『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

夏に似合うジャズアルバム。「ピーター・キャット」の気怠い夏

 最高気温36度の信州で書くには絶好のテーマかもしれないが、脳がメルトダウンしている。暑すぎるせいか、例年より早く妻女山山系のオオムラサキもほとんど姿を消してしまった。翅がボロボロになってもまだ求愛ダンスを続けるオオムラサキのペアを見て、荘子の『斉物論』にある「胡蝶の夢」という寓話を思い出した。荘子が夢の中で蝶になり、空を舞って楽しんでいると目が覚めてしまう。すると、自分が夢を見て蝶になったのか、蝶が夢を見て自分になっているのか、どちらか分からないという話だ。夢と現(うつつ)の区別がつかないことの例えや、人生の儚さの例えである。大発生したかと思うと、アッと言う間に姿を消す生態や、蝶の予測できない不安定で気まぐれな飛び方から思いついたものだろうか。オオムラサキやら、今年はほとんど見られなかったゼフィルスが、来年は多く発生してくれることを祈るのみだ。奇形が一頭も見られなかったのは幸いだったが。
               ◆
 大学一、二年は国分寺、三、四年は国立だったが、一年の夏休みは以前書いた様に、雑誌『non-no』など複数のバイトに明け暮れた毎日だった。それもあって9月から「ピーター・キャット」のアルバイトを始めたわけである。というわけで、夏休みに「ピーター・キャット」のバイトをしたのは二年のときだった。帰省する学生も多いので、店は比較的暇だった様な気がする。夏休み中どっぷり田舎に帰るという学生はほとんどいなかったのではないだろうか。一週間から10日ぐらい帰省するというのが一般的なパターンだったと思う。アルバイトもあったし。
 帰省しても高校時代の悪友と再開するというぐらいがわずかな楽しみだった。親友の家に集まって、ビールを飲みながら、田圃の蛙の合唱をBGMにお気に入りのジャズアルバムを聴く。そんな毎日だった。皆が混雑する旧盆に帰省するとも限らないので、思いついて友人のアパートをふらっと訪ねるといないなんてこともよくあった。なにせ電話も携帯もメールもなかったわけだから。毎晩集会所に集まる猫達の方が、よほど情報網が進んでいた時代だ。
               ◆
 話が逸れるが、猫がらみ。私の趣味のひとつに「猫をからかう」というのがある。高度な技術と哲学を要する高尚な趣味である、わけがない。社会人になって南米に行く前に、参宮橋の一階に大家さんのしなびたおばあちゃんが一人で住んでいる家の二階に間借りしていたことがある。その北側に小さな砂利の駐車場があって、そこが夜中になると近隣の猫の集会場になっていた。これの観察は生物行動学的にもなかなか面白かったが、あるとき邪悪な心が芽生えた。ドライのキャットフードを買って来て、そっと窓を開けて集会の真ん中にバラバラッと大量に投げてやるのだ。突然空から嫌いな雨ではなく餌が降って来たものだから、 集会どころではなくなる。もうめちゃくちゃである。面白かったが、こんなことを続けていたら、餌どころかお嫁さんも優しい飼い主も全て空から降って来ると思う様になるのではないかと思い止めた。優しい恋人が空から降ってこないかな……。
               ◆
 夏に似合うジャズアルバムといっても人それぞれだろう。意外なアルバムを挙げる人もいるだろうと思う。夏には各地でジャズ・フェスティバルが行われるので、そのイメージも強いかもしれない。私も80年代前半は、地元の友人達と信州斑尾高原のジャズフェスに通ったものだ。爽風の吹く信州の明るい高原でビールを飲みながら聴くジャズは、地下室の薄暗い「ピーター・キャット」で聴くそれとは、また違った趣があっていいものだった。往年のB.B.キングの演奏などは真昼の正夢の様だった。
               ◆

f:id:moriIQ84:20160321113212j:plain

アストラッド・ジルベルト/ゲッツ & ジルベルト/オスカー・ピーターソン/セルジオ・メンデス
ガトー・バルビエリ/アルバート・アイラー/マッコイ・タイナー/ウェイン・ショーター


「ピーター・キャット」で夏にリクエストの多かったアルバムといって最初に思い出すのは、やはりボサノバ。アストラッド・ジルベルトスタン・ゲッツとの共演による「イパネマの娘」をまず思い出す。『GETS/GLBERTO』も名盤だ。春樹さんお気に入りのスタン・ゲッツのサックスが朗々と流れる。ジャズギターの名手、ケニー・バレルの『BLUE Bossa』。真夏の気怠い午後に。ウェス・モンゴメリーの『Windey』は、爽やかな海辺の朝を思い出させる。よく当時のデパートやスーパーマーケットでも流れていたけどね。でも決してイージー・リスニングではない。これは聴いたことがあるという人が多いだろう。


 ジョー・パスの『Misty』。真夏の夜にカンパリソーダを飲みながら聴きたい。夏はジャズギターが合う。


               ◆
 来年(2014)は、ブラジルでFIFAのワールドカップの大会がある。大手広告代理店はこぞってブラジルブームを仕掛けるのは間違いない。作られたブラジルブームが起きるだろう。既に実力派℃-ute (キュート)の『あったかい腕で包んで』 も、ボサノバでリリース。驚いた。アイドルグループの歌とは思えない程いい。


 ボサノバ(Bossa Nova)とは、英語でいえばニュー・ウェーブ。つまり新しい波。1950年代後半にリオ・デ・ジャネイロコパカバーナやイパネマ海岸に住む裕福な家庭の学生やミュージシャン達の手で生まれた。最も有名なのは、やはりアントニオ・カルロズ・ジョビンだろう。80年代にリオの高層マンションのドミトリーに滞在したことがあるが、コパカバーナやイパネマの街のお洒落な風景は、その背後の山の急斜面にあるファベーラ(貧民街)のそれとは別次元のものだった。

神が造った庭園。その光と影。リオデジャネイロ」アマゾンひとり旅
               ◆
 日系人では、サンパウロ生まれの小野リサが一押し。四谷にある彼女の父上がやっていた店「サッシ・ペレレ」も何度か行った事がある。『イパネマの娘 小野リサ』は、彼女の魅力が凝縮されている。彼女のヴェルヴェット・ヴォイスを一度聴いたら、必ず虜になるだろう。


 ブラジルには、19世紀に生まれたショーロ(choro)という音楽がある。普通は親しみを込めてショリーニョという。ブラジルのジャズとも呼ばれ、即興性もある。アマゾンで停電した夜に、宿の向かいの家が泥棒除けにショーロを大音量で流していた。エキゾチックな調べが旧市街の壁に反射して、アマゾンの漆黒の空に消えて行った。代表的な曲のひとつ、『Roda de Choro - Noites Cariocas』。『Brasileirinho』

www.youtube.com               ◆
 オスカー・ピーターソンの『Soul Español』は、ラテンナンバーばかりを集めたアルバム。彼の中では異色のアルバムだが、非常にいい。夏向きだ。『Mas Que Nada』 は、セルジオ・メンデスのものがなんといっても有名だが、「鍵盤の皇帝」と呼ばれたピーターソンのダイナミックにうねる演奏は、やはり圧倒的。魅力的だ。 このアルバムが店にあったかは記憶が曖昧だが、自分が買ったアルバムでも、春樹さんのOKが出れば営業中でもかけることができた。ビッチェズ・ブリュー以降のマイルスとか、ソロ・コンサート以降のキーズ・ジャレットとか、ダラー・ブランドとか、セシル・テーラーなどのフリージャズはもちろん論外だった が……。そういうのはアパートや他のジャズ喫茶で聴いた。オスカー・ピーターソン・トリオの『When Summer Comes』。なんて美しい演奏なのだろう。「ジャズに名曲はない、名演奏があるだけだ」という言葉を思い出す。
               ◆
 ガトー・バルビエリのテナーが切ない『Under Fire』は、春樹さんが買って来てリクエストが非常に多かったアルバム。聴き所は、やはりA面二曲目の『Yo Le Canto a La Luna(月に歌う)』だろう。大胆な性描写(バターを塗ってアナルセックス等)で話題になったマーロン・ブランドマリア・シュナイダー主演の『Last Tango in Paris』で彼の演奏が使われたためだろうと思う。男女問わず人気があったが、女性はどこに惹かれたのだろう。ガトー・バルビエリのむせび泣くテナーとジタンの煙とパリジェンヌのヌードと『gato barbieri - last tango in paris』。

(*YouTubeでご覧ください)
               ◆
 アルバート・アイラーは、享年34歳で、ニューヨークのイースト・リヴァーで溺死体で発見されたサックス奏者。基本がフリージャズの人なので、彼のアルバムは店にはたぶんなかったと思う。『my name is ALBERT AYLER』という風変わりなタイトルのアルバムで、その名の通り「私はアルバート・アイラーです。」という自己紹介から始まる。聴き所は四曲目の「Summer Time」。 これが聴きたくてこのアルバムを買ったといっても過言ではない。それほど素晴しい。寝苦しい熱帯夜に聴くといい。たぶん余計眠れなくなるが……。

www.youtube.com そんな夜はジンベースのカクテルがいい。ジンライム、ジンフィズ、ジンリッキージンバック、ネグローニ等がおすすめ。蒸し暑い夜にはジュニパーベリーの香りが合う。ジュニパーベリーは薬草でもある。利尿作用や殺菌作用があり、痛風やリウマチなどの関節炎に効くそうだ、だからといって飲み過ぎたら元も子もないが。
               ◆
 マッコイ・タイナーの『ATLANTIS』は、1975年のアルバム。A面は18分余り全て「Mccoy Tyner - Atlantis」 である。イントロはお寺の読経の鐘の様で、とても「ピーター・キャット」でかけられる様な曲ではないとも思えるが、マッコイのピアノとアザール・ローレンスのサックスが始まると、そうでもないのです。スリリングな疾走感がたまらない。アッと言う間の18分。これは店でかけたことがある。発売直後だったので、かけると気になったお客さんが、わざわざ席を立ってジャケットを見に来た事もあった。そんな時は思わずほくそ笑んだものだ。これは、春樹さんは買っただろうか。店にあったような記憶があるのだが……。
               ◆
 ウェイン・ショーター率いるWETHER REPORTの『MYSTERIUS TRAVELLER』。 忘れもしない、これは悪友N君が高校時代だったか「おまえこれ分かるか」と言って持って来たアルバム。今ならどうということもないが、当時は確かに斬新なサウンドだった。アマゾンの密林のシルエットに落ちて行くUFOの様なジャケットも新鮮だった。真夏の熱帯夜に聴くと不思議な爽涼感があった。「Nubian Sundance」という曲があるから、これはアマゾン河ではなくてナイル河なのだろう。しかし、私が思い出すのはあくまでもアマゾン河だ。作家開高健も愛したサンタレンの夕日を思い出す。


               ◆
 あれは一年の夏休みだったろうか。製図の基礎課題だったと思うが、B2のケント紙に目一杯製図で使う線種を上から10ミリ置きに描いて行くという、実に 単調で手間の掛かる課題があった。太線、中線、細線、破線、一点鎖線、二点鎖線等々。世界標準の製図の基本なんだが、やった人は分かるだろうが、大事だと分かっていてもこんな退屈で難儀な単純作業はない。皆で、これは一人でやったら気が触れるよねということで、一軒家の離れに間借りしていた「ピーター・ キャット」のバイト仲間のY君の部屋に集まってこなすことになった。
               ◆
 夏の暑い夜。ジャズをBCMに一斉に作業に取りかかった。最初は余裕で会話しながら順調に進んでいたのだが、深夜に及んで精神に異常を来す者が現れた。 余りの単純作業の馬鹿馬鹿しさに、なんの前触れもなくひとりが笑い始めたのだ。もういけない。笑いは伝染し訳もなく皆のたうち回って笑い転げた。泣きつかれると、 もう泣けない様に、笑い疲れるともう笑えないものだ。その後、黙々と夜が白むまで一片の笑みも会話もなく終わるまで作業が続いたのはいうまでもない。こういう作業は、CAD全盛の現代では既に廃れたものだろうと思っていたら、建築科に進んだ次男が同じ様な事をやっていて笑った。基本は大事なのだ。アナログに勝るものはない。
               ◆
真夏の夜の夢』 といえばシェークスピアだが、あれはいつの夏の夜だったのだろう。上野駅の不忍口のコンコースに上がった時だった、向かいの階段を金髪の美しい少女達が大勢駆け上がって来た。しかも、Hurry up!と必死に駆け足なのだが、信じられない程走る姿が美しい。慌てて改札を抜け、上野の森に消えて行った。なんだあの妖精達はと思ったら、その先の闇の 中に英国ロイヤル・バレー団の講演の看板が見えた。正に『真夏の夜の夢』だった。昔、代々木八幡の駅だったかな。向かいのホームの端っこでバレー教室の帰りの少女がふたり、裸電球のスポットライトの下で、その日教わったのだろうポーズの練習していた。あれも妖精の様で見とれた。余りに可愛らしくて思わず微笑んだものだ。美しいシーンというのは、何気ない日常の中にこそある。
               ◆
『Jazz On A Summer's Day 1960』 という映画がある。ジャズファンならぜひ観たい。セロニアス・モンクソニー・スティットアニタ・オデイ、ダイナ・ワシントン、 ジェリー・マリガンサッチモ、マヘリア・ジャクソン等々の素晴しい演奏や歌が聴ける。失われてしまったアメリカがそこにはある。

www.youtube.com まもなくアメリカは崩壊するだろうと世界の経済アナリスト達は言っている。もっとも日本はその前に、福島第一原発再臨界や再爆発。あるいは、大地震や大噴火で先に逝ってしまうかもしれないが。チェルノブイリでも、なんだ放射能も大したことないなと言っていて、5年後、6年後に壮絶なパンデミックが起きた。それでも日本の人々は、カタストロフィーの直前まで踊り続けるだろうけれど。安全性バイアス、同調性症候群、ダチョウ症候群にかかった人々を救うのは極めて困難だ。自分がそうでないと言える人は、既に汚染地を脱出しているだろう。首都圏も例外ではない。信州にも高濃度の汚染地がある。最終処分場も小諸にある。今の日本にもはや絶対安全地帯などない。
               ◆
「ピーター・キャット」の気怠い夏は、学生の夏休みが終わりに近づくと喧噪の日々が戻って来た。毎日の様に見慣れた顔が増えて来て、久しぶりに会った高揚感みたいなものが店中に溢れた。店は再び大賑わいになった。そんな蒸し暑い残暑の夜は、ソルティドッグやブラッディ・メアリーがよく出た。ソルティドッグに関しては、71年にグレープフルーツの輸入が自由化され、70年代半ばになると安く買える様になった影響が大きい。当時、一番お洒落な果物だったと思う。ムサビの女の子達が来ると注文していた様に、女性からの注文が多かった。一般的にはウォッカベースで作るけれど、私はむしろ古典的なジンベースの方が好きだ。もちろんグラスの縁には塩を付けて。もし熱帯夜だったら、少しジンを多めにして炭酸を加えてもいい。邪道だけれどね。
               ◆
今日はここまで。次回は学生時代に行ったロンドンとパリについて。

70年代の学生の自炊と外食。つまり食料事情について。抱腹絶倒の物語

 70年代の平均的な学生の一人暮らしというのは、たいていが四畳半か六畳のモルタルアパートだった。三畳に住んでいた強者もいた。賄い付きの下宿というのもあったが、数は少なかった。部屋はたいてい畳敷きで、小さな台所とトイレが付く。水洗がほとんどだったが、郊外ではまだ汲取も少なくなかった。 ワンルームマンションなどまだない頃だ。携帯はもちろん、電話も債券が高かったので入れているのは、クラスでは金持ちの芦屋出身のお嬢さんぐらいだった。 だから友人の所へも突然訪ねていったりした。不在ならそれまで。面倒だが束縛もなかった。その辺の犬や猫の様な暮らしだった。携帯がなかった当時、デートの約束等、皆どうしていたのだろうと、今になって思う程だ。彼女が家族と同居だと、母親ならともかく父親が電話に出たりすると、そりゃもう……。
               ◆

f:id:moriIQ84:20160321113013j:plain

何を煮ているのだろう。怪しげな鍋だ


 当時のアパートは、小さな流しと、ガスコンロがひとつあるだけだった。四角いステンレスのカバーのものもあったが、鋳物のごついやつも普通にあった。流しはステンレスが多かったが、古いアパートでは石のものもまだあった。普通、調理器具は鍋とフライパンにトースターぐらいだろう。おっと、電気炊飯器も忘れてはいけない。それと電気ポットは、当時の学生の必需品だった。ひとり用の小さな冷蔵庫も必需品だったが、高いので古道具屋で中古を買った。調理器具ではないが、ベッドは病院用の畳のベッドを買った。2年の終わりに友人に譲って卒業する女性の先輩から宮付きの木製ベッドをもらった。そんな風に、融通しあってなんとかしのいだものだ。ビールケースを並べて上に厚いベニヤを敷き、ベッドにしている者もいれば、押し入れに寝ている者もいた。私は子供の頃いたずらをすると、祖母に真っ暗な土蔵に閉じ込められたので、『うる星やつら』の面堂終太郎と同じく暗所&閉所恐怖症である。よって押し入れに寝た事はない。 猫とか幼児は押し入れの段ボール箱に入って遊ぶのが好きだが、私にはできない。引き蘢れないのだ。子供の頃、引き蘢りたい時は、むしろ山に登って草の上に寝て北アルプスを眺めたものだ。
               ◆
 食料事情で最も現在と異なるのは、コンビニがなかったということ。チェーン店が少なく食堂全盛期。スーパーも少なくデリカがなかった。個人商店全盛期で、総菜屋もたくさんあり商店街は活気があった。街にはメガフォンタイプのスピーカーがあちこちにあって、甲高い声のお姉さんが始終宣伝をしたり、歌謡曲を流していた。宅配便がなかったので田舎から新鮮な野菜を頻繁に送ってもらうことができなかった。国鉄のチッキというのがあって利用したが、国分寺の駅まで取りに行かなければならず、結構めんどうだった。20キロの荷物をアパートまで持って帰るのは難儀だった。国分寺や国立周辺は農家も多かったが、今の様に産地直売や無人販売というのはほとんどなかった。ただ、国分寺にも国立にも個人商店の八百屋や乾物屋がたくさんあった。そこのおばちゃんと仲良くなるのが私のささやかな処世術であった。おまけをくれるのだ。
               ◆
 忘れがちだが、今の様にATMがなく簡単に仕送りを引き出すことができなかった。現金書留がまだ生きていた頃で、「金送れ」の葉書が全国を飛び交っていたはずだ。私は筆まめだったので、家にも友人にも長々と手紙を書いたが、筆無精の友人の中には、親から○を書いた葉書を何枚も渡されている者がいたそうだ (話は聞いたが見た事はない)。送金が届いて元気な時はその葉書を出す。今は時々息子達とスカイプ(テレビ電話)で話すけれど、そんなことは夢のまた夢だった。友人の女の子が仕送りが遅れて、弟と二人でキャベツひとつで一週間過ごしたと聞いたこともあった。夏休みで友人達が皆帰郷してしまい、誰にも借りることができなかったらしい。
               ◆
 野生動物ならずとも、食べるということは生きる術の基本だ。限られた仕送りとバイトの金で、どうやって食いつなぐかは、非常に重要なことであった。外食だけでは金欠になるので、誰しも自炊をしたものだ。基本は野菜炒めである。野菜と米を食べ、味噌汁を飲んでいれば生きられるという暗黙の了解事項があった。金に余裕があれば豚肉が入る。後は鯖、秋刀魚など大衆魚の焼き魚。週一で必ずカレー。これが定番だった。私は子供の頃から奇麗好きで、部屋も台所もきちんと整理整頓されていたが、友人の中には流しに鍋や皿が山積みになり異臭を放つ者も少なくはなかった。『男おいどん』は、71年から73年まで連載された松本零士の漫画だが、本当に押し入れにキノコが生えた者がいた。サルマタケかどうかは分からない。しかし、私は野菜好きだったため、主人公・大山昇太の好物「ラーメンライス」の炭水化物攻撃には馴染めなかった。ラーメン炒飯でラーチャンというのもあったが……。
               ◆
 野菜炒めと肉野菜炒め、味噌炒め(油味噌)、カレーが、上京当初の私の三大得意料理であった。後にカレーは市販のルーから、スパイスを調合したオリジナルカレーに進化する。味噌炒めは、信州の定番料理だ。夏はナスとピーマン、タマネギで炒め、金があると豚肉が入る。信州では油味噌という。冬は人参、大根、長ネギと石川県のスギヨのビタミン竹輪になる。味付けは信州麹味噌に酒、味醂、出汁粉だが、牡蠣油を入れるとさらに旨い。ビタミン竹輪は、信州人のソウルフードだ。これなくして信州の郷土料理は語れない。これに、中華食堂で外食を重ねるうちに、中華丼や炒飯が見様見真似で加わる。中華丼はあんかけで、 寒い信州の冬にはぴったり。当時の国分寺の冬は寒かったので、これもぴったり。野菜もたっぷり摂れるしボリュームもある。野菜炒めを上京して初めて食べた のは、高校の時の夏期講習で下北沢に間借りしていた時に通った中華食堂「天好」でだったと思う。街の食堂のおやじは料理の先生だった。食いしん坊の私は、 カウンターに座りながら親爺が何をどのタイミングで入れるか観察していた。化学調味料は当時から苦手だったので、大量に入れる店は敬遠した。
               ◆
 金がないので、普段は肉は小間切れ、魚はアラや青魚を専門に買った。浪人時代、共同生活をしていた友人と行きつけの魚屋へ行くと、親爺が長髪の私に「奥さん今日はなんにしますか?」と聞いた。友人が笑って「アラしか買わないって知ってるくせに!」と突っ込んだ。口の悪い親爺は、そうは言いながらもいいアラを取り置いてくれていたものだ。天然高級魚のアラで作った鍋は旨かった。個人商店のおじさんやおばさんは学生の強い見方だった。国立時代の近所の酒屋のおばさんは、ノベルティのグラスをよくくれた。試供品のビールやミニチュア瓶、おつまみもよくもらった。息子が小さい頃、国立へ買い物のついでに行ってみたら、富士山が見える坂の上のその店は既に無くなっていた。
               ◆
 味の調合というのは、絵の具の調合と似ているところがある。同様に音の調合というのも似ている。そういうわけで、美術関係や音楽関係にはグルメや料理好きが多い。絵の具も組み合わせや混ぜ合わせで輝きを増す。混色を誤るとヴァルール(色価)が狂って土留め色になる。ただし、隣に来る色との組み合わせで突然輝きだすこともある。味でいえば渋みとか苦みだろう。雑味とは違う。音でいえば不協和音がそれに当たるかもしれない。ジャズはまさにその極みだ。壮大なシンフォニーも、ばらせばひとつひとつの音でしかない。相乗効果の凄さを体験すると、完成した料理は官能の極みにある。その面白さと快感を味わうと料理が好きになる。しかし、料理の神様はいつも微笑んでいるわけではない。時には大失敗をして、鍋いっぱい丸ごと捨てたこともある。「鶏のオレンジジュース煮」 というのをクラスの女の子二人を呼んで振る舞って好評だった記憶があるのだが、どこで覚えたのだろう。春樹さんや陽子さんから教わったのだろうか。
               ◆
 以前にも書いたが、「ピーター・キャット」では、通常のメニュー以外に、陽子さんが手作りの料理を出していた。特に好きだったのは「手羽元と長ネギの煮込み」で、作り方やコツを教わって私の定番料理のひとつになった。料理は面白いが後片付けがねという人がいるが、これも「ピーター・キャット」や、後に友人とその叔父に頼まれて一時期参宮橋でやったカフェ・レストランの経験から、料理をしながら片付けるというのを身につけた。今でも料理を終えると、ほとんどが片付いている。その後、編集アートディレクターとして、料理の記事や料理の本を数多く手がけたことからレシピの研究にも手をつけた。その集大成が『MORI MORI RECIPE・男の料理』だ。所謂普通の料理があまり載っていない。「信州の新郷土料理、世界の郷土料理やアウトドア料理を、時に大胆に時に繊細に「男の料理」にアレンジ」がキャッチフレーズ。レシピ集のサイトは星の数程あるけれど、アマゾン料理の「ソッパ」と中華の「梅干菜扣肉(メイガンツァイコウロウ)」のレシピを載せているのは、私ぐらいのものだろうと思う。全てオリジナルレシピか、オリジナリティを加えてある。料理好きな人は覗いてみて欲しい。
               ◆
 当時、地方には現在の様に美術系の大学や学部はほとんどなかったので、進学しようとすると上京するしかなかった。そのため友人には全国各地からの出身者がいた。それは非常に楽しい事だった。北海道の友人は、金がないとご飯にバターをのせて醤油をたらして食べるのが定番だったし、長崎出身の友人はなんといっても明太子飯だった。関西の友人は、東京の真っ黒なうどんの汁に辟易していた。なので、村上夫妻も御用達の関西うどんが食べられる「まねき」は、彼の聖地だった。奈良の三輪素麺製造の息子が祖父が作った素麺を持って来て素麺パーティーを開いたことがあったが、これは絶品だった。ジンギスカンが、北海道 のものと信州のものが、微妙に味付けや焼き方が違うということも知った。北海道のものは野菜の上に乗せて蒸し焼きにする感じだが、信州のは信州リンゴのタレに漬込んだものを鉄板で直接焼く。信州ではBBQにジンギスカンは欠かせない。皆で誰かのアパートに集まって宴会をよくやったが、地方色が出て面白かった。信州というのは、ちょうど関東と関西の中間にあり、両方の食の文化が混在していて面白い。信州の郷土料理の「ニラのおやき」は簡単なので、お好み焼きや焼きそば同様、よく作った気がする。高級品の地蜂の子の瓶詰めをお土産に持って行ったことがあるが、誰も食べてくれなかった。
               ◆
 本物の野菜とハリボテの野菜って分かるだろうか。70年代当時の野菜は、大型スーパー全盛の現在の様にクローンの様な均一なF1種(自殺種・種が採種で きない。よって毎年買わなければならない)の野菜が奇麗に並んでいる状態ではなかった。八百屋には不揃いの野菜達が並んでいた。まだまだ伝統野菜や固定種が幅を利かせていた時代だ。F1種は、農薬と化学肥料が必須。固定種の野菜は不揃いで数もならない。味も栄養も濃いから灰汁も出る。スーパーで売られている野菜はほとんどがF1種。味も薄いが栄養も1/2か1/3。カスを食べているのと同じ。次に来るのはGMO遺伝子組み換え作物だ。F1種は揃うし収穫量も格段に多い。でも奇麗に揃った畑を見て、クローンが並んでいるみたいで気持ち悪いと思える人はどれほどいるだろうか。人間だって皆顔が同じだったら気 持ちが悪い。不揃いが当たり前。無農薬・無化学肥料にこだわっているのにF1種を育てている人が結構いる。一代交配と書いてあるものは全てF1種。F1種 といえば江戸時代に作られたソメイヨシノがその可能性が高い。生育が早く寿命が短い。同じ場所のものは一斉に咲く。ヤマザクラはバラバラに咲く。違うのは、その作り方。昔は放射線を浴びせることなどしなかった。そうやって作られたF1種の安全性は証明されていない。GMO遺伝子組み換え作物の危険性は既に証明されていて、各国で禁止されている。しかし、日本はその遺伝子組み換えのトウモロコシや大豆を最も多く輸入し食べている。
               ◆
 畑に誘因作物で、花を沢山植えている。バジルも咲いたし、豆の花も咲いたが、ミツバチ、ハナアブを見ない。二年前はもっと酷くて近隣の畑の豆類が全滅した。放射能も考えられるが、ネオニコチノイド系農薬の空中散布が最も考えられる。グリホサート系除草剤や神経毒性農薬フィプロニルも危険。沈黙の破滅現象は既に始まっている。ミツバチが全滅したら人類は4年で滅亡するとアインシュタインが言ったとか。蜂群崩壊症候群(CCD)は、世界中で問題になってい る。TPPに入ると、モンサント社ベトナム戦争で使われた枯れ葉剤とほぼ同じ除草剤ラウンドアップ遺伝子組み換え作物とセットで使用が義務づけられか ねない。自家採種が違法になり、伝統野菜、固定種が消える。それは郷土料理の消滅、日本の食文化の崩壊を意味する。そして、ミツバチ、ハナアブが死滅し、 田畑は不毛の地となり、食料危機が間違いなくやってくるだろう。
               ◆
近頃のおかしな野菜たち』: F1種については、野口種苗の野口勲氏の『タネが危ない』がおすすめ
F1種と雄性不稔』 :雄性不稔について勉強を!
ネオニコチノイド系農薬が生態系を壊す。ミツバチを殺し人間をも・・(妻女山里山通信) 』:日本の残留農薬基準は、なんと欧州の500倍! 
               ◆

f:id:moriIQ84:20160321113030j:plain

 上の写真は、大学1、2年の時に住んでいた国分寺のアパート。2階の真ん中。大家さんに内緒で猫を飼っていて、蚤大発生という失態をやらかした。優しい大家さんだったので追い出されなかったが……。詳細は、『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で。
               ◆
今日はここまで。次回は夏に似合うジャズアルバム。「ピーター・キャット」の夏。

春樹さんがいう地下室に下りてみよう。『僕たちは再び「平和と愛」の時代を迎えるべきなのかもしれません』村上春樹

f:id:moriIQ84:20160321112851j:plain


 3.11以降、実質国土の三分の一が失われたというのに、東京湾はもちろん北太平洋もほぼ死んだというのに、この国のテレビは相変わらずバラエティやグルメ番組を、まるで何事もなかったかのように垂れ流し続けている。戦後、CIAが持ち込んだ愚民化政策は脈々と続いている。日本人はすっかり洗脳されてしまった。日本人ほどマスコミを無条件に信じる国民はいない。情報弱者と安全性バイアスにかかっている人はもちろん、放射能の話をタブー視するようなダチョウ症候群にかかった人は生き残れないだろう。村上春樹さんのファンの中で、彼の「カタルーニャ賞受賞スピーチ」の全文を読んだ人はどれほどいるだろうか。彼は「効率」という上品な言葉を使ったが、「効率」=「カネ」だろう。「カネ」の力しか信じない守銭奴がこの世界を牛耳っているということだ。そこには「愛」の欠片もない。
               ◆
 創元社から出てベストセラーになっている孫崎享氏の『戦後史の正体』 (100pまで無料で読める。以下は購買を)は、衝撃の本だった。ひと言で言えば「みんな嘘だった」ということだ。どおりで戦後史を学校で教えないわけだ。それどころか明治維新後の歴史も捏造だらけ。嘘だと思うなら「田布施システム」で検索してみるといい。現代史ばかりではない。古代史も『記紀古事記日本書紀)』を初めとして捏造の塊である。歴史は常に時の権力者によって都合のいい様に捏造されるものだ。世界史も同じ。
               ◆
 春樹さんの小説は、主に20代から30代前半と団塊の世代に読まれている様だ。春樹さんも言う様に、30代後半から40代になり仕事に追われるとフィクションの世界に遊ぶ余裕はなくなる。私自身が春樹さんの作品を読んだのは初期の頃だけで、南米から帰国後はG・ガルシア・マルケスなど南米文学ばかり読む様になったが、それは南米放浪のせいばかりではなく、彼の小説に出て来る主人公の年齢より上になり、現実世界に追われ感情移入ができなくなったというのもあるかもしれない。作家は、その年齢までタイムマシーンで遡って書くのだろうけれど、読者が遡ってまで読む事はノスタルジーに浸るためだろうから。そうしたい年齢や状況にならないと、なかなか手には取れないだろう。特に3.11福島第一原発の未曾有の大事故の後では、フィクションの存在理由そのものが問われる事態になってしまった。パラダイムの組み替えでは済まない事態だ。なにせ、貞観-仁和地震の再来である。そう遠くない将来に大地震は必ず来る。もうひとつ原発が爆発したら、それは日本の終わりを意味する。その上、六ヶ所村セラフィールドが崩壊したら、地球上の生命のほとんどが滅亡するということが分かった。なにもしないで馬鹿なテレビ番組を観ている時間は我々にはないはずだ。現実がフィクションを越えてしまった。
               ◆
 1979年に群像で発表された『風の歌を聞け』の初版本を買った当時、私は社会人になったばかりだった。南麻布のフランス大使館近くの古いマンションに友人と住んでいて、南青山の小さなデザイン事務所に白いアロー号で通っていた。近所に田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』に出て来る超高級マンションとケーキショップがあって、彼の本を抱えた女子大生がうろちょろしていた。そんな時代だ。『風の歌を聞け』を読んで、友人達と話したのは、「これって内容はともかく、構成は『スラップ・スティック』だよね。」ということだった。店をやりながら書いたのでああいう書き方になったと書いていたが、ぶつ切りの構成といい、手描きイラストの挿入といい、それは正にカート・ヴォネガットの『スラップ・スティック』だった。当時、そのことを指摘した文芸評論家は一人もいなかった。そんなもんだ。この本は76年刊なので、もちろん国分寺のアルバイト時代には読んでいないが、彼の本が面白いよと教えてくれたのは春樹さんだった。ここで気づいた方もいるだろうが、このブログの書き方が正にそれである。◆型のマークまで一緒。いつでも中断していつでも加筆できる。終わりが見えない細切れのフリージャズだ。
               ◆
『スラップ・スティック』は、当時の友人達の間で流行って、小説に頻繁に出て来る「ハイホー」というかけ声も流行った。また『猫のゆりかご』に出て来る架空の宗教「ボコノン教」の、相手と両足の裏側を合わせてチャネリングする妙な行為、ボコマルも酔っぱらうとふざけてやったりしたものだ。試しにやってみるといい。手をつなぐよりいいかも知れない。「人工的核大家族」という概念も私をゆさぶった。当時私はSF小説に凝っていて、カート・ヴォネガット・ジュニ アの『タイタンの妖女』や『プレイヤー・ピアノ』、J.G.バラードの『沈んだ世界』や『結晶世界』に『ハイ-ライズ』。レイ・ブラッドベリの『万華鏡』や『何かが道をやってくる』。A&B・ストルガツキーの『ストーカー』。アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』。ジョージ・オーウェル の『1984年』や『動物農場』。スタニスワフ・レムの『ソラリス』などをむさぼり読んでいた。
               ◆
 そんな訳で、春樹さんの小説に関しては特に語れることもないのだが、逆に昔の人となりを知っているだけに対談やインタビューは興味があり買っていた。村上龍氏との対談の『ウォーク・ドント・ラン』や『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』など。それらを読むと、店が終了後に私等アルバイトの悩みや生意気な話ににつき合ってくれた春樹さんの誠実な人柄を思い出すのです。時にはからかわれたり、厚い下唇を突き出して怒られもしたけれど。そういえば、ジャ ズ・フルートをやっていたが、厚い下唇が邪魔で向いてないので止めたという話を聞いた記憶があるのだけれど本当だったのだろうか。春樹さん一流のジョークだったのか。ちなみに私にはピアニストの彼女がいたのだが、ピアノを弾ける様になりたいなと言ったら、あなたのその短い指はピアニスト向きじゃないと言わ れた。手の平は大きいのだが・・。でも「英雄」のサビの部分だけでも弾ける様にならないかなと言ったら、サビが弾ければ全部弾けるよと笑われた。それはそうだ。
               ◆
 前置きが長くなってしまったが、そろそろ地下室に下りてみようと思う。『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』の中で、春樹さんが話している言葉を引用する。
              ◆◆◆
 「イメージをつかって、お答えしましょうか。仮に、人間が家だとします。一階はあなたが生活し、料理し、食事をし、家族といっしょにテレビを見る場所です。二階はあなたの寝室がある。そこで読書をしたり、眠ったりします。そして地下階があります。それはもっと奥まった空間で、ものをストックしたり、遊具 を置いたりしてある場所です。ところがこの地下階のなかに隠れた別の空間もある。それは入るのが難しい場所です。というのも、簡単には見つからない秘密の扉から入っていくことになるからです。しかし運がよければあなたは扉を見つけて、この暗い空間に入っていくことができるでしょう。その内側に何があるかは わからず、部屋のかたちも大きさも分かりません。暗闇に侵入したあなたはときに恐ろしくなるでしょうが、また別のときはとても心地よく感じるでしょう。そ こでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に、形而上学的な記号やイメージや象徴がつぎつぎに現れるんですから。それはちょうど、夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。 本を書くとき僕は、こんな感じの暗くて不思議な空間の中にいて、奇妙な無数の要素を眼にするんです。それは象徴的だとか、形而上学的だとか、メタファーだとか、シュールレアスティックだとか、言われるでしょうね。でも僕にとって、この空間の中にいるのはとても自然なことで、それらのものごとはむしろ自然な ものとして目に映ります。こうした要素が物語を書くのを助けてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。それは、 論理をいつも介入させられるとはかぎらない。法外な経験なのです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。」
              ◆◆◆
 これを読んだ時にそうだよねと思った。小説家というのは「覚醒しながら夢を見られる人」なのだと。そして、「過去や深層心理の世界に自由に行き来できる人」なのだと。私なんぞは、適度にアルコールが入らないと下りていけない。それではいけないと始めたのがこのブログだったりする。書くということは、時と共に雲消霧散していく思考を二次元に化石化する作業だ。そのきっかけになったのは、3.11に他ならない。
               ◆
 さらに私なりの解釈をすると、地下一階は過去の部屋。地下二階、三階は深層心理の部屋ともいえる。人によっては地下二階に行く扉があることを知らない人もいるし、見て見ぬ振りをする人もいる。地下二階にはPTSDが、地下三階にはトラウマが転がっていたりもする。下りたら戻れないかもしれない。トラウマ は人を強くするという心理療法士もいるが、ほぼ誰にも原因が明確なPTSDと違い、トラウマはなかなかその原因が分からなかったりするし、そうだと分かっても本人が認めない場合も多い。多くの場合その原因が親だからだ。親に傷つけられたということは認めにくいものだ。親に起因するトラウマは親が死んでも続く厄介なものだ。むしろ分からないからトラウマなのだとさえ言える。そして、歴史的に見れば、戦争が最も多くのトラウマを生じさせる原因となっているようだ。
               ◆
 信州の川中島は、越後の上杉謙信甲州武田信玄に、その肥沃な土地を狙われベトナムアフガニスタンのような戦場となった。戦国当時の川中島の民が記した記録に「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉がある。それほど戦は地獄そのままだったということだ。当時は「乱取り」というものがあり、掠奪と狼藉の限りを尽くした。被害者は主に女性と子供である。戦が終わるとすぐに奴隷市がたった。女子供は勝った国や、海外にまで売られたのだ。土豪の武士も小説や大河ドラマにあるような奇麗ごとではなく。骨肉の争いが繰り広げられた。機能不全家族の典型だともいえる。藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』などを読むといい。大河ドラマ歴史小説にありがちな英雄史観では、歴史の真実は決して見えて来ない。二つ前の文章で書いたが、古代より日本人が持つトラウマは、敗残兵のものではないだろうか。世界歴史的には敗残兵が国家を作ることは希有だ。たいてい滅亡するし滅亡している。この事に焦点を当てた論文を私は知らない。日本人の民族的な特殊性を説明する糸口にならないだろうか。
               ◆
 ベトナム戦争により、アメリカでアダルト・チルドレンが大量に生み出されたことは、よく知られている。-アダルトチルドレンとは、機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的な トラウマを持つ、という考え方、現象、または人のことを指す-(wkipedia)。当然日本では、第二次世界大戦(太平洋戦争)で、大量の機能不全家族が生まれ、アダルト・チルドレンが大量に生み出されたことは想像に難くない。特に都市部や軍関係の家庭、一般庶民よりむしろエスタブリッシュメントの家庭に多かったはずだ。なぜなら、敗戦のショックがより大きかったはずだから。都会の子供は疎開により親から引き離されたりもした。東京大空襲で、目の前で親兄弟が無惨に亡くなったり、戦争孤児になった人もいる。それは生き地獄だ。もちろん広島、長崎を忘れるわけにはいかない。
               ◆
 専門家ではないので、経験と独学と直感が元になるのを承知で記する。敗戦直後、日本はアメリカの収奪により昭和初期の経済力まで堕ちた。朝鮮戦争を機に アメリカの政策が反転し、日本は高度経済成長へと向かう。その中で生まれたのが家庭を顧みない働き蜂の父親と、教育ママだった。失われた子供時代や青春時代の夢を子供に託すようになったのも、必然と言えば必然だった。そこで、求められる愛と与える愛の間に乖離が生まれた。反抗できない子供は親の前でいい子を演じる様になる。本来なら素直に放出されるべき第二次反抗期も押さえ込まれる。そして、ついに爆発する。家庭内暴力に走る場合もあれば、自傷行為に走る場合もある。女子の場合、拒食症になることもある。女子の拒食症は、ほぼ100パーセント母親の過干渉に因るという。望む愛情を与えられず、愛され方を知らないで育った人は、愛し方も知らない。カート・ヴォネガットは言う。「愛もまた学ばれるものだ」と。
               ◆
 戦後、アメリカから形ばかりの個人主義核家族、子供部屋なるものが入り、スキンシップが減った。昔、私はブラジルを放浪し、金持ちから中流家庭、貧民街まで滞在したが、そこで見たのは豊富なスキンシップと、子供を叩かないという育て方だった。犯罪の多いブラジルだが、一般庶民は日本人以上に暴力を嫌う。どつき漫才はブラジルではあり得ない。下層階級ほど子供は共同保育の様な形で育てられる。赤ん坊の頃から多くの赤ん坊や子供、大人と接していると、人見知りや夜泣きをしない子供になる。コミュニケーション障害にもならない。そして、ブラジルで感じたのは、子供の意見や話を大人がよく聞くということだ。 日本の様に、子供は黙ってろとか、大人の話に口を挟むなという場面は見た事がなかった。それは貧民街でもそうだった。個人が尊重される。ブラジル国旗に は、Ordem e Progresso(秩序 と進歩)という言葉が書かれている。哲学者オーギュスト・コントの言葉だ。口の悪いブラジル人に言わせると、ブラジル最大のジョークだなどと言うが、なかなかどうして。サンバとサッカーだけの国ではない。
               ◆
 1877(明治10)年に来日して、大森貝塚を発見したアメリカの動物学者エドワード・モースは、「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」と記している。「七歳までは神のうち」とか「子は国の宝」などという言葉が、まだお題目ではなく生きていた頃 だ。十五歳で元服し大人扱いをされたことも忘れてはならない。江戸の子育て全てがいいわけではないが、ルソーやマルクスエンゲルスの影響を受けた官僚が作った薄っぺらな「ゆとり教育」「子供の権利」「個性尊重」などという借り物の空論ではなく、そこには培われた知恵と愛情があった。明治維新によりかなり廃れたが、それでもまだ地方では息づいていた。それが、戦後完全に崩壊した。悪書『スポック博士の育児書』とともに。
               ◆
 形而下学的に収斂(しゅうれん)していった時に、自然の複雑な形態が人の思考と手によりどういう理論で帰結していくのか、私にはその法則は分からないが、一般の人が模倣した時には、顔が単なる丸になったり便化(べんか)の形態をとるということは分かる。子供の絵もそうだ。人は複雑な物事や手に負えない事を、簡単にしたがるものだ。思考もその道を辿る。人は何かに縋(すが)り信じる事を選びたがるものだ。そして、権力者は、人間のその特性を利用する。疑う事は道徳的な悪だ、私を信じよと。しかし、信じるということは思考を止めるということである。それこそエスタブリッシュメント(支配者)の思う壷だ。科学は万能ではないし、常に客観性を求められるものだが、信じる対象ではない。常に疑われるべきものだ。しかし、その罠に自ら嵌(はま)ってしまう科学者や技術者が多いのも事実だ。安全性バイアスは、誰もがかかる可能性がある。疑問を持つことは、決して道徳的な悪ではない。思考を止めてはいけない。
               ◆
 3.11以降のバルセロナにおけるインタビューで春樹さんは、「平和と愛」の時代の復権を唱えている。
              ◆◆◆
「僕は1968年に東京にある大学に入りました。当時は革命の時代でした。若い人たちはたいへん理想主義的で政治的でしたでもそうした時代は過ぎ去りました。もはや人々は理想主義に対する興味を失い、利益を得ることに熱心です。日本の原子力発電所の問題は、理想主義の欠如の問題です。これからの10年は、 再び理想主義の10年となるべきだと僕は思います。僕たちは新しい価値体系を築きあげる必要があります。1968年や1969年には、人々は「平和と愛」 を謳っていました。僕たちは再び「平和と愛」の時代を迎えるべきなのかもしれません。そうすれば楽観的で あることも少し容易になるでしょう。今現在の状況では簡単なことではないでしょうが、乗り切るためには必要なことです。資本主義は今ターニング・ポイントにさしかかっています。僕たちはヒューマニズムの復興を模索しなければなりません。効率や利便性を追求することは容易ですが、ときに僕たちは険しい道を進ま なければなりません。僕が今感じているのはそんなことで、僕たちはもう一度このことを考えるべきだと思います。こんなこと言うと照れますね!(笑)でも僕はこれからも、とても暗く、奇妙で、残酷で、ある時には血なまぐさい物語を書いていくと思います。僕は理想主義的で楽観的で、愛を信じてはいますが。」
              ◆◆◆
 私もそうだと思う、そうでなければならないとも思う。しかし、日本人に、いや人類に残された時間は余りにも短い。今は1000年に一度の地震多発期。 『日本三代実録』の貞観地震から仁和地震に至る記述を見て危機感を持たない人はいないだろう。当時と異なるのは、我々は大量の原発と核廃棄物を抱えているということだ。アウターライズ地震六ヶ所村が崩壊すれば、その時は人類の終わる時だ。それだけの量の核廃棄物がある。愛で放射能を消す事はできない。
               ◆
貞観地震-仁和地震
864年:富士山噴火/868年:播磨国地震/869年:貞観地震(東北沖地震:M 8.3以上)・貞観津波/871年:鳥海山噴火/874年:開聞岳噴火/878年:相模・武蔵地震(関東地震:M 7.4)/887年:仁和地震(南海地震:M 8.0~8.5・東海東南海連動説も)八ヶ岳が水蒸気爆発で崩壊。千曲川・相木川を堰き止め大海・小海湖を造る。翌年決壊。遠く善光寺平まで甚大な被害を もたらす。
 富士山噴火から23年間に、大地震が4回、大噴火が4回起きている。現在は、その時代に酷似している。なにせM9の未曾有宇の大地震が起きたのだ。このままで済むはずがない。
*ところが京大の川辺秀憲序助教が分析した結果、M9の大地震ではなく、わずか2分ちょっとの間に連続してM7.2からM8.0の地震が5つ連続して起きていたことが分かった そうだ。確かに津波に襲われる前の沿岸部の家が、M9の大地震にしてはほとんど倒壊していないのが謎だった。更に東京ドーム40万個分の土砂崩れが海底で あったことも分かったという。非常にきな臭い。実はマグニチュードをほとんどの人が理解していない。M7を1とすると、M8は30倍、M9はなんと1000倍になる。東北沖大地震がM9というのは、アリが象の大きさだというぐらいの虚言である。いったい何が起きたのか、真剣に考えるべきである。我々は想像を絶する悪意の世界に生きているのかもしれない。
               ◆
 地球の年齢は約46億年。約39億年前に海ができて原始生物が誕生しても、地球は太陽や雨中からの放射線宇宙線が降り注ぎ、陸上で生物が棲める環境ではなかった。誤解を恐れずに言えば、太陽は最も巨大な原発であり原爆なのだ。5.5億年前に海藻が酸素を大量に作り始め、オゾン層ができて、やっと陸上で生物が生きられる環境が整った。
 そして、人類が誕生したのがわずか450万年前。地球の歴史を1年とすると、人類の歴史はたった8時間余り。その人類が、膨大な時間をかけてやっと生物が棲める様になった地球を、自ら放射能で汚している。原発=原爆=核は、生物学的には、最も反動的なものなのだ。覚醒か滅亡か。目覚めよ、さらば救われん。目覚めなければ滅亡あるのみ。
               ◆
【必読】日本人が知らない村上春樹の熱き思い--「まじめで強い日本人には、原発をなくすことが出来る」arterna
               ◆
 一番上の図。3.11の福一の事故によって北半球はほとんど満遍なく汚染されたことが分かる。キセノン133は、放射線を出さない安定元素だが強塩基で危険性は強い。史上最強の猛毒、たった一粒吸引で肺癌になるというプルトニウムなどのホット・パーティクルさえ北米にまで届いている。2011年3月15日や21日に関東等で目や喉の痛みを感じた人は、 これを吸い込んだ可能性がある。プルトニウムに関しては、都民一人平均10粒吸引しているというデータもある。都民一人あたり3600ベクレル内部被曝しているとは、都の正式発表。これには希ガスが含まれていない。福島からはフレッシュな放射能が毎日放出し、海へはそれ以上が駄々漏れの状態。専門家によると再臨界も起きているようだ。むしろ本当の地獄はこれからやって来る。海外のニュースを選んで読まなければ、決して真実は見えてこない。
               ◆
『風の歌を聞け』村上春樹/『スラップ・スティック』カート・ヴォネガット/『ウォーク・ドント・ラン』村上龍vs村上春樹/『夢を見るために毎朝僕は目 覚めるのです』村上春樹/『悲しき熱帯』レヴィ・ストロース構造主義の原典/『百年の孤独G・ガルシア・マルケス:この小説を読み終えた後は、もう フィクションは読まなくていいなと思ったほど。登場するブエンディーア家は典型的な機能不全家族かもしれない。
               ◆
 今日はここまで。次回は当時の学生の自炊・外食、つまり食料事情について。抱腹絶倒の物語。お金で食料が、しかも安全な食料が手に入るのが幻想となる日はすぐそこまで来ているかもしれない。いや、既に来ている。

国立ロンド(輪舞曲)。亡き王女のためのパヴァーヌ

f:id:moriIQ84:20160321112413j:plain

f:id:moriIQ84:20160321112446j:plain

亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴くと、なぜか晩秋の大学通りを思い出す。桜の葉が色付き風に舞う。枯葉の間から木漏れ日が挿す。散歩中の少女が子犬と戯れる。ラヴェルルーブル美術館でベラスケスの「マルガリータ王女」の肖像画を観てインスピレーションを得たとされる名曲。大学通りから一橋大学のキャンパスに入り兼松講堂へ、サド・ジョーンズ&メル・ルイスのビッグバンドの演奏を聴きに行ったのが、つい昨日の事の様に思い出される。

枯葉」というとマイルス・デイビスの「Somethin' Else」に収録の「枯葉」がまず思い出される。リクエストも多かったが、私は、チェット・ベーカーの「枯葉」を一押ししたい。女性とのデュエットは珍しい。甘い調べが切ない。「ピーター・キャット」でも彼のアルバムは人気で、特に雨の日や深夜にリクエストが多かった様な気がする。

www.youtube.com


               ◆
 国立も国分寺に負けないぐらい面白い店や美味しいものが食べられる店がたくさんあった。まだ、チェーン店が普及する前だから個性的な店も多かった。大学通り、旭通り、富士見通りとあるけれど、まず富士見通り入り口近くのブランコ通りから思い出してみよう。当時の地図を見ても明らかだが、現在は南北に通り抜けが出来るが、76年当時はL字型の通りで南は行き止まりだったということ。(添付の地図では、「マクドナルド」と「りず」の間を南に入って東へ折れ曲がっている小路)2012年に35周年記念のイベントをやったので、ブランコ通りの成立は1977年ということか。そうだったのか。
               ◆
 駅前から入ると、右角にマクドナルドがあり、まだまともなフィレオフィッシュ・バーガーを売っていた。もっともここ十数年以上ファストフードは食べた事がないので、今の味は知らないが。小路を入って右手にはクーラーもない焼き肉屋があり、真夏に二階の座敷に上がり、開け放たれた窓と座敷に置かれた粗末な折りたたみテーブルで扇風機に吹かれながら汗ダラダラで食べた焼き肉と生ビールは旨かった。まだ安価な輸入牛肉なんてない頃だから、学生にとっては焼き肉は最高の贅沢だった。左手には本格的に野菜の油通しをする中華食堂があり(名前は失念)、そこのピーマン肉炒めは旨くてよく食べた。
               ◆
 その先にジャズスナックの「韻」ができて友人と度々行った。10人も入ればいっぱいの小さな店で、彼女を連れて行く様な店ではなかったが、男友達としみじみ飲むにはいい店だった。その右手にレトロなインテリアが落ち着く「ナジャ」。水出しアイスコーヒーを初めて飲んだのはここじゃなかったかな。ジャズ喫茶のコーヒーは作り置きでそれなりの味なので、旨いコーヒーを飲みたい時に行った。角を曲がってすぐ右が「邪宗門」。 ここもよく行った。門主は外国航路に乗っていたそうで、アンティークの溢れるゴチャゴチャしたインテリアが妙に落ち着く喫茶店だったが、2008年門主の 他界により閉店したそうだ。地味だけれど国立の一時代を作った店のひとつだったと思う。その先の右手に昭和28年オープンの故忌野清志郎も贔屓だったという「ロジーナ茶房」。 インテリアやオーナメントが凝っている。ビーフ・ストロガノフなる料理を初めて食べたのはここだったかもしれない。所謂業界関係者がよく来る店だった。たぶん今もそうなのだろう。ここのザイカレーだけは、迂闊に頼んではいけない。茶房からそのまま進むと大学通りに出るが、左角に「金文堂」。文房具や、 ちょっとした画材はここで買った。
               ◆
 その大学通りは、43.64m(24間)だから相当広い。戦前か戦中かは知らないが、滑走路に使用という案もあったそうだ。多摩には住んでいても知らない人が多いが、軍事施設の跡がたくさんある。大学通りは両側に広い歩道と並木があり、美しい緑のアーケードを作っている。その西側。順番はちょっと怪しいが、ジャズ喫茶「プレンティしもん」、「銀杏書房」、高級スーパーの「紀ノ国屋」、陶器の「やま芳」、パンの「サンジェルマン」等がよく通った店なので覚えている。
「プレンティしもん」は、ジャズ喫茶「しもん」の姉妹店で、大学通りの並木が見える二階にあり、ガラス張りで明るい店だった。デートによく使った記憶がある。「銀杏書房」 は、1947年(昭和22年)創業の洋書古書店で、文教都市国立らしくいい洋書が置いてあったし、今もそうだろう。通りかかると必ず覗いた店だ。スーパー の「紀ノ国屋」は、村上春樹夫妻もよく通っていて、何が美味しいとかおすすめとか情報をくれた。なにせ高いのでたまに行くだけだったが、私のお気に入りは 甘鯛のテリーヌだった。陶器の「やま芳」では、バーゲンの時にNORITAKEの白地に紺の唐草模様の大皿を二枚買った。なんと今でも現役で使っている。「サンジェルマン」の食パンは「ピーター・キャット」でも使っていた。私はシナモン風味のパンプキンパイが好きでよく買った。
               ◆
 大学通りの東側は、当時はそんなに店がなかったような気がする。散歩するにはこちらが良かった。いつだったか「ミルキーウェイ」というライブもやるカフェバーができた。そのオープニングに友人と行った。黒い内装でステップのある店内。ビールはハイネッケンが日本で発売された頃だったのか、わざわざ日本支社長が店に来て、客の周りを回って感想を聞いていたのが印象的だった。店には何度か行ったが、アリスが好きなロン毛の可愛いウェイトレスがいたのを思い 出した。既にない様だが検索したら、久保田早紀さんと経営者の鈴木昭一さんの81年の対談を 見つけた。彼女は店でライブをやったらしい。店名は失念したが、「ミルキーウェイ」のずっと先にフレンチレストラン、もっと先にドイツ料理の店があったと 思う。デートでフレンチレストランへ行って、いざ支払いの時に金が足りなくて、彼女を人質にしてアパートへ金を走って取りに行った間抜けなことがあったのも、今となっては懐かしい想い出だ。
               ◆
 次に旭通り。通りを少し入って左手にあった「越前屋」のタンメンは人気でいつも混んでいた。麺は多少柔らかめだったと記憶するが、野菜好きの私には嬉しいラーメンだった。その斜め向かい辺りだったか、大学通りと結ぶ通りにある「ステーキ・テキサス」。とにかくガッツリ肉を食べたい!という時には、ここのハンバーグを食べに行った。さすがに当時は、ステーキは高くてなかなか手が出なかった。
 旭通りのシンボルといえば「国立スカラ座」だった。ここはよく行った。当時は二本立てで500円ぐらいだったと思う。色々観たが、一番記憶に残っているのは『ドクトル・ジバゴ』かな。「ラーラのテーマ」 を聴くと今でも鳥肌が立つ。ラーラ役のジュリー・クリスティが、どうしようもなく哀しく美しかった。調べて分かったが、『ドクトル・ジバゴ』は、『ローマ の休日』との二本立てだったようだ。前者が197分、後者が118分、両方観ると5時間余りと、とんでもない長さになる。体力があったんだね。


 スタン リー・キューブリックの今後の日本と世界を暗示する様な『時計じかけのオレンジ』と『博士の異常な愛情(または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようにな­ったか)』の二本立てもここで観た様な気がするのだが……。
               ◆

 今は無きテアトル東京で3回観た、代表作『2001年宇宙の旅』 はもちろん、スタンリー・キューブリックは私が最も敬愛する監督の一人だが、実にクレイジーな組み合わせだ。『博士の異常な愛情』は、核による世界破滅を 描いたブラック・コメディだが、福島第一原発の事故は、このフィクションを遥かに超えてしまった。東京の空には、今も見えないセシウムやクリプトンが舞っている。

www.youtube.com「国立スカラ座」は作品の選択と組み合わせが絶妙だったと思う。残念ながら1987年(昭和62年)に閉館したそうだ。旭通りの終わり頃に、家族でやっている「レモンの木」というレストランがあった。ここのレアチーズ・ケーキは美味しかった。


               ◆
 富士見通りにも行きつけの店があった。まずロータリー近くにあった老夫婦が営んでいた「蛇の目寿司」。まだ回転寿司などなかった頃で、寿司は学生にとって焼き肉と双璧をなす贅沢なものだったが、この店はそんな学生にも比較的優しい値段だったと思う。そして、音大の近くにあった「叉焼ライスの店」。正確な店名は失念。富士見通りは大学通りに対して60度の角度で延びているので、東西の道路と交差する地点は30度になる。その店は30度の形をしていた。7、 8人しか座れないカウンターだけの店だった。メニューは、楕円形のステンレスの皿に茹でたもやしが山となり、その上に薄い叉焼が一列に並んでタレがかかっている。それにご飯と味噌汁。友人が異常に好きで、訪ねていくと必ずその店に誘われた。彼によると290円だったそうだ。しかし、今のチェーン店の激安メ ニューとは違う手作りの味だった。その向かい辺りにあったのが、今や全国展開している名物スタ丼の元祖、「サッポロラーメン国立本店」。スタ丼は、もちろんスタミナ丼の略で、ニンニクが強烈に効いた豚丼のこと。学生だったから食べられた量と味。今食べたら胸焼けするだろう。いずれにせよデートの前には食べられないメニューだった。
               ◆
 その先に「みみずく茶房」という喫茶店があって、遊び人風の男性二人が共同経営していた。二人はよく「ピーター・キャット」にも来た。「ピーター・ キャット」でドラキュラさんと呼んでいた背の高い人と、メガネの背の低い人。彼は通称ヨタハチと呼ばれた赤いトヨタスポーツ800に乗っていて、「ピー ター・キャット」に行く時に何度か乗せてもらった。名車だが、歩道を歩く女の子のミニスカートを下から見上げるほど乗車位置が極端に低く、座椅子に座ったまま道路を引きずられる様な車だった。店には国立音大の美人の女子学生がバイトしていて、そういえば少しつきあったことがある。富士見通りには、その他に ワッパ飯を食べさせる新潟郷土料理の店や大皿料理の食堂があって通った。若い夫婦がやっていたと思うが、ナスに摺り下ろしニンニクを塗って小麦粉をはたいて油で焼く料理があった。これはうちの定番料理のひとつになったのだが、店名が思い出せない。
               ◆
 その他の店。食料の買い出しは、普段は国立デパートが多かったと思う。スーパーより対面販売の店の方が好きだった。親しくなるとおまけしてくれるしね。 酒は、アパートの近くの酒屋を一番利用したかな。引越し先はたいてい酒屋と銭湯が近くにある所を選んだ気がする。酒好き風呂好きなものでね。そして最初に仲良くなるのはたいてい酒屋のおばちゃんだった。よくおまけをもらった。よく物をもらうというのは息子も引き継いでいて、彼が小さな頃「この子を見ると、つい何かあげたくなっちゃうのよね」と、よく言われた。仙川のまだモルタルの倉庫の様な店だった輸入食材の「カルディ」から、1キロのマヨネーズをもらって帰って来たことがあった。親子してそんなに物欲しげな顔をしているのだろうか、いや人徳ということにしておこう。
               ◆
 番外編。北口は、打ちっぱなしの国立ゴルフと立ち食い蕎麦屋ぐらいしか思いつかないな。ほぼ国分寺市だしねって、私も崖線の上の国分寺市民だったのだが・・。国立ゴルフは友人達がよく行っていたようだが、私は一度行っただけかな、どうもあんな広い場所で小さな穴に小さな玉を入れるせせこまさが苦手だ。 玉は大きな方がいい。ならば大玉送り。いや、そんなに大きくなくていい。サッカーボール位でいい。サッカー小僧だったものでね。忌野清志郎の歌にある「多摩蘭坂」 坂下の一橋大学の寮の向かい辺りに、これも老夫婦がやっていたおでん屋があった。木枯らしが吹く冬の夜に行った覚えがある。国立から国分寺まで自転車で行こうとすると、多摩蘭坂を初めとして結構きつい坂が多く、いい運動になった。国分寺崖線(がいせん)は侮れない。国分寺、国立、仙川と国分寺崖線沿いに暮 らしたが、結局私は坂好きなのだと思う。


               ◆
 ある雨上がりの早朝に白いアロー号に乗って崖線の坂を下り、旭通りから大学通りを抜けて多摩川までサイクリングしたことがある。イメージする曲は、ラヴェルの「ボレロ」だな。ほとんど車も人もいない大学通りから谷保天神に寄ってママ(ハケ)の坂道を下ると突然風景が開け、土手まで一面の水田が広がっていたあの夏の日。もう戻らない。

f:id:moriIQ84:20160321111635j:plain

1976年の大学通り。友人の中古のブルーバードで駅に向かう途中

  タイトルの国立ロンドだが、これは松浦亜弥の『横浜ロンド』からインスピレーションを受けてつけた。国立同様に横浜も私には思い出深い街だ。


               ◆
 今日はここまで。次回は村上春樹さんの言う地下室に下りてみようと思うのだが……。『風の歌を聞け』にも触れるつもり。深層心理とか機能不全家族とかしんどいテーマだ。