『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

ある大雪の日の春樹さん一時行方不明事件

「ピーター・キャット」で冬にリクエストが多かったアルバムで記憶にあるのは、デューク・ジョーダンの「フライト・トゥー・デンマーク」。真っ白な雪景色の森の小径にたたずむデューク・ジョーダンのジャケットが印象的。特にA面最初の「危険な関係のブルース:No Problem」は、忘れられないメロディーライン。雪景色のジャケットと共に、心を静めてくれる一曲だった。デンマークは行ったことがないが、ノルウェーの夏は知っている。夏至の頃は白夜で、夜中の2時頃が夜明けで、夜の10時頃が日没。反対に冬至の頃は、午前10時が夜明けで、午後2時には日没となる。北欧の冬は厳しい。しかし、彼らはそれを楽しむ術を知っている。

危険な関係のブルース:No Problem」 本来は、1960年ロジェパディム監督の映画「危険な関係」のサウンドトラック。演奏はアートブレイキー・ジャズ・メッセンジャーズで、危険な香りがする演奏である。デューク・ジョーダンのアレンジは、危険な関係が水面下に潜った感じか。泡沫(うたかた)の平穏。まるで、晩発性障害が爆発的に出現する前の、現在の福島や首都圏のようだ。チェルノブイリで5年間医療に携わった菅谷昭松本市市長が言う様に、海外から日本は放射能汚染された被曝国と見られている。それが事実。砂の中に頭を突っ込んで敵がいない様に思い込むダチョウ症候群に陥ってはいけない。
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 70年代の国分寺・国立辺りの冬の気温は現在より低く、最低気温がマイナス7度近くになることもあった。日中の平均も2度ぐらい。真夏の最高気温は34 度とかもあったが、最低気温が20度ぐらいと低く、熱帯夜は少なかった。それはそうだ。原発がまだ三基しかなかったのだから。原発は、発電量の二倍の熱量を温排水として海に垂れ流す非効率で環境破壊の発電。実は温暖化の原因。ある方が計算をしてくれた。「国内総発電出力、約10基はおシャカだが、50基稼働で5000万KWと概算、排熱はその出力の倍1億KW、1基あたり、70tの海水を7℃上昇、50基、毎秒3500tの海水を7℃上昇させる。原油1万トン積みのタンカーならば、3秒で満タン。0度の海水を1万トン分いい湯加?にするならば、18秒で1万トン分の海水が42℃の適温に!」ということだ。村上春樹さんが、カタルーニャ賞受賞スピーチで 述べた様に、原発=核は効率のよい発電システムであると国民を騙し、たかがお湯を沸かすために最も危険な核を使うという愚かな道を政府、官僚、財界は選んだ。そして、福島第一原発の取り返しのつかない大事故。我々はもう永久的に、放射能で汚れていない美しい地球に住むことはできないのだ。
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 その原発がまだ三基しかなかった74年の冬のことだった。明けて75年かもしれないが、東京に大雪が降ったことがある。その日、私は昼の当番で、カウン ター内でサンドウィッチのフィリングの仕込みをしていた。レジは春樹さんだった。国分寺駅南口からピーター・キャットまでの丸山通りは、結構な坂道なので積雪があると、粉塵公害の原因となったスパイクタイヤかチェーンなしでは走れない。スタッドレス・タイヤなどなかった頃だ。アパートから店に向かう時も、 車はほとんど通らなかった。時々金属チェーンをつけた車が、チャリチャリと音をたてて通り過ぎる程度で、人通りも少なかった。
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 サーモンサンドの仕込みをしていて、胡瓜が足りなくなった。春樹さんに向かいの八百屋まで買いに行ってもらうことになった。たぶんボタンダウンのワイシャツの上にザックリしたセーターを着て、スリムのコットンパンツ、バスケットシューズを履いた春樹さんが、鉄のドアを開けて階段を駆け上がって行った。私は、たぶんベルボトムのジーンズに、 ハイヒールブーツを履いて、タートルネックのセーターを腕まくりしてエプロン姿で仕込みをしていたと思う。玉葱のスライスやら、ゆで卵を作ったり、珈琲を入れたりと忙しく働いていた。開店前なので、もちろんまだ客はいない。雪は降り止んでいたが、結構積もったし大学も冬休みに入っていたので、客足は鈍いと予想できた。
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 そんなこんなで仕込みの作業をしていたのだが、胡瓜を買いに行った春樹さんが、いつまで経っても戻って来ない。それでも、暇だから八百屋の親爺と話をしているのだろうと思った。しかし、待っても待っても帰って来ない。ひょっとして、通りがかりの雪女に誘惑されて逃避行。いやいや、それはないだろう。もしや雪の道路を横断する時に車に撥ねられたかと、一瞬嫌な想像が駆け巡った。地下で鉄の扉だから救急車がサイレンを鳴らしても聞こえない。なにかあったかと、見に行くことにした。そんなことは、今まで一度もなかったから。
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 階段を上り一階の通路に出ると表の道路が見えてくる。通路の半ばまで行くと、不思議な光景が見えた。道路の向こうに前掛けをした八百屋の親爺がいるのだが、引きつった笑みで雪玉を作り、こちらに向かって必死に投げているのだ。しかも、こちらからはその数倍の雪玉が八百屋の親爺に向かって飛んで行く。歩道に出て左を見ると、なんということでしょう。
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 春樹さんを初め、一階の寺珈屋のマスターと従業員が、道路を挟んで八百屋の親爺と雪合戦をしているではありませんか。4対1。どうしてそういう状況に なったのかは分からないが、余りに理不尽。そこで私も寺珈屋&ピーター・キャット・チームに参戦した。たったひとりの八百屋の親爺には雨霰と雪玉が投げられた。親爺はといえば、半狂乱状態で投げ返して来るが、そこは多勢に無勢。惨めなものであった。稀に車が通ると休戦になった。チェーンをつけてジャリジャリ音をたててバスも通った。通行人もいないので、誰に迷惑をかけるということもなかったが、結局、馬鹿馬鹿しくなって笑いが止まらず、つまり飽きたので止めた。
 春樹さんは、胡瓜は買ってあった。どうせ客も来ないだろうと、ゆっくりと仕込みを再会した。
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 寺珈屋とピーター・キャットの従業員とは、仲がよかった。確か両方でバイトした者もいたはず。寺珈屋のバイト連中で映画のエキストラのアルバイトをしたこともあった。春樹さんは一人っ子のためか、皆を誘ってハイキングに行くとかはなかったが、定食の「あかぎ」やレコードショップなどには、一緒に行ったことがある。兄弟や同級生が多い団塊の世代にありがちな群れたがるというのが嫌いな人だったというのも、その後に生まれた三無主義世代の我々と、なんとなく馬が合った理由かも知れない。
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 春樹さんは、色々なことを話してくれたが、学生運動についても、必ずしも全面的に肯定はしなかった。ある人が「あの頃は純粋だった。」と言ったが、店が 終わった後で二人で話した時に、純粋なんて嘘だよ。オルグと称して女の子を軟派したり、資本論なんかロクに読んじゃいない。そんな連中がほとんどだったと言っていた。孫崎 享さんの『戦後史の正体』 (導入部 )を読むと、学生運動自体がアメリカに利用されていたということが分かる。団塊の世代はやたら群れたがるが、そういうところも春樹さんは違和感を感じていたようだ。結局、その後、その世代はCIAの出先機関の大手広告代理店により「ニュー・ファミリー」というネーミングをされ、大量消費社会のメインター ゲットになっていったのである。
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 学生運動といえば、そのずっと後に、東大法学部卒、東大駒場際の創設に初代委員長として携わり、日本航空労組委員長をした故小倉寛太郎さんと仕事をしたことがある。山崎豊子著 小説『沈まぬ太陽』の主人公の原型となった人だ。渡辺謙主演で映画にもなった。私が関わったのは、氏が創設した東アフリカの自然と人を愛する会「サバン ナ・クラブ」の書籍『サバンナの風』の編集アートディレクションとデザインをしたことがきっかけだった。村上春樹さんと共に私に大きな影響を与えてくれた人だ。
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 ナイロビ左遷の憂き目にあった小倉さんだが、捨てる神あれば拾う神あり。アフリカの水は氏にピッタリと合ったようだ。もし、アフリカに出会わなければ氏の人生は、冷徹な労働運動活動家としてだけの、実に味気ないものになっていたに相違ない。「アフリカの水を飲んだものは必ずアフリカに帰る」という言葉があるように、氏もまたその幸せなひとりだったと私は思う。
 仕事が一段落すると、小倉さんとはよく雑談をした。アフリカや私が放浪したアマゾンの話、自然保護の話、ハンティングを銃からカメラに持ち替えた話、 アフリカの動物はほとんど食べたという話、アフリカを撮る写真家は多いのに、なぜアマゾンを撮る写真家は少ないのかという話、アフリカンに嫁いだ日本女性の話、アフリカを訪れた日本人観光客がサバンナでひとり迷い、翌朝半狂乱で発見された話など話題は尽きなかった。今でも人なつっこい小倉さんの笑顔と、ア フリカを語るときの情熱的な眼差しは忘れることができない。
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 70年代のアフリカの話だが、小倉さん曰く「田舎の娘がナイロビのクラブにほとんど裸で出勤してくるんですよ。そして服を着て舞台に出る。踊りながらだんだん服を脱いで裸になる。家に帰る時は、またほとんど裸になって帰るんです。」と。急速な近代化を迎えたアフリカのちょっと哀しい笑い話もしてくれた。 「ナイロビに住んでいても野生動物を見たことがない人もいるんです。実際、来日して上野動物園で始めて実物のライオンを見たというアフリカンもいるんですよ。」と。
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『サバンナの風』の氏の文章の一節に、私が好きな言葉として、こういう一文がある。
「ここ東アフリカの大地に立つと、夜空を仰いでは天文学者になればよかったなあと思い、大地の亀裂、大地溝帯の不思議さを見て、ああ地理学者でもよかったなあと思う。原野を走る動物を見て、そうだ、動物学者という手もあった。目を落として足元の花を見て、植物学者でもよかった…と。こんな風に思わせるの が、東アフリカの自然なのです。」と。アフリカを通じて、「自然の中の人類の位置を見直す。」ということを訴え続けた方だった。しかし、それは日本の自然でもいえることだと私は思う。放射能で失われた福島や東北、関東の貴重な自然。権威と金に負けた原子力村の御用学者や政治家、官僚、財界人は、間違いなく地獄に堕ちるであろう。金の亡者になり、完全に生物である人間としてのプライオリティーを失している。
★小倉寛太郎さん東大での講演「私の歩んできた道駒場からナイロビまで~

『沈まぬ太陽』のモデル小倉寛太郎さんの思い出『サバンナの風』(妻女山里山通信) 表紙や巻頭グラビアの写真を提供してくださった岩合光昭さんとのエピソードも
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 2010年のノーベル物理学賞受賞者の小林誠さんの神戸大学入学式での講演が秀逸だった。「深い専門知識と広い視野の両立が課題」、「未知の領域の解決 の糸口は思いがけないと ころにある」、「習った知識はすぐに陳腐化する。知識の背後にあるものの考え方を身に付けてほしい。体系的な理解ができれば次に起こる事象や取るべき対応が判断できる」等々。
「考え方は一人一人違っていていい。学ぶとはどういうことか、自分で考えて学生生活を充実させてほしい」とも。何をどう学ぶかは自分で考えないといけないのが本来の大学である。高校までの様に教えてもらいに行くところではない。多くの学生が、ここの所を勘違いしている。そして、専門馬鹿ではいけない。まず ジェネラリストであれと、かのボードリヤールも言っていた。
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「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉があるが、これにも巧妙なレトリックがあって、気を付けないといけない。歴史というのは英雄史観や 階級史観が入り込みやすく、扇情的でセンチメンタルで、容易く人を魅了する非常に偏った一面的なものの見方に収斂してしまう危険性がある。小林誠さんが述べておられる「深い専門知識と広い視野の両立」、「糸口は思いがけないところに」、「体系的な理解」が重要なのは、そういう硬直した袋小路に入り込まないため、柔軟で広い思考力をつけろということなのだろう。また、ノーベル賞をとる功績は、失敗から得られたものが多いということも特筆すべき ことだ。失敗は成功の元。若者よ、チャレンジ精神を忘れずに。
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 今日はここまで。次回は、『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』
もうひとつのブログ「モリモリキッズ」では、「借りて来た猫」掲載中。笑える話です。

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