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『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

70年代の学生の自炊と外食。つまり食料事情について。抱腹絶倒の物語

 70年代の平均的な学生の一人暮らしというのは、たいていが四畳半か六畳のモルタルアパートだった。三畳に住んでいた強者もいた。賄い付きの下宿というのもあったが、数は少なかった。部屋はたいてい畳敷きで、小さな台所とトイレが付く。水洗がほとんどだったが、郊外ではまだ汲取も少なくなかった。 ワンルームマンションなどまだない頃だ。携帯はもちろん、電話も債券が高かったので入れているのは、クラスでは金持ちの芦屋出身のお嬢さんぐらいだった。 だから友人の所へも突然訪ねていったりした。不在ならそれまで。面倒だが束縛もなかった。その辺の犬や猫の様な暮らしだった。携帯がなかった当時、デートの約束等、皆どうしていたのだろうと、今になって思う程だ。彼女が家族と同居だと、母親ならともかく父親が電話に出たりすると、そりゃもう……。
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何を煮ているのだろう。怪しげな鍋だ


 当時のアパートは、小さな流しと、ガスコンロがひとつあるだけだった。四角いステンレスのカバーのものもあったが、鋳物のごついやつも普通にあった。流しはステンレスが多かったが、古いアパートでは石のものもまだあった。普通、調理器具は鍋とフライパンにトースターぐらいだろう。おっと、電気炊飯器も忘れてはいけない。それと電気ポットは、当時の学生の必需品だった。ひとり用の小さな冷蔵庫も必需品だったが、高いので古道具屋で中古を買った。調理器具ではないが、ベッドは病院用の畳のベッドを買った。2年の終わりに友人に譲って卒業する女性の先輩から宮付きの木製ベッドをもらった。そんな風に、融通しあってなんとかしのいだものだ。ビールケースを並べて上に厚いベニヤを敷き、ベッドにしている者もいれば、押し入れに寝ている者もいた。私は子供の頃いたずらをすると、祖母に真っ暗な土蔵に閉じ込められたので、『うる星やつら』の面堂終太郎と同じく暗所&閉所恐怖症である。よって押し入れに寝た事はない。 猫とか幼児は押し入れの段ボール箱に入って遊ぶのが好きだが、私にはできない。引き蘢れないのだ。子供の頃、引き蘢りたい時は、むしろ山に登って草の上に寝て北アルプスを眺めたものだ。
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 食料事情で最も現在と異なるのは、コンビニがなかったということ。チェーン店が少なく食堂全盛期。スーパーも少なくデリカがなかった。個人商店全盛期で、総菜屋もたくさんあり商店街は活気があった。街にはメガフォンタイプのスピーカーがあちこちにあって、甲高い声のお姉さんが始終宣伝をしたり、歌謡曲を流していた。宅配便がなかったので田舎から新鮮な野菜を頻繁に送ってもらうことができなかった。国鉄のチッキというのがあって利用したが、国分寺の駅まで取りに行かなければならず、結構めんどうだった。20キロの荷物をアパートまで持って帰るのは難儀だった。国分寺や国立周辺は農家も多かったが、今の様に産地直売や無人販売というのはほとんどなかった。ただ、国分寺にも国立にも個人商店の八百屋や乾物屋がたくさんあった。そこのおばちゃんと仲良くなるのが私のささやかな処世術であった。おまけをくれるのだ。
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 忘れがちだが、今の様にATMがなく簡単に仕送りを引き出すことができなかった。現金書留がまだ生きていた頃で、「金送れ」の葉書が全国を飛び交っていたはずだ。私は筆まめだったので、家にも友人にも長々と手紙を書いたが、筆無精の友人の中には、親から○を書いた葉書を何枚も渡されている者がいたそうだ (話は聞いたが見た事はない)。送金が届いて元気な時はその葉書を出す。今は時々息子達とスカイプ(テレビ電話)で話すけれど、そんなことは夢のまた夢だった。友人の女の子が仕送りが遅れて、弟と二人でキャベツひとつで一週間過ごしたと聞いたこともあった。夏休みで友人達が皆帰郷してしまい、誰にも借りることができなかったらしい。
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 野生動物ならずとも、食べるということは生きる術の基本だ。限られた仕送りとバイトの金で、どうやって食いつなぐかは、非常に重要なことであった。外食だけでは金欠になるので、誰しも自炊をしたものだ。基本は野菜炒めである。野菜と米を食べ、味噌汁を飲んでいれば生きられるという暗黙の了解事項があった。金に余裕があれば豚肉が入る。後は鯖、秋刀魚など大衆魚の焼き魚。週一で必ずカレー。これが定番だった。私は子供の頃から奇麗好きで、部屋も台所もきちんと整理整頓されていたが、友人の中には流しに鍋や皿が山積みになり異臭を放つ者も少なくはなかった。『男おいどん』は、71年から73年まで連載された松本零士の漫画だが、本当に押し入れにキノコが生えた者がいた。サルマタケかどうかは分からない。しかし、私は野菜好きだったため、主人公・大山昇太の好物「ラーメンライス」の炭水化物攻撃には馴染めなかった。ラーメン炒飯でラーチャンというのもあったが……。
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 野菜炒めと肉野菜炒め、味噌炒め(油味噌)、カレーが、上京当初の私の三大得意料理であった。後にカレーは市販のルーから、スパイスを調合したオリジナルカレーに進化する。味噌炒めは、信州の定番料理だ。夏はナスとピーマン、タマネギで炒め、金があると豚肉が入る。信州では油味噌という。冬は人参、大根、長ネギと石川県のスギヨのビタミン竹輪になる。味付けは信州麹味噌に酒、味醂、出汁粉だが、牡蠣油を入れるとさらに旨い。ビタミン竹輪は、信州人のソウルフードだ。これなくして信州の郷土料理は語れない。これに、中華食堂で外食を重ねるうちに、中華丼や炒飯が見様見真似で加わる。中華丼はあんかけで、 寒い信州の冬にはぴったり。当時の国分寺の冬は寒かったので、これもぴったり。野菜もたっぷり摂れるしボリュームもある。野菜炒めを上京して初めて食べた のは、高校の時の夏期講習で下北沢に間借りしていた時に通った中華食堂「天好」でだったと思う。街の食堂のおやじは料理の先生だった。食いしん坊の私は、 カウンターに座りながら親爺が何をどのタイミングで入れるか観察していた。化学調味料は当時から苦手だったので、大量に入れる店は敬遠した。
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 金がないので、普段は肉は小間切れ、魚はアラや青魚を専門に買った。浪人時代、共同生活をしていた友人と行きつけの魚屋へ行くと、親爺が長髪の私に「奥さん今日はなんにしますか?」と聞いた。友人が笑って「アラしか買わないって知ってるくせに!」と突っ込んだ。口の悪い親爺は、そうは言いながらもいいアラを取り置いてくれていたものだ。天然高級魚のアラで作った鍋は旨かった。個人商店のおじさんやおばさんは学生の強い見方だった。国立時代の近所の酒屋のおばさんは、ノベルティのグラスをよくくれた。試供品のビールやミニチュア瓶、おつまみもよくもらった。息子が小さい頃、国立へ買い物のついでに行ってみたら、富士山が見える坂の上のその店は既に無くなっていた。
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 味の調合というのは、絵の具の調合と似ているところがある。同様に音の調合というのも似ている。そういうわけで、美術関係や音楽関係にはグルメや料理好きが多い。絵の具も組み合わせや混ぜ合わせで輝きを増す。混色を誤るとヴァルール(色価)が狂って土留め色になる。ただし、隣に来る色との組み合わせで突然輝きだすこともある。味でいえば渋みとか苦みだろう。雑味とは違う。音でいえば不協和音がそれに当たるかもしれない。ジャズはまさにその極みだ。壮大なシンフォニーも、ばらせばひとつひとつの音でしかない。相乗効果の凄さを体験すると、完成した料理は官能の極みにある。その面白さと快感を味わうと料理が好きになる。しかし、料理の神様はいつも微笑んでいるわけではない。時には大失敗をして、鍋いっぱい丸ごと捨てたこともある。「鶏のオレンジジュース煮」 というのをクラスの女の子二人を呼んで振る舞って好評だった記憶があるのだが、どこで覚えたのだろう。春樹さんや陽子さんから教わったのだろうか。
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 以前にも書いたが、「ピーター・キャット」では、通常のメニュー以外に、陽子さんが手作りの料理を出していた。特に好きだったのは「手羽元と長ネギの煮込み」で、作り方やコツを教わって私の定番料理のひとつになった。料理は面白いが後片付けがねという人がいるが、これも「ピーター・キャット」や、後に友人とその叔父に頼まれて一時期参宮橋でやったカフェ・レストランの経験から、料理をしながら片付けるというのを身につけた。今でも料理を終えると、ほとんどが片付いている。その後、編集アートディレクターとして、料理の記事や料理の本を数多く手がけたことからレシピの研究にも手をつけた。その集大成が『MORI MORI RECIPE・男の料理』だ。所謂普通の料理があまり載っていない。「信州の新郷土料理、世界の郷土料理やアウトドア料理を、時に大胆に時に繊細に「男の料理」にアレンジ」がキャッチフレーズ。レシピ集のサイトは星の数程あるけれど、アマゾン料理の「ソッパ」と中華の「梅干菜扣肉(メイガンツァイコウロウ)」のレシピを載せているのは、私ぐらいのものだろうと思う。全てオリジナルレシピか、オリジナリティを加えてある。料理好きな人は覗いてみて欲しい。
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 当時、地方には現在の様に美術系の大学や学部はほとんどなかったので、進学しようとすると上京するしかなかった。そのため友人には全国各地からの出身者がいた。それは非常に楽しい事だった。北海道の友人は、金がないとご飯にバターをのせて醤油をたらして食べるのが定番だったし、長崎出身の友人はなんといっても明太子飯だった。関西の友人は、東京の真っ黒なうどんの汁に辟易していた。なので、村上夫妻も御用達の関西うどんが食べられる「まねき」は、彼の聖地だった。奈良の三輪素麺製造の息子が祖父が作った素麺を持って来て素麺パーティーを開いたことがあったが、これは絶品だった。ジンギスカンが、北海道 のものと信州のものが、微妙に味付けや焼き方が違うということも知った。北海道のものは野菜の上に乗せて蒸し焼きにする感じだが、信州のは信州リンゴのタレに漬込んだものを鉄板で直接焼く。信州ではBBQにジンギスカンは欠かせない。皆で誰かのアパートに集まって宴会をよくやったが、地方色が出て面白かった。信州というのは、ちょうど関東と関西の中間にあり、両方の食の文化が混在していて面白い。信州の郷土料理の「ニラのおやき」は簡単なので、お好み焼きや焼きそば同様、よく作った気がする。高級品の地蜂の子の瓶詰めをお土産に持って行ったことがあるが、誰も食べてくれなかった。
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 本物の野菜とハリボテの野菜って分かるだろうか。70年代当時の野菜は、大型スーパー全盛の現在の様にクローンの様な均一なF1種(自殺種・種が採種で きない。よって毎年買わなければならない)の野菜が奇麗に並んでいる状態ではなかった。八百屋には不揃いの野菜達が並んでいた。まだまだ伝統野菜や固定種が幅を利かせていた時代だ。F1種は、農薬と化学肥料が必須。固定種の野菜は不揃いで数もならない。味も栄養も濃いから灰汁も出る。スーパーで売られている野菜はほとんどがF1種。味も薄いが栄養も1/2か1/3。カスを食べているのと同じ。次に来るのはGMO遺伝子組み換え作物だ。F1種は揃うし収穫量も格段に多い。でも奇麗に揃った畑を見て、クローンが並んでいるみたいで気持ち悪いと思える人はどれほどいるだろうか。人間だって皆顔が同じだったら気 持ちが悪い。不揃いが当たり前。無農薬・無化学肥料にこだわっているのにF1種を育てている人が結構いる。一代交配と書いてあるものは全てF1種。F1種 といえば江戸時代に作られたソメイヨシノがその可能性が高い。生育が早く寿命が短い。同じ場所のものは一斉に咲く。ヤマザクラはバラバラに咲く。違うのは、その作り方。昔は放射線を浴びせることなどしなかった。そうやって作られたF1種の安全性は証明されていない。GMO遺伝子組み換え作物の危険性は既に証明されていて、各国で禁止されている。しかし、日本はその遺伝子組み換えのトウモロコシや大豆を最も多く輸入し食べている。
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 畑に誘因作物で、花を沢山植えている。バジルも咲いたし、豆の花も咲いたが、ミツバチ、ハナアブを見ない。二年前はもっと酷くて近隣の畑の豆類が全滅した。放射能も考えられるが、ネオニコチノイド系農薬の空中散布が最も考えられる。グリホサート系除草剤や神経毒性農薬フィプロニルも危険。沈黙の破滅現象は既に始まっている。ミツバチが全滅したら人類は4年で滅亡するとアインシュタインが言ったとか。蜂群崩壊症候群(CCD)は、世界中で問題になってい る。TPPに入ると、モンサント社ベトナム戦争で使われた枯れ葉剤とほぼ同じ除草剤ラウンドアップ遺伝子組み換え作物とセットで使用が義務づけられか ねない。自家採種が違法になり、伝統野菜、固定種が消える。それは郷土料理の消滅、日本の食文化の崩壊を意味する。そして、ミツバチ、ハナアブが死滅し、 田畑は不毛の地となり、食料危機が間違いなくやってくるだろう。
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 上の写真は、大学1、2年の時に住んでいた国分寺のアパート。2階の真ん中。大家さんに内緒で猫を飼っていて、蚤大発生という失態をやらかした。優しい大家さんだったので追い出されなかったが……。詳細は、『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で。
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今日はここまで。次回は夏に似合うジャズアルバム。「ピーター・キャット」の夏。