに合うジャズか・・。アート・ペッパーの『サーフ・ライド』なんかどうだろう。もっと気怠く、アストラッド・ジルベルトスタン・ゲッツの『イパネマの娘(Garota de Ipanema)』もいいと思う。小野リサもおすすめ。シルキー・ボイスが心地いい。彼女の父上の店「サッシ・ペレレ」にも、よく行った。舞台のリオ・デ・ジャネイロは、神様が作った庭園の様な美しい街だ。


               ◆
 春樹さんは、よく珍しい酒を買って来ることがあった。アブサンも そんな酒のひとつ。野球漫画で「あぶさん」というのがあるが、それで知っている人も多いかもしれない。春樹さんはヤクルトのファンで、よく神宮球場へ行っていたが、私は中学からサッカー部で、サッカー小僧だったので野球には興味がなかった。でも「あぶさん」は知っていた。アブサンは、「禁断の酒」といわれ る。ユトリロが中毒になったのも、このアブサン。ニガヨモギ、アニス、ウイキョウなどとスパイスが主成分。香味成分のニガヨモギが中毒性があるとして、各国で製造禁止になったが、現在はそれはないということで復活している。日本ではペルノーが買える。アルコール度数は60〜75度。ストレートで飲んだら確実に喉が焼けただれる。尚かつ、注ぐグラスは決めておかなければならない。洗剤で洗っても匂いが落ちないのだ。私は、結構アニスの香りが好きで、リカルドをよく飲んだ。長距離ドライブをする時には、必ずアニスのタブレットをかじっていた。バイソングラスが入っていて、なぜか桜餅の香りがするズブロッカもいい。これも店にあった様な…。
               ◆
 酒にまつわる名言、迷言あれやこれや。
「一人の人間が習慣的に大量の酒を飲むようになるには様々な理由がある。 理由は様々だが、結果は大抵同じだ。」『羊をめぐる冒険村上春樹 
「もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。」村上春樹

「酒は文明に対する一つの諷刺である。」萩原朔太郎
「アルコールは人間にとって最悪の敵かもしれない。しかし聖書には敵を愛せよと書いてある。」フランク・シナトラ
「私は人生を忘れるために酒を飲んだことは一度もありません。逆に人生を加速させるためなのです。」サガン
「天国に酒はない! 生きているうちに呑め!」ベルギービール醸造しているトラピスト修道院
「酒と女と歌を愛さぬものは、生涯愚者である。」ルター
娘「酔うってどういうこと?」父「ここに二つのグラスがあるだろ。これが四つに見えたら酔ったということさ。」
娘「お父さん。グラスはひとつしかないよ。」ロシアのジョーク。

泥酔状態の親父「おい。お前みてぇな、顔が三つも四つある息子にゃ、この家はやれねぇ。ヒック♪」おなじく泥酔状態の息子「てやんでぇ。俺だって、こんなぐるぐる回る家なんざぁ欲しかぁ~ねぇやいっ!」古今亭志ん生
「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」立川談志
「酒に酔って女と車に乗ってよかった試しはない」詠み人知らず
「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」種田山頭火

 ワールドカップの試合をビールを飲みながら見ていて、一番いいところで尿意を覚えたので小さかった息子にこう言った。「代わりにトイレに行って来て!」息子「はい!」わが家
ワールドカップの観戦は、開催国に行ったつもりで、その国の酒を飲む。
イタリア大会は、スプマンテグラッパアメリカ大会はバドとバーボン。フランス大会はワインとシャンパン。とすると、次回のブラジル大会は、ピンガラム酒)とバチーダ(ピンガのカクテル)になる。
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 酒にまつわる映画はいくつもあるが、ジャズ演奏で聴けるものでは、この二つを挙げたい。

www.youtube.com男が女を愛する時(When a Man Loves a Woman)」は、妻のアルコール中毒を激しい葛藤の末に乗り越えて行く映画。出会いの場面でのメグ・ライアンが大胆でセクシー。パーシー・スレッジの主題歌が有名だが、「ピーター・キャット」では、74年発売の水橋 孝カルテットのアルバムが大人気で、リクエストが多かった。海外のジャズメンも多く演奏しているが、この演奏は秀逸。ぜひオリジナルを聴いて欲しい。

酒とバラの日々(Days of Wine and Roses)」は、アルコールに溺れて行くカップルを描いたアメリカ映画。ウェス・モンゴメリーのブルージーなギター演奏で。
「人生は、ジャズと酒とバラの日々」私。美しいバラには、棘がある。何度痛い目に遭ったことか。
お後がよろしいようで・・。
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 今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」ライブ・セッションの熱い夜。

わが家の定番となった「ピーター・キャット」村上春樹さん夫妻考案のサンドウィッチあれこれ

「ピーター・キャット」では、村上春樹さん夫妻が考案したサンドウィッチを出していた。全部で7、8種類ほどあって、昼を任された時は、仕込みが結構大変だった。そのうちのいくつかは、わが家の定番となった。私が元妻に教えたのである。息子達は最近まで、それが村上春樹さん由来のサンドウィッチとは知らずにいた。わが家の定番となったレシピを書いてみるが、いずれも完全なオリジナルではない。微妙に修正されていたりする。まあ、早い話が完全には思い出せないのである。チェルノブイリ3年後のノルウェーに行った時に被曝したせいかもしれない。
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【コッドロー・サンド】
 最初から聞き慣れないメニューだと思う。コッドローとは、タラコのこと。タラコの缶詰を使ったサンドウィッチである。デンマーク産のプレスド・コッド ローという名で四角い缶詰がある。北欧やロシア産が主。極薄い塩味がついていて、マヨネーズやバターとよく合う。これをスライスし、焼いてマヨネーズを塗ったパンに、胡瓜のスライスと一緒に挟む。対角線に切って、スライスした胡瓜のピクルスを爪楊枝に刺して、更にパンに刺す。上に取っ手のついた小さな篭目編みの竹の器にキッチンペーパーを三角に折って敷き、そこにサンドウィッチを並べて提供した。タラコの缶詰なんて珍しかったし、美味しいので人気があっ た。息子達には、マヨネーズに少しトマトケチャップを入れてサウザンアイランド風にすると喜ばれた。マヨネーズに、ニンニクペーストやブルーチーズを混ぜ込んでもいける。オニオンスライスとレタス、トマトを足しても旨い。
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【オイルサーディン・サンド】
 これも定番。おつまみでも出していたオイルサーディンを崩し、フライパンでスクランブルエッグと合わせる。少し生クリームを入れたかな。焼いたパンにバターとアンチョビーペーストを塗り、具を挟んで切る。オイルサーディンは、ノルウェーのキング・オスカーのを使っていた記憶があるのだがはっきりしない。 オイルサーディンが大好きな私は、自分で作れないか研究した。そしてオイルサーディンのレシピを作り上げた。要するに油でカタクチイワシ(ヒコイワシ)を煮ればいいのである。揚げてはいけない。ついでに、1年かかるけれどもアンチョビーの作り方も載せておこう。レシピを完成させるまでに数年かかった力作で、これは旨い。絶品である。「オッソブッコ」の隠し味にもいい。「オイルサーディンのスペイン風オムレツ」も簡単で旨い。
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【コンビーフ・サンド】
 当時は高価だったリビーのコンビーフの缶詰を使ったサンドウィッチ。普通は、ノザキの馬肉配合小さな缶詰を食べていたから、これは贅沢な感じがしたものだ。本来は、 ザウワークラウトと合わせるのだが、店では茹でキャベツの甘酢漬けを挟んでいたかな。焼いたパンにバターと粒マスタードを塗って、スライスしたコンビーフとザウワークラウトを挟む。私は発酵食品フリークなので、いつもザウワークラウトの瓶のストックがあった。発酵食品は体にいい。臭いのが璧に傷だが、それも慣れるとまた味わいとなる。世界一臭い食べ物といえば、シュールストレーミングだろう。フルーツでいえばドリアンだが、アマゾンにはムルシという雑巾を絞った臭いのする果実がある。日本のスッポンタケというキノコもグレバがかなり臭い。軸は中華料理のスープの具になる。ウォッシュタイプのチーズも相当臭い。クサヤもいいが、太平洋のものは、もう放射能汚染でだめだろう。いずれも私の大好物なんだが。食い物の恨みは恐ろしい、いずれ東電原発村は地獄に堕ちるだろう。
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 コンビーフといえば萩原健一と水谷豊の『傷だらけの天使』 のオープニング。ちょうど74年の秋から始まったドラマだが、オープニングで、なぜか水中メガネをつけたショーケンが、寝起きにコンビーフを丸かじりして 牛乳で流し込むシーンがあった。昔真似したが、これはいかん。口の中が脂でギトギトヌルヌルになって気持ち悪いことこの上ない。コンビーフは焼いた方がいい。あのドラマ、個人的にはホーン・ユキさんが好きだった。昔は巨乳などと下品な言葉は使わず「ボインちゃん」と言ったものだ。後に水谷豊の奥さんとなった元キャンディーズのランちゃんとは、昔、通勤時に桐朋学園の前で毎朝すれ違っていた。仕事柄芸能人はたくさん知っているけど、素の彼女もとっても素敵な人だった。コンビーフの巻き取り器は、昔は底についていたが、発見できず開け方が分からない人がいたらしく、横につくようになった。缶の切り口で手を切る と、ザックリ酷い怪我になるので、春樹さんと陽子さんに気をつける様に言われていた。それでも一度位は切っているね。
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【サーモン・サンド】
 やはり人気メニューだったが、これの仕込みが一番大変だったかな。鮭の缶詰をよく絞っておく。玉葱、胡瓜、キャベツをスライスして塩揉みし、しっかり水気を切る。これらを合わせて、マヨネーズ、胡椒、塩を加えてよく混ぜる。これを焼いてバターを塗ったパンに挟んで切る。わが家ではこのレシピがツナサンド に変わってしまったが、ツナサンドの方が、世間でも今ではポピュラーかもしれない。このサーモン・サンドの仕込みについては、春樹さんのプチ行方不明事件というものがあったので、いずれ書かなければならないと思っている。スモーク・サーモンを使った簡単で旨いディップがあるので紹介しておこう。「サーモン&フレッシュチーズ・ディップ」。サンドウィッチのフィリングにもなる。チーズはベクレてないものを。
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 輸入食材は、よく国立の「紀ノ国屋」に買いに行った。学生には分不相応な高級スーパーだったが、村上夫妻にグルメを教えられた私は、きつい課題が終わったり、バイトのお金が入ると行ったものだ。エッセイで春樹さんが書いている様に、レジの女の子も奇麗な人が多かったし。甘鯛のテリーヌなんて一切れ400円もしたけれど、買ってドイツの白ワイン、シュバルツカッツ(黒猫)とともに堪能したものだ。黒オリーブの缶詰や瓶詰めも大好きで、汁も飲んでしまうほどだった。村上春樹さん初め「ピーター・キャット」の皆で、確か「船問屋」の主人が、これは旨いよと紹介してくれた甲州は「サドヤ」の一升瓶の赤ワインを取り寄せたこともあった。これは「サドヤ」の人も知らないだろう。信州の塩尻のワインもおすすめである。
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 パンは、「紀ノ国屋」近くの「サンジェルマン」のものを使っていた。店ではフランスパンは使わなかったけれど、私は好きで「サンジェルマン」でよく買っ た。パンプキンパイも旨かった。フランスパンは青山の「ドンク」のが本物だよと聞いて、わざわざ買いに行ったこともある。その2年後パリで本場のものを食べて、あまりの旨さに感激した。まだパリでも石釜焼きのバゲットが普通に買えた頃だ。友人のフランス人が、そう言っているので間違いないだろう。泊まっていた安ホテルの朝食が、バゲットとバターに林檎と蜂蜜を練ったものだったが、これが異常に旨くて、毎朝一本は食べて、「そんなに美味しい?」とホテルの女将に呆れられた。カフェオーレとよく合った。
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「紀ノ国屋」では、ライ麦の粒が入った酸味のあるフォルコルンブロートが大好きでよく買っていた。これにゴルゴンゾーラとかブルーキャステロを乗せて赤ワインのつまみにすると最高である。昔、3歳位だった息子を連れて青山の「紀ノ国屋」へ行った時、彼が行方不明になった。慌てて探すとチーズ売り場で試食三昧をしていた。なんでも旨いと言って食べるので、試食のおばさんが面白がって、これもあれもと食べさせたらしい。結果、現在彼はとんでもない食いしん坊な 大学生になっている。実は、彼はとある事情でうちの冷蔵庫に最高級フレンチレストランのフォアグラのヤレが2キロあり、それを離乳食で食べていた。さもあ りなんの結果かもしれない。東京時代に、近所に天然酵母田舎パンの「ルヴァン」の工場があった。小さな息子を連れて行くと、お姉さんが必ずおまけをくれた。ここのパンは本当に旨い。柔軟剤という毒物を使っていないので、日が経つと石の様に硬くなるが、蒸すと戻る。ここのカンパーニュは最高だ。今は、信州の上田にもある。
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「ピーター・キャット」では、ソフトサラミもおつまみで出していた。これも当時としては珍しかったと思う。ソーセージは、フランスでは「ブーダン・ノワー ル」、ドイツでは「ブルート・ヴルスト」、スペインでは「モルシージャ」、イタリアでは「サングイナッチョ」、沖縄では「ちーいりちー」と呼ばれるブラッ ド・ソーセージ(血のソーセージ)が大好きで、よく買った。ブラジルでも食べたし、韓国には「スンデ」という餅米が入ったものがある。ノルウェーに行った時も食べた。血のソーセージは、古代ギリシャ時代からある。遊牧民が保存食として家畜の肉を余さず利用するために作った。ホメロスの「オデュッセイア」に は脂身と血を詰めた山羊の胃袋などといった形でこのソーセージが紹介されている。
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 意外なのは、「ピーター・キャット」に、一番似合いそうなBLTサンドがなかったということだ。BLTとは、ベーコン、レタス、トマト。サンドウィッチの中でもハムサンドとともに最も一般的なものだ。なぜなかったのか、理由は分からない。村上春樹さんに聞いて欲しい。そう思ってよくよく考えたら、店にはベーコンをカリカリに焼くガスコンロがなかった。BLTサンドの店でおすすめは、調布飛行場 の「プロペラカフェ」のものだ。滑走路から飛び立つセスナを見ながらBLTサンドを食べるのもいい。ガラス窓越しに格納庫のセスナも見える。デートに使うとよろし。子供も喜ぶ。
 実は、ベーコンも市販品のほとんどは薫製ではなく、薫液に漬けただけのもの。やはりきちんと燻煙したものが旨い。ベーコンの作り方も紹介しておこう。
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 基本、昼はひとりだが、夜はカウンターの中に二人入った。オンザロックソルティ・ドッグ、ブラッディ・メアリーなど、お酒を供する係と、サンドウィッチやナッツなどのおつまみを供する係。そしてウェイトレスとレジ。お酒とレジは春樹さんと陽子さんが担当することが多かったが、稀に二人とも用事でいないこともあった。特に昼間は、アルバイトだけでやったこともあった。暇なときは掃除をしたり、アルバムの整理をしたりしたが、悪天候の日等お客がほとんど来ない日は、退屈で仕方がないので、普段全くリクエストがない、埋もれたアルバムを聴いたりしたものだ。

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写真は、「ピーター・キャット」のを元に、その後進化を遂げたわが家のサンドウィッチ。簡単なレシピも紹介するので、気に入ったら作ってみて欲しい。
(上段)コッドローとサーモンは、アンデスのキヌアを混ぜ込んで焼いたバンズに挟んで。コッドローは少し焼いてレモン汁を振ってもいい。スモーク・サーモンでコクを出す。ケチャップとマヨネーズを合わせたオーロラソースで。
ソーセージとザワークラウトは、たっぷりの粒マスタードが決め手。緑はルッコラ
(中段)コッドローとラムは、一緒に挟むのではなく別々。ローストラムの薄切りを使うと英国風。ブルザンチーズ(アイユ)を合わせる。コッドローはちょっと焼いてブランデーでフランベしてもいい。
バジルツナサンドは、名前の通りバジルのみじん切りを混ぜる。バジルペーストでもいい。アイオリエッグサンドは、ゆで卵にニンニク、オリーブ油、マヨネーズと塩・胡椒を和える。これにオイルサーディンを挟んでもいける。
(下段)キョフテメンチは、トルコ料理のアレンジ。ピタパンも自分で焼く。作り方は、中華の家常餅(ジアチャンビン)と同じ。油をオリーブ油にするだけ。
パステルは、ブラジルの代表的なスナック。中身はチーズだが、これにグァバを加えると、ロミオとジュリエットという名前になる。