『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

77年の3月、羽田空港からロンドンへ、空中分解しそうなアエロフロートで飛んだ

 村上春樹夫妻に色々悩みを打ち明けていた時に、「こんな狭い日本でうじうじしてないで、海外でも歩いてきなさいよ」と言われたことがあった。まあ、そんな助言もあって、私は77年の3月大学3年の春休み、アルバイトで貯めたお金や亡き祖母が私のために貯めておいてくれた預金等を元に、目出たく羽田空港からソ連アエロフロートでロンドンへ旅立った。モスクワ経由のアエロフロートを使ったのは一番安かったから。しかし、後方の窓際の席だったのだが、なんと隙間風が入って来るのだった。雲海が遥 か下に見える高度になると、隙間風の入る辺りのガラスに霜が付いた。隣には日本人の彼女にプロポーズしに行ったが、父親に外国人に娘はやれないと断られ (父親は恐らく太平洋戦争で米英と戦った人だろう。こういう例を少なからず知っている)、傷心を抱えて帰国する英国人の青年がいた。その彼が指差した天井のパネルはビスが取れてブラブラしていた。空中分解しなければいいなと本気で思った。
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 薄らと髭の生えた美しいロシア人のスチュワーデスが、ワゴンでお菓子やらジュースやらを売りに来たが、ほとんどの人は買わない。すぐに機内食の時間になるのが分かっているから。その機内食の記憶がない。まあ、羽田で積んだのだからそう酷いものではなかったと思うが、記憶に残る程のものでもなかったということだろう。幸い飛行機は乱気流に遭うこともなく、モスクワのシェレメチボ空港に下りた。驚いた。滑走路は除雪されていたが、真っ白。周囲は高い雪の壁 だった。更に驚いたのは、飛行機から乗り換えのターミナルビルへは100m位歩かなければならないのだが、両側に機関銃を持った兵士がズラッと並んでいるのだ。引き金には人差し指が掛かっていた。Oh my Buddha!
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 ターミナルビルの待合室は、体育館の様に天井の高いホールだったが、殺伐としていた。ソファーもベンチもない。小さな書架があって共産党の小さな冊子が並んでいた。もちろんロシア語なので読めない。トイレは入り口とは対角線の先にあったが、小銃を持った兵士付きで行かなければならなかった。実はこの前年の秋に、MiG-25戦闘機でベレンコ中尉亡命事件というものがあったのだ。当時のソビエト連邦の現役将校が、最新鋭の戦闘機で函館空港に強行着陸したのだから、驚天動地の世界的な大事件であった。その数ヶ月後だから、異様な警備があったのは当然だった。緊張感に満ちあふれた退屈な待ち時間の後で、別の機に乗り換え私はロンドンに向かった。幸いな事に、乗り換えた機体は隙間風がなかった。例の機体は、隙間風を入れながらパリへ向かったらしい。
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ロンドンとパリの写真、混ぜこぜ


 ロンドンのヒースロー空港には、当時英国に留学していた彼女が迎えに来てくれていた。私は彼女が暮らしている郊外のフラットの隣の部屋を借りた。二階建ての煉瓦造りの長屋が通りに面して連なっているというロンドンの典型的な造りで、私の部屋からは並木のある表の通りが、彼女の部屋からは中庭が見え、その向こうには向かいの長屋の中庭が見えた。霧のロンドンといわれる様に、毎朝目覚めると外は霧がまいていて、たくさんのカモメが屋根に留まっていた。横浜港にもカモメはいるが街の中には入って来ない。なぜロンドンのカモメは住宅街にいるのだろうと不思議に思った。私は彼女の部屋から見える、その中庭の風景が好きだった。木塀越しの向かいの家の中庭も、隣の中庭も、典型的なイングリッシュガーデンで、バラの木は必ずあった。ガラスの小さな温室がある庭もあった。短い夏にはパンジーやスミレやマーガレットなどの花が一斉に咲くのだろうと想像した。向かいの家にショートカットの金髪の主婦がいた。彼女は私が滞在した5週間程の間、毎日赤いセーターと緑色のセーターをずっと交互に着回していた。霧が巻く早朝には、鉛蓄電池の電気自動車の牛乳配達の車がウィーンと音を鳴らしてやってきた。1パイント瓶(約560ml)だったか、ミルクマンが配達するそのミルクは、上にクリームが溜まっていて、それは猫の取り分なんていわれていた。鳥がつついて食べていたという話もあった。
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 イギリスへ行く前に、マナーの煩い国だとさんざん聞かされたので、当時話題になっていた『ティファニーのテーブルマナー』という本を買った。東京でもナ イフとフォークが出る洋食屋は多かったので、これで苦労することはなかったが、滞在していたフラットに、たまたま作業に来た水道屋の親爺に、知らないだろうという様な感じで使い方のレクチャーを受けた。それより実際に見て驚いたのは、レイディー・ファースト(ladies first)だった。渡航前の彼女の手紙でも、気をつける様にと。けれども実際行ってみると、それはあらゆる場面で思った以上に徹底していて、私を当惑させた。後から来た女性のためにドアを開けて待つなんていうのは序の口。パリへ長距離列車で行った時のことである。私達のコンパートメントに、美しいブロンドの女性が乗って来た。彼女は足下にスーツケースを置いて座り、おもむろに私を見た。ドキッとしてボーッとしていると、隣の彼女が囁いた。「スーツケースを棚に上げてと言ってるのよ」。とっさに私は「ソーリー」と言って上げた。彼女は「サンキュー」と言って微笑んで読書を始めた。やれやれ。
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 彼女の話では、食事中などにトイレに立とうとすると、男共は全員立って見送り、帰って来ると再び全員立って迎えるのだそうだ。最初は放っといてくれよと思ったが、すぐに慣れたそうだ。こういう若い時に苦労して身につけた習慣というのは抜けないもので、社会人になっても女性がコートを脱ごうとすると後ろからそっと取ってコンシェルジュに渡すとか、道路を歩くときは必ず女性を車道の反対側にとかしてしまうのだった。しかし、それで得をしても損はしたことがなかったと思うので、良かったということにしよう。もっとも、後日レイディー・ファーストは、中世に暗殺が横行したため盾として女性を前に置いたという説を読んで、英国の貴族や騎士は男の風上にも置けない奴らだななんて思ったりもしたが……。
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 アングロサクソンは食事や料理というものを憎んでいるじゃないかとさえも思ったが、英国に旨いものがないわけじゃない。パブへも行った。さすがにビール は、ラガー、エール、ビター、スタウトなどあり、どれも旨かった。ミート・パイにカッテージ・ポテトとキドニー・パイは気に入ったさ。当時はまだ手作りで、冷凍物などはなかったのだろう。あれは紳士の食べ物ではないと言われるホウレン草のキッシュも気に入った。ロンドンのパブは、ホワイトカラーとブルー カラーに別れている店もあった。よく話のネタになるフィッシュ・アンド・チップスの店にも行った。なんの飾り気もない料理だ。後ろのテーブルで労働者がひとりで夕食を食べていたが、メニューはローストされた鶏一羽と周りに山の様なフライドポテトがあるだけだった。それは食事というより餌を食べているという光景だった。
 定食屋にも行ったが、ラムチョップとフライドポテト、フライドオニオンとトマト。あるいは、味が抜ける程くたくたに茹でられた温野菜。それにパン。アングロサクソンの食事は実に慎ましい。インド人がやっている店のサモサはお気に入りでよく買った。中華も化学調味料が大量に入っていなければそれなりに。唯一凄 いと思ったのはスーパーにあるフルーツ入りのヨーグルト。当時の日本では苺やパインぐらいしかなかったが、ブルーベリー、ブラックベリー、カシスなどもの凄く種類が豊富だった。ある日、ダブルデッカー(二階建てバス)に乗ったら、前のおばさんが、まるで馬の様に皮を剥いたニンジン一本をバリバリ食べていて驚いた。
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 滞在した当時、ロンドンには後乗りでドアのない飛び乗れる旧タイプの二階建てバスと、自動ドアで前から乗る新タイプのバスが走っていた。ある時古いタイプのバスの二階に乗ってロンドン市街を走っていた時だ。ハイドパークの近くだったと思う。二階には私と彼女と老人が一人だけだった。後ろの老人が突然なにかしゃベリ出した。初めは全く気づかなかったが、彼女が気づいた。「名所の説明をしてくれてるのよ」と。大きな独り言ではなかったのだ。その老人は私達が下りるまでずっと説明を続けた。かといってそれ以上何かを語るわけでもない。微笑みもしない。下りるとき私達は彼に例を言ったが、その時だけ少し微笑んだ様な記憶がある。少しだけイギリス紳士というのが分かった気がした。後で旅をしたブラジルの人々に比べると、実に面倒くさい連中だ。
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 しかし、こういう言葉がある。アングロサクソンやゲルマンは、なかなか心を開かない。でも一旦親友になったら固い信頼を結べる。ラテン系の連中は、すぐに友達になれる。しかし、本当に信じあえる親友になるのは難しい。でも親友になったら家族同様だと。さて、我々アジア人は、日本人はどうだろう。
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 ある日、ケンジントンにあるファッションビル、"Biba" へ行った。アール・デコアール・ヌーボーをミックスした黒を基調とした内装で、70年代のロンドンを代表するお洒落なスポットだった。ロンドンコートと 先の丸いウェスタンブーツを買った。ロンドンコートは、今次男が着ている。銀細工も買った記憶がある。彼女は濃紺ベースの花がらで、縁に赤いパイピングのあるチャイナドレスの上着を買った。下はスリムの ジーンズで、紺のパンプスを履いて、パリへ行った記憶がある。彼女は前髪パッツンのストレートな黒髪が似合う美しい女性で、お洒落なパリジェンヌが振り返るぐらいだったから、彼らから見てもエキゾチックで相当ファッショナブルだったのだろう。
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 百貨店はハロッズも行った。ロールスロイスで乗り付け、毛皮のコートを着た婦人が降りて来るような店だ。もちろんドアマンが恭しく迎える。地下の食品売り場のディスプレイが度肝を抜いた。牛肉やラム肉、野うさぎで飾られたツリー状のディスプレイ。同じ様に魚介類を積み上げたディスプレイは、日本にはないもので、マニエリスムジュゼッペ・アルチンボルドを彷彿させるものだった。
 もうひとつ、1875年日本や東洋の装飾品、織物、芸術工芸品を輸入販売する専門店として開業し、後に、「リバティ・プリント」と呼ばれる生地で有名になったリバティ百貨店の方が、私には魅力的だったね。近代デザインの父とも呼ばれる同時代のウィリアム・モリスと共に、生物描写、特に植物をデザインに活かす新境地を開いた。彼らは、1862年のロンドン万国博覧会で日本館の出品にかなり影響されたようだが、逆に大正時代の柳宗悦による民芸運動にも大きな影響を与えたといわれている。
女性店員が"Can I help you madam?"と聞くと彼女が"Just looking now, thank you."と応えていたのが恰好よかったが、ドラッグストアで石けんを探していて、「石けんないね」と彼女が言ったら、若い男の店員が「石けんならあります」と流暢な日本語で応えたのには驚いた。なにせ当時は日本の電化製品が上陸し始めたころで、二階建てバスにSANYOのロゴがあったぐらい。その後の和食やアニメの日本ブームも、まだなかったし、日本語を話せる英国人は稀だった。
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 当時カウンター・カルチャーのメッカとして注目されていたソーホーへも行った。古書店街があるセシル・コートにも行って、ボタニカルアートの画集や、以前『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で紹介した1907年に出版された『不思議の国のアリス』を買った。素朴な木版の絵が気に入って"Grand Tarot Belline"という中世のタロットカードのレプリカも買った。オリジナルは、かのナポレオンを占ったという逸品らしく、レプリカとはいえ、コレクション・カードとしても名品中の名品らしい。カードの側面は金箔貼りで、ケースも豪華仕様だ。占いはやらないし信じもしないが、これはいい。

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ナポレオンを占ったという"Grand Tarot Belline"の複製


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 彼女が大学のレッスンがある日は、一人で街も歩いた。チューブ(地下鉄)の切符売り場の親爺に"thirty"の発音を直されたのには参った。あんたが来日したら、日本語の発音を徹底的に直してやるぜと思ったが、来るはずもなかったね。一人で入ったサンドウィッチの店は良かった。まずパンは大好きなライ麦パンを選び、ローストビーフかラムにレタス、トマト、オニオン、ピクルス。あるいは、スモーク・サーモンとチーズとかを選んで行く。粒マスタードやサウザンアイランド・ドレッシングをたっぷりかけてもらってね。チェーン店ではなかったし、自分で自由に組み合わせられるのがよかった。エリザベス女王御用達とかいう、ミントの効いたチョコレート、アフター・エイトも気に入った。昔、チョコレートの本を作った時に、コートドール初め撮影に使った世界中の高級チョコレートを10キロもらったことがある。ウィスキーのつまみとして、そのまま食べたり、スウィーツにして家族四人で食べ切るのに半年かかった。
 音楽は、イギリスはやはりロックのメッカという感じだった。"Biba" やソーホーなどは、長髪にロンドンブーツの若者がいた。当時はハードロックの全盛期。ジャズだけでなく、ハードロックやヘビーメタルも聴いたものだ。
 BABYMETALの。最近私が最も気に入っているヘビーメタルのバンドである。聴かない日はないほど。『Gimme chocolate!!』、『イジメ、ダメ、ゼッタイ - Ijime,Dame,Zettai』は必聴。美少女3人のKAWAII METALが世界を変えるかもしれない。戦争が始まれば、真っ先に弾圧されるのが音楽。私達は戦争で利益を得ようとする悪魔の集団から彼女たちを子供達を守らなければならない。
 興味のある方は、私のブログ記事『[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達』をご笑覧あれ。非常にアクセスの多い記事です。


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 ハイド・パーク近くのロイヤル・アルバート・ホールに、 オスカー・ピーターソンのコンサートを聴きに行った。ホールは1871年オープンでヴィクトリア様式の荘厳な建築。クラシックの演奏はもちろん、ジャズや ザ・ビートルズザ・ローリング・ストーンズ、ジミー・ヘンドリックス等のコンサートも行われた。ジャズのコンサートは、イイノ・ホールや厚生年金会館、 一橋大学の兼松講堂などで聴いたことがあったが、この様な格式のある大ホールでジャズのコンサートが行われることに驚いた。私達は赤いカーテンの掛かるボックス席の上のイス席だった。値段の高い席には、着飾った紳士淑女が座っていた。オスカー・ピーターソンのピアノは、本当に素晴しく、それは「ピー ター・キャット」やアパートのオーディオで聴くものとは雲泥の差があった。やはり生に勝るものはない。
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 イースターの休暇に彼女と列車でパリへ向かった。ドーバー海峡を、大きなフェリーに列車を積んで渡った。英のドーバーから仏のカレーまでは1時間半ぐらいの乗船時間だが、フェリーに列車を積む時間や、下ろして連結する時間がけっこう長く、カレーではイミグレーションも通らなければならなかったため、思ったよりも時間がかかった。乗客は列車から降りて船室に入る。夜だったが、その日のドーバー海峡は荒れて船は激しく揺れた。私は大丈夫だったが、トイレは満員だったと思う。
 フランスに入って夜が明けた。地平線まで赤土の畑が続き朝霧の中の枯れ木立の中に白壁の農家が見えた。バルビゾン派の絵の様な風景の中を、列車はゆっくりと進んだ。自転車程の速度で走っている時に、線路脇にある一件の農家が見えた。質素な赤煉瓦の家に囲まれた中庭には鶏やアヒルや牛、犬や猫がいて、馬小屋もあった。長い膨らんだスカートをはいた農婦が洗濯物を干していた。朝焼けの斜めの光を浴びて、それはまるでミレーの絵の様な風景だった。
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 列車は8時間ぐらいかかってパリのノード駅に着いた。最初のホテルは、パリ東部の坂を上がった所にあるバックパッカーが多い、けれども小奇麗な安ホテルだった。なにが良かったといえば、そのホテルの朝食。バゲットにバターを塗り、摺り下ろしたリンゴに蜂蜜を練ったものをたっぷりつけて、カフェオーレで流し込むだけのものなのだが、そのバケットとリンゴに蜂蜜を練ったものが異常に旨かったのだ。友人のフランス人に言わせると、当時はパリでもまだ石釜でパンを焼いている店が多かったので、そりゃ旨かっただろうということだ。毎朝、一人でバゲット1本以上を食べていたら、ホテルのマダムが、そんなに美味しい? と言った。それぐらい旨かった。ロンドンからパリに着いて一番衝撃的だったのは、何を食べても美味しいということだった。地元の人が行くビストロのオニオンスープやカスレ。節約のためにデリカテッセンで買った豚足のゼリーよせ。蚤の市で食べたクレープ・シュゼット。長いバゲットにハムやチーズや野菜をたっぷりと挟んだサンドウィッチ。ひとつとして不味いものはなかった。
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 若くて体力もあったし、何より好奇心が旺盛だったので、パリ中を回った。メトロも使ったし、シトロエンプジョーのタクシーもよく利用した。そして、なによりよく歩いた。ノートルダム寺院ルーブル美術館、ポンピドーセンター、エッフェル塔、凱旋門、クリニャンクールの蚤の市、モンマルトル寺院、ショパンの墓のあるペール・ラシェーズ墓地、シャンゼリゼ、サンジェルマン・デ・プレ、オペラ座界隈、ムーラン・ルージュセーヌ川畔等々。今はどうか知らないが、犬の糞を踏まずにパリの街を歩くのは、かなり難しかった。特にモンマルトル界隈では、前を歩いていたフランス人のカップルの男の方が、もろに踏んだのを見た。ユトリロが描いた石段のある小路だったと思う。サン=ルイ島だったかの小さな公園で、遊んでいた地元の子供達と話したり、モンマルトルの丘でスペインから来た修学旅行の女子高生と話したり、カフェで通りを歩く人を眺めたり、それは楽しかった。
 ちょうど生牡蠣のシーズンで、カフェやレストランの店頭には沢山積んであり、時折店員が冷水をかけていたが、その漂う臭いで、これは間違いなく腹を壊すなと食べなかった。あらためて地図でパリを見れば、信州以上に海なしのど真ん中ではないか。パリジェンヌは、こんなものを食べて腹を壊さないのだろうかと思った。
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 当時、開館したばかりで、パイプが剥き出しの前衛的な建築で世界の話題をさらったポンピドー・センターは、最も行きたいところだった。私が観たかったのは、マルセル・デュシャンの遺作、『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』 (Étant donnés: 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage) だった。スペイン・カダケスの古い木の扉の覗き穴から中を見ると、右奥には光の効果によって実際に水が流れているかのように見える滝があり、その風景の中に左手でランプを掲げた少女の裸体が性器もあらわに横たわっているという立体作品。現代芸術の分野で、コンセプチュアル・アートの先駆けといわれた彼の、 その作品がどうしても観たかったのだ。他にも現代芸術の作家の作品がたくさんあったが、やはりこの作品が強烈に心に残った。ルーブルの、ミロのビーナスや モナリザよりもね。彼の墓碑には、「されど、死ぬのはいつも他人」と刻まれているという……。この作品は、フィラデルフィア美術館の永久展示となってい る。
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 行きたいところがパリの北西部に多かったことから、途中でホテルを変えた。二度目のホテルはムーランルージュの近くの、やはり安宿だった。深紅のベッドカバーのダブルベッドが、やたら大きかった。夜になると階段を上り下りする男女の声が騒がしいホテルだった。翌日出かけると、歩道に何人ものセクシーな女性が立っていた。見ると手に手に私達が泊まっているホテルのカギを持っているではないか。その上、ホテル近くのナイトクラブの客引きの男には、卑猥な日本語で入店を誘われた。そこは娼婦街だった。笑った。
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 クリニャンクールの蚤の市も面白かった。ホテルの所同様に、治安がいいとはいえない街だったが、今程移民も多くはなかったし、危険を感じる程ではなかった。アンティークはもちろん、古着から古書まで色々あった。お金がないので見るだけだったが、それでも充分に堪能できた。アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー、アルフォンス・ミュシャの ポスターは、欲しかったがとても手が出る値段ではなかった記憶がある。他に記憶に残っているのは、銀食器や家具。アンティークのミニカー・コレクション。 ミニカーというと日本では子供のおもちゃだが、欧州では紳士のコレクション・アイテムでもある。蚤の市では買わなかったが、ロンドンで二階建てバスのミニ カーを二台買った。

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上の二台が、当時買い求めたダブルデッカー。銀色の方は、"The Queen's Silver Jubilee London Celebrations 1977"と書いてある特別車。手前は、ずっと後になって子供達をだしにして買ったもの。英国のLLEDO社のDAYS GONEシリーズ。今回、ダブルデッカーを探すために倉庫をあさったが、ミニカーの余りの多さに気を失いそうになった


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 ロンドンにしてもパリにしても、東京の様に10年経つと街の風景が一変するということはない。ブラジルもそうだった。新しい建築物は新市街にあるが、旧市街の古い建物は内装は変わっても外装は変わらない。泊まったホテルの壁も石の部分は相当古く、彼女と何百年前のものなんだろうねと話した記憶がある。映画『戦場のピアニスト(THE PIANIST)』でも描かれたように、ポーランドワルシャワ歴史地区は、ドイツ軍の爆撃により八割が破壊されたが、「歴史を奪われた国民は、存在しないも同然だ」と、煉瓦のひびに至るまで、ほぼ完璧に復興されたという。愛宕山から撮影された幕末の江戸の写真を見たことがあるだろうか。黒光りする瓦が連綿と続く世界に誇れる美しい大都市だった江戸が、東京と名前を変えて、欧米コンプレックスに侵された薩長の田舎者により猥雑な極東の街に変わっていった。東京大空襲で焼け野原になった後も、壮大な都市計画等全くなく、ほぼ無計画に増殖して今日に至る。そして今、東京は放射能汚染により、その歴史を終えようとしている。大伴克弘の『AKIRA』に描かれたネオ・トウキョウが、そう遠くない未来に現実のものとなるだろう。中国に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という諺がある。歴史を疎んじ捏造し、歴史に学ぼうとしない国は、いずれ滅びる。
 著作権満了のナショナル・ジオグラフィックの写真で作ったスライドショー。
【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平
 モボ・モガに浮かれた花の都東京を中心として日本は、後藤新平が亡き後、急速に軍国主義化していった。今現在が、非常にその頃と似ている。
               ◆
 学校で学んだ世界史や日本史というものは、時の国家や権力者に都合がいい様に捏造されている。欧州の世界史というのも例外ではない。古くは西葡蘭。後には英米仏の植民地戦略が、軍事だけでなく情報操作、思想操作、愚民化政策などにおいて、いかに巧妙で古い歴史があるかは、その気で情報収集すればすぐに分かることなのだが。受験勉強でいくら高得点を取っていい大学へ行っても、決して事実を見ることはできないし、事実を見る目は育たない。欧米による愚民化政策と教育の賜物が今の日本であり、その結果の原発事故なのだ。TPPは、満身創痍の日本から最後の富を収奪する総仕上げだ。いい加減自分の頭で考え行動する人間になるべきだ。
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「可愛い子には旅をさせよ」という諺がある。親元で甘やかしていないで、世間の厳しさを体験させよということだ。実際、南米アマゾンの放浪で は、世間の厳しさどころか、命の危険にも晒されたが、たった200日余りの放浪でも、10年分以上の経験をさせてもらった。南米では、リタイアして悠々自適の旅をするマイアミの老人の団体などに出逢った。それも悪くはないが、国内外問わず、旅は若い時にした方がいい。ツアーではなく、人や自然と自由に交わる放浪のひとり旅を。ひとりで行けば危険も伴うが、こちらが心を開けば相手も警戒を解いて受け入れてくれる。アマゾンで貧民街に居候したり、ジャングルの奥地の日系移民の農場を訪ねたり、ボリビアの大平原で川船で暮らす家族を訪ねたり、貴重な経験を積む事が出来た。それはお金や物には代えられない財産となった。
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 今年(2013)のノーベル文学賞、春樹さんは英のオッズでトップだったそうだが、結局カナダのおばさんになった。彼女の旦那が「カナダには10人以上 彼女よりいい作家がいるのに信じられない」という様なことを言っていたが、ノーベル文学賞と平和賞は、パロディか悪い冗談ぐらいに思っていた方がいいようだ。この両賞ほど政治的に利用されて来たものはないからだ。
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次は、『春樹さんと本と学生時代に読んだ本について。僕は自転車と雑学が好きだった』