『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

「ピーター・キャット」以外のユニークなバイト。それはスラップスティックな世界

『70年代は、オーディオブーム。そのために必死で「ピーター・キャット」等のバイトをした日々』で書いたが、大学一、二年の時はアルバイトに明け暮れた。「ピーター・キャット」のバイトは、週に2、3回ぐらいだが、その他にも色々なユニークなバイトをした。そして、それはスラップスティックな世界だった。当時既にアルバイト情報誌というものはあった。しかし、ほとんど全てのアルバイトは、知人、友人の依頼や勧誘によるものだった。美大ということで、一般の大学生ではできない特殊な仕事だったということもある。オイルショックもあったが、まだ外国人労働者もいない頃なので、学生のアルバイトは豊富だったのだろう。
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 日本橋にある有名な寝具メーカーで、寝具のデザインの手伝いと版下を作るアルバイトをしたことがある。国分寺から遠いので通うのが大変だったが、人形町辺りの下町の雰囲気は、田舎出身には和むものがあり、遠距離も苦にはならなかった。デザインは、ほとんど社内のデザイナーが仕上げるので、我々がしたのは補助的なものだった。主な仕事は、その版下を作る作業だった。モチーフは、プレイボーイのバニーだった。私は、マジソン・スクエア・ガーデンのバッグもプ レイボーイのトレーナーも買った事はないが、日本版の月刊誌も発売されて、特に団塊の世代には人気があったのだろう。
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 仕事は、小さな兎のマークやロゴを並べて、シーツや布団の柄を作るのだが、その作業場が変な所にあった。地下にあったのだが、その暗室に行くには、なんと女子社員の更衣室を通って行かないと行けないのだ。昼間はいいのだが、夕方から暗室に入らなければならない時は、女子社員のお姉様方が着替えをしている中を「すみませ〜ん、すみませ〜ん」と言いながら通らなければならないのだ。竜宮城の向こうにタコ部屋がある。そんな感じだった。
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 そんなある日のことだ。やはり夕方から暗室に友人と二人で籠りっきりになった。昼間二人で作った小さな兎を並べた版下を何枚も印画紙に焼き付けていくのだ。社員のデザイナーは帰宅してしまっていた。アルバイトだけ残して社員が皆帰ってしまうというのも珍しい会社だなと思ったが、それだけ信用されているんだろうと思う事にした。細かい面倒な作業が進行していく最中に、相棒がぽろっと呟いた。
「プレイボーイの兎って右向きだっけ……。」、「え〜!!!」。ドッカーーーーン!(暗室の天井を突き破って、本社ビルの各階を突き破り、二人が人形町の空に飛び出した音)
 蝶ネクタイをしたバニー・ヘッドは、正しく皆左向きである。目出たく一から作業のやり直しであった。その夜、我々が泣きながら深夜まで作業したのは言うまでもない。ちなみに、プレイボーイのマークに兎が採用された理由に、兎は人間と同じく年中発情期だからだという説がある。ヒュー・ヘフナーめ。「ピー ター・キャット」には、村上夫妻がつけた、ウサコというニックネームの女の子がいたが、確かにバニーガールのコスチュームが似合いそうな美しいボディだっ た。
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 谷保の田圃の中にあるイベント会社でのアルバイトもユニークだった。なんと、ここにも兎がいた。残念ながらイベント用のバニーガールではない。仕事は多岐に渡ったが、ほとんどがきつい肉体労働であった。中でもきつかったのが調布市民文化祭。大きな入場門は会社の庭で作った。ペイントや絵描きはお手の物なので楽しかったが、この巨大な門の搬送と設置は大仕事だった、それよりもきつかったのが、メインストリートへのテントの設営とステージ作りであった。何十張りものテントの支柱を運び、設営するのは重労働。さらに、ステージの設営が大変だった。まずパイプで足場を組み、そこへ平台という重い台をかついで乗せて行く。経験者は分かるだろうが、この平台が20キロ以上あり重い上に担ぎにくいことこの上ない。やっと並べてパンチカーペットを敷けばできあがりである。この上で調布の芸達者なおば様達が踊ったり、マイナーなアイドルが歌うのである。イベント中は暇なので支給された弁当を食べながらアホ面下げてステー ジを観たりしたのであった。もちろん最後には、辛い撤収作業が待っていた。門の制作以外は、体育大学の学生向きのバイトだった。
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 武蔵村山の市民祭だったと思うが、体育館で行われるアイドルのコンサートの設営に行った事がある。体育館中に、まず重いゴムのロールマットを広げて行 く。結構大変な作業だ。次にロールのゴザを敷いて行く。それで終わりである。私がひとりで、ステージ脇の跳び箱等が置いてある部屋に用具を片付けに行くと、ちょうどアイドルの卵がひとりでステージ衣装に着替え中だった。ごめんなさいと言ってすぐに出たが、薄ら寒い用具置き場で着替えしないといけないなんて、アイドルの卵も大変だなと思った。夕食の弁当をもらって体育館の二階に登り、彼女のショーを観た。体育館は老若男女で満員になった。5、6人のバンドで彼女の歌が始まった。当時デビューした山口百恵キャンディーズのような、白いフリフリスカートの衣装で彼女は歌い踊ったが、名前も歌も全く記憶にない。可愛い子だったが、誰だったのだろう。
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 外国ではあまり聞いた事がないが、社内運動会というのが日本にはある。その設営も結構大変だった。大玉や玉入れの篭や綱引きの綱、バトン等、用具一式は もちろん、ライン引きやゴールでのテープ持ちやスターターもやったりする。時には人数が足りなくて、社員のお姉様と肩を組んで二人三脚をしたりもするのであった。これは楽しかった。ところで、あの兎だが、会社の広い庭の片隅に小屋があった。最初我々はイベントで使うために飼っているのかと思った。それもあるらしいが、よくよく聞くと忘年会に兎鍋にして食べるために飼っているということが分かった。実にワイルドな会社であった。
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当時、創刊された雑誌の創刊号(ポパイだけは2号)


 一年の夏休みだったと思う。誰かのつてで『non-no』のバイトが入った。『non-no』といえば、1971年(昭和46年)5月25日に、前年に 創刊された『an・an』に対抗して創刊されたご存知集英社の女性向けファッション雑誌。当時は、アンノン族という言葉を生み出したほどの人気雑誌だっ た。今は日本人モデルが全盛だが、当時は外国人モデルばかりだった。ファッション・グルメ・インテリア・旅という定番企画が生まれたのも この頃だ。仕事は、インテリア企画の一環で、本社近くのスタジオでモデルルームを作る事だった。当時のある号を見ると、「この春の木綿/銀座/花のあるインテリア」等というタイトルが並んでいる。作ったのはA子さんの部屋みたいな感じだったと思う。
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 作業は、女子社員とスタイリストの指示に従って部屋を作って行くのである。まず部屋を作る。壁紙貼ったり小物を作ったりはお手の物。常時ついた女子社員がまだ新入りで、リードは外部スタッフのスタイリストがとらざるを得なかった。作業に行き詰まると、時には我々がアイデアを出す事もあった。連日深夜まで 続くハードなアルバイトだった。しかし、雑誌全盛期である。夕食などは、編集長自ら近くの豪華な中華料理屋に連れて行ってくれたこともあった。仕事は終電過ぎまで続いたので、神保町から国分寺までタクシーで帰った。今思えば、随分と贅沢なバイトだった。
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『non-no』は、その後も縁があって、西麻布の丘の上にある洋館のデザイン会社に出向で働きに行っていたことがあるが、その会社が『non-no』の仕事をしていた。ガーデンパーティーには、外国人モデルの女の子が沢山来た。北国生まれで肌が弱く、肌荒れに悩んでいた私に、ベビーローションの無香料と ウィッチヘーゼルのハマメリエキス入りアストリンジェントを勧めてくれたのも、そんなモデルの女の子のひとりだった。まだ10代の彼女は、たったひとりで アメリカから日本へ働きに来ている事、いずれは世界的なヴォーグやエルの雑誌に出たり、パリコレに出られる様なモデルになりたいという夢等を語ってくれた。フランス人形の様な可愛い容姿とは全く異なる強い意志を持っていることに驚いたものだ。
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 モデルといえば、美大や芸大では、たいていヌードデッサンの授業がある。一般の人は奇異に感じるかもしれないが、美大生はたいてい研究所時代に経験しているし、男女の学生がいるが、描く事に集中するので特にどうということはない。モデルは劇団員の女性や専門のモデルと様々だが、一様にプロなので照れる事もない。休憩時間には雑談したこともあった。たいていは20代な半ばの女性だが、稀にピチピチの若い劇団員が来たりすると、男共は普段以上に頑張って描いたりしたものである。ヌードモデルは確かに報酬がいいが、20分ジッとポーズをとって10分休憩で計3時間とか、大変な仕事であることは間違いない。
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 青学の近くにある高級輸入家具の店でのアルバイト。当時でも100万円以上のものばかりで、気を遣う仕事だった。ただバロックやロロコ様式の家具が多く、さすがに欲しいとは思わなかった。20世紀のアール・ヌーボーアール・デコバウハウスの家具などには憧れたが、学生にはとても手が出せる値段ではなかったし、四畳半のアパートに合うはずもなかった。しかし、好みは別としてそれらの洗練され磨き上げられたデザインと技術は、非常に勉強になった。昼食は、近くにある青学の学食を利用することが多かった。美大とは異なる雰囲気が新鮮だった。後に青学の図書館の検索マニュアルのディレクションやデザインをすることになろうとは、想像もしなかったが。
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 こんな感じのアルバイト事情であった。能天気で楽しそうに思えるかもしれないが、アルバイトを入れすぎて過労で寝込んだこともあった。そして、実は卒業時が大変だった。オイルショックで企業が採用を控えたのである。特にデザイン系は最悪で、多くの広告代理店や企業が募集を取りやめてしまった。そこから、 私の冗談抜きのスラップスティックな人生が始まったのである。
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今日はここまで。次回は、「ピーター・キャット」のアルバイト事情。突然叩き起こされて・・