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『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

村上夫妻の三角地帯からの引越し、友人の引越し。獣の臭いのする布団

「今度引越しするから手伝ってくれない?」と春樹さんに言われたのが、75年の春だったと思う。まず当時の地図を見て欲しい。国分寺駅からの西武国分寺線と中央線が分岐する通称三角地帯(村上夫妻命名)に、その家はあった。正確にいうと2013年現在も、Googleマップで見るとある。 Googleストリートビューで見ると三角地帯の手前のY字路でストリートビュー・カーが反転しているので、その先のカーブの向こうにある三角地帯の家は見る事ができない。しかし、中央線を挟んで南側にある75年の地図では都営第八住宅、現在は都営泉町一丁目アパート10号連の東側の通りからは、その家が見えるのだ。濃いグレーのスレート瓦に色あせたブルーのペンキで塗られた小さな家。驚いたことに当時のままだ。現在住人がいるのかは分からないが、無闇に 行って迷惑だけはかけないで欲しい。

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1974年当時の国分寺と引越し先や店など

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 この小さな家に初めて行ったのは引越しの日だった。確か私とバイトのKと、後でバイトをすることになったHの三人で、レンタカーの2トン車のトラックで行った様に記憶している。Y字路のところで方向転換してバックで路地の手前につけた。初めて見たその家は、驚くべき場所にあった。なにせ二つの線路に挟ま れた岬の先端のような所だったから。皆で笑ったというか驚いたものだ。その住み心地については、「カンガルー日和」の「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」に春樹さんが書いている。Googleマップの航空写真を最大限に拡大すると分かるが、家の北側の屋根が北へカーブして行く西武国分寺線に沿って ギザギザになっている。つまり、その屋根の下の部屋の形がギザギザなのである。狭い敷地の中で、精一杯広い部屋を確保しようとした涙ぐましい工夫の結果な のだろう。実物を見たら、「チーズ・ケーキのような形をした」というのは、かなり無理な表現だと思うだろう。ギザギザな青いチーズ・ケーキなど見た事はないからだ。もし、この家が空き家になったなら村上春樹記念館にしてくれないかなと冗談半分に思う。
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 引越し荷物の大半は春樹さんの本だった気がする。本の詰まった重い段ボール箱を何度も運びながら、古本屋が開けるねと笑いあったものだ。荷物を積み込んで向かった先は、中央線を渡って南東方向の野川沿いにあるメゾン・ケヤキである。三角地帯からメゾン・ケヤキ天と地との差がある響きだが、実際の家もそうだった。距離にすれば、わずか600m余りなのだが、これがそう簡単にはいかなかった。近くに南に渡る陸橋がなく、駅に抜ける中央公園南の道は車は通れない。そこで日立中央研究所の広い敷地をグルーッと回って花沢通りに入り、花沢橋(陸橋)を南下して多喜窪通りに出る。左折して急坂を下ると、やっとメゾ ン・ケヤキである。だいたい国分寺は、中央線によって南北に分断されていた。昭和31年にできるまでは、南口さえなかったのだから。もっとも南口といっても、平屋の簡素な駅舎と売店と臭いトイレがあるだけだった。当時は、今の様に自由通路もなく、北口に行くには入場券を買うか、東のガードをくぐるか、西の花沢橋を渡るしかなかったのである。もの凄く不便な街だった。
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 新居のメゾン・ケヤキは、野川の脇にあり、前の多喜窪通りは盛り土がしてあるため、通路を入って行くと、そこが二階だった。部屋は確か二階だったと思う。記憶では三階建ての白いお洒落なマンションで、名前の通りケヤキの木があった。間取りはよく覚えていないが、結構広いリビングがあり、他に寝室とダイニングキッチンと風呂があったのではないかと思う。リビングに入ると、すでに春樹さんが発注してあった分厚いラワン材で作られたチョコレート色の箱が沢山積み上げられていた。春樹さんの膨大な書籍を入れる本棚だった。これはいいねと皆思ったが、今考えると地震には相当弱かったと思われる。当時、大地震がなくて良かった。
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 引越しは順調に進み、夕方前につつがなく終わった。私たちは引越し蕎麦だったかは忘れたが、食事と風呂を頂いた。たぶんビールもごちそうになっただろ う。実は頂いた風呂に関して面白いエピソードがあるのだが、それは忘れたことにしておく。とにかく、わずか一年で、あの魔の三角地帯から抜け出せたのだから「ピーター・キャット」は、なんとか軌道に乗ったということだったのだろう。春樹さんも、やれやれと思ったはずだ。
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 当時の学生の引越しというのは、たいていレンタカーを借りて友人が集まってやった。田舎から出てくる時以外は引越し業者は使わなかったと思う。使っても 赤帽ぐらいか。私なんぞは、最初は従兄のギャランGTに布団と最小限の家財道具だけ積んで上京したものだ。どうでもいい事だが、私は最初のレオーネ.ツー リング・ワゴンから今のフォレスターまで、全部スバルである。車は道具だという考えの元に、最も質実剛健で実用的な車と選んだ結果に過ぎないのだが。特にそれ以上の思い入れはない。ただ、息子達は私以上にスバリストで、ペーパークラフトも作っていてテレビや新聞、スバルの『カ−トピア』の取材を受けた事がある。「T & T STUDIO」が彼らのサイトだ。最近は自転車のペパクラも作っている。学生時代の自転車には思い入れがあるので、いつか書こう。
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 春樹さんの引越しから数年後のことだが、国立駅北口の丘の上にある古いマンションに住んでいた友人 I の引越しを友人三人で手伝ったことがある。トラック を借りて荷物を積み込んだが、その際布団セットを積もうとして、皆が仰け反った。布団が獣の異様な臭いがするのである。気を失いそうになった。理由を考えた。彼は学生時代に米軍ハウスに住んでいて、ビリーという小型の黒い犬を飼っていた。コッカースパニエルだったかな。ビリーは、我々が行くと狂喜乱舞して放尿しながら部屋の中を走り回る癖があった。それだ。彼は何年もその臭いの中で寝ていたので、なんとも思わなくなっていたのだろう。しかし、堪え難い酷い悪臭だった。我々は、こんな布団に寝ていたら絶対に病気になる捨てろと言って、彼がいやまだ充分使えると言うのを振り切って無理矢理捨てさせた。その判断は正しかったと、今になっても思う。
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 その彼が引越した先は、同じ国立の旭通りにできたばかりのワンルームマンションだったが、そこがまた信じられない所だった。マンションの玄関ロビーは大理石。各階のエレベーターホールには絨毯が敷かれ、一見高級マンションの様。ほう凄いね豪華だねと言いながら部屋に入って全員が再び仰け反った。天井に手が届くのである。おまけに広い窓に比べて横長の部屋の奥行きが異様に狭く視覚的に不安定。落ち着かないのだ。いつも大きな窓の列車に乗っている様な部屋といえば理解してもらえるだろうか。しかも、驚いた事に部屋の角に高さ1mちょっとの不思議な金属の四角い柱がニョキッと立っているのである。なんだこれは!?と訝しがる我々に彼がした説明は驚愕のものだった。
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 まず窓を開ける。次に柱の先端を引き抜いてベルトの様な固定器具を出す。折ると、それが窓の外に出る。なんとそれは非常用の脱出装置だったのである。腰にベルトを固定し、窓の外に体を投げ出すと降下器が働いて地上まで脱出できるというものだ。しかし、彼の部屋は確か七階だった。高所恐怖症の人はまず助からないマンションであった。我々はただただ呆れて大爆笑するしかなかった。他にも、どうやって料理するんだという狭い台所や、牛乳パックと缶ビールと豆腐 を一丁入れたらいっぱいになりそうな小さな冷蔵庫等、突っ込みどころ満載のマンションであった。住めば都だったかは、彼のみぞ知る。
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 引越しといえば、私は37年の東京暮らしで、実に11回の引越しをした。そう、引越し魔である。私は小さな頃から好奇心が強く、しかも放浪癖があった。 小学校の頃、自転車に乗れる様になると、どこまでも自転車で行った。ある時などは、友人と三人で犀川信州新町にある久米路峡まで20キロのサイクリング に出かけたが、西山を超えて帰る途中に日が暮れて来てしまい、友人の母親の実家にやっとたどりついて一泊させてもらったことがある。当時は電話がなく、有線電話が主で各自治体で別れていた。なんとか伝言でつないでもらって、今夜は帰らないことを家に伝えてもらったが、帰って大目玉をくらった。捜索願を出す寸前だったと言われた。しかし、そういう事はこれだけでは済まなかった。まだまだ色々ある。その挙げ句のアマゾン放浪である。

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これらのペーパー・クラフトは、息子達の作品。詳細は、T & T STUDIO


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 今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」以外のユニークなバイト。それはスラップスティックな世界