『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

ももクロでもハチクロでもないが、私の美大生時代はスラップスティック。まだベトナム戦争中、基地もあった

ハチミツとクローバー』 というアニメとドラマがある。通称『ハチクロ』という。なんでも武蔵野美術大学がモデルらしい。評判になったので、立ち読みしたり、ドラマも少しは観たことがある。映画の予告も結構流れていたので一応知っている。ちゃんと観たらしい友人は、あんなもんじゃなかったよな、と言っていたが、正直どんなものなのか分からない。ただ、出てから10年位してからだったか、ある時、大学関係者に聞いたら、もう今は普通 の大学生と同じだと言われた。君たちの様な、変わり者はもういないと。変わり者かい!? ちなみに私は上川隆也ではないが、ももクロでなく、℃-ute一押しである。異論は認める。ただし、私は愚民化政策の一環としてのアイドルの存在を否定する。彼女達をアイドルではなく高レベルのダンスボーカルグループと見ている。
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 いつの時代にも変わり者はいるだろう。確かに当時は地方に美大や美術系の学部が少なかったため、学生も全国から来ていたし、なにより浪人が多かった。2浪3浪は当たり前。中にはお父さんといわれていた人もいた。たぶん変わり者が多かったのもそのためだろう。ファッションも凄いのがいた。学生達の親も戦争 経験者で、エキセントリックな経験をした人達も多かったはず。今の様に、ほとんどが中流階層の普通のサラリーマンや公務員の家庭出身では、必ずしもなかっ た。機能不全家族に育った者も少なからずいた。戦争は人命や街を破壊するだけではない。人の心を壊す。愛を知らずに育った人間はテロリストにもなる。テロリストの武器は銃や爆弾とは限らない。学問や金権や権力だったりする。共通点は、それにより人を殺めてもなんとも思わないことである。こういう人間が現在 日本の中枢を握っている。
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 掲載写真を見ると、今とそれほど変わらない様にも見える。この頃に、カジュアル・ファッションのベースができたからだろう。VAN、JUN、三峯にジー ンズショップ。そしてメンズビギなどのDCブランドもでき始めた頃である。「ピーター・キャット」の店内も、国分寺の街も、こんな学生達で溢れていた。春 樹さんは、初めの頃は完全なアイビーファッションだったが、私たちの影響か、放出品のコートを着たりする様にもなっていった。バギーパンツを着たり、パー マをかけたりはしなかたけれど。陽子さんは、オリーブみたいな人で、夏は広いつばのついた帽子をかぶっていて、遅れて来た高原の文学少女という感じだっ た。VANの石津健介さんは、私がいた事務所に遊びにいらしたが、いつもばっちりアイビーで決めていた。私はVANのコーデュロイ・スーツが好きで着てい たが、徐々にビームスやL.L.ビーンなどに変わって行った。スーツは、ヨージヤマモトが今も一番のお気に入りである。着ることはまずないが。普段はアウトドア・ファッション・オンリーである。
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 気づいたかもしれないが、女装のカットがある。夏休みにみんなで遊びに行って、女の子達に無理矢理メイクされ女装させられたものだ。だからといってその後、女装趣味にはまることはなかった。私の高校の文化祭では、女装して街を練り歩くという恒例行事があった。こういう祭りは日本全国、いや世界にある。心理学、文化人類学民俗学、いずれかで見るかによって、解釈は異なるのだろうが、昔の方が性的な感受性や自由度は高かったのかもしれない。特に「江戸の性」というのは、かの黒船の連中も仰天するほど奔放なものだったらし い。日本では全く放映されないが、海外では非常に有名な川崎の「かなまら祭」を見ると、本来日本人はもっと大らかで自由だったと分かる。性行為は自由で平等なもの。身分や地位、収入などは一切関係ないものだった。
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 美大や芸大といっても、一般教養や通常講義は、普通の大学と同じだが、実技や実習課題となると、全く特殊になって来る。学科によって全く異なるが、アトリエや工房、工場やスタジオになると思ってもらえばいい。学内には、白衣や、当時流行っていたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの影響か、白のつなぎを着 た学生が闊歩していた。たいてい染めるか、染めなくても絵の具や染料や粘土で鮮やかに汚れていたが。当然女子もそうだ。小奇麗な恰好なんかしていられない わけである。実習によっては、溶接や鋳造など非常に危険なものもある。アセトンなどの危険な有機溶剤も使う。今なら電磁波対策も必要だろう。
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 絵の具も、今は禁止されたものも多いが劇物がある。昔は普通に猛毒のカドミウムが使われていた。現在、世界一優れた透明水彩絵の具は「マッチカラー」 である。異論は認めない。不透明水彩は、戦後、日本のメーカーが作り出した粗悪品である。「マッチカラー」を知らない美大生芸大生がいたら、私は「ア ホ!」の烙印を押す。教授だったら首にする。工場見学もしたし、創業者(故人)に もお会いして話を聞いた。その信じられないほど高い技術と哲学は、賞賛に値する。信州の姥捨山の麓にある素晴しい企業である。色の三原色混合を、ほぼ完全 に再現できる絵の具であるといえば、絵描きならどれほど凄い絵の具か分かるだろう。混ぜてもヴァルール(色価)が狂わないのだ。しかも、環境に優しく安価なのだ。幼児からプロまで使える素晴しい絵の具なのだ。
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 私は工芸工業デザインのテキスタイルを専攻していた。物作りとともにグラフィック関係にも興味があったということもある。だいたい美大は女子が多いのだ が、テキスタイルはほとんどが女子であった。学部と短大を合わせると、120人ぐらいいたのだろうか。男は、教授と助手を入れても10人位だったと思う。 特に短大はほとんどが女子で、高校出たてのためキャピキャピギャルであった。なんていうか、いつも子猫の群れの中にキャットフードをぶちまけた様な有様だったといえば分かってもらえるだろうか。ニャゴニャゴ、ニャンニャン。そりゃあ楽しかった。みんないい子だった。吉祥寺のサンロードで彼女とデートしていたら、短大の連中に見つかって取り囲まれてえらい想いをしたこともあった。でも、みんないい子だった。
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 課題の制作になると徹夜になることもあった。共同作業も多く、相当体力を使う。そんな時に、みんなで行くラーメン屋があった。朝鮮大学の前の角に、たぶ ん在日の人だろう、がやっている店があった。ここのラーメンは野菜もたっぷりで旨かったが、生ニンニク小さじ一杯が入っているのだ。これを食べるときは、 必ずみんなで食べに行くという工房の決まり事があった。そうでないととても絶えられないほど臭いのだ。それを食べて、可愛い女の子達も野郎達も、徹夜の作業を乗り切ったものだ。もちろん客の半分は、朝鮮大学の学生だ。美大生と朝鮮大学生の組み合わせはシュールだった。その店も今はない。
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 そんな徹夜作業になると、当然帰りの電車もバスもない。しかし、当時の美大生は自家用車通学の者が結構いた。大学の前が広い空き地で、そこが学生達の駐 車場だった。所謂いいとこのお嬢さんも多く、ワーゲンやいすゞベレット、ケンメリなんかで通学している女子もいた。友人は中古のブルーバードやコロナなどに乗っていた。学生が車に乗り始めた最初の世代かもしれない。大学の出入りも、今の様にチェックがきつくなかったので、棟方志功とか、有名人の講演や講義には他の大学の学生も紛れ込んで来ることもあった。所謂偽学生というやつだ。私の友人などは、日芸なのに遊びに来て、体育の授業を一緒に受けて帰って行ったことがある。確か卓球をやった(笑)。
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 当時の武蔵美には、ちょっとお洒落な展望のいい二階にある鷹の台ホールと、工房の北の端にあるバラックの食堂があった。正式名称は知らない。鷹の台ホールは、白身魚のフライタルタルソースがけなどという、田舎から出て来た者には、ナニそれ!?メニューもあったが、食堂はコロッケうどんだのカレーだのと庶民的だった。しかし、これがクノーデルかいという様な、怪しげなスイス料理もあって、なかなか捨て置けないのであった。ある時、あまりにコロッケが不味いので、だれかが学内にいる野良犬にあげたら食べなかったというので、犬跨ぎコロッケと命名されたことがある。まあ余り物を二度揚げでもしたのだろう。食堂にはみっちゃんという豪快な名物おばさんがいて仕切っていたが、よく10円玉をカレーの中に落とすので女子には評判がいまいちだった。
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 学部のコンパやダンパは、鷹の台ホールでやった。当時の学生は、本当によく飲んだ。飲むとテーブルに上がってかならず「よかちん音頭」を踊って歌う男が いた。工デの名物だった。ダンパは、女の子の晴れ舞台だった。70年代はディスコの盛んな頃だったからね。盆踊り大会では、工房で「ナイヤガラ音頭」 を振り付けて踊った。女子の浴衣がなかなか色っぽかった。普段は汚い作業着しか見ていないから新鮮だった。恋も生まれたことだろう。武蔵美の学園祭は芸術祭というのだが、これがもの凄かった。今は彫刻科がやっているらしいが、当時は実専が珍子神輿や萬子神輿をやっていたと記憶する。前述の「かなまら祭」と 同じ五穀豊穣子孫繁栄の祭だ。信州の戸倉上山田温泉にも、芸者衆が男根の神輿をかつぐ有名な祭りがある。村にとって、少子化は村の滅亡を意味する。感染症 も多く、乳幼児の死亡も多かった。信州には、生坂村の男石(陽石)と女石(陰石)の様な、豊穣と多産を願う石塔も多い。
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 ギリヤーク尼ケ崎さんの舞踏も素晴しかった。「念仏じょんがら」が有名だが、東日本大震災追悼「祈りの踊り」もぜひ見ていただきたい。タレントでも芸能人でもなく、真の大道芸人である。彼の舞踏に表現意欲をかき立てられた学生も少なくなかっただろう。
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 学園祭には、酒はつきものだが、最近はアルコール禁止の大学もあるらしい。一気飲みなどという馬鹿げたことが流行ったからか。当時の武蔵美は、中庭に飲屋街を作ってしまうんだ。まあ、建築設計や大工仕事はお手の物とはいえ一般の大学の人は驚愕する。看板の絵やデザインも素晴しい。エロ可愛い客引きの女の子もいるしね。暴走族が来たり、他の大学のセクトが襲いに来るという噂が流れたり、草の臭いがするテントがあったり。もうカオスであった。祭のある夜、国 分寺南口で友人と共通の友人の家に行くためにタクシーを拾ったら、「今日はなんかあったんですか。なんか酔っぱらいの若いカップルが次々来て、おじさんどこでもいいからホテル連れてってと女の子がいうんですよ。私みな同じホテルに連れて行きましたけど・・」と運転手が言った。翌朝の光景を想像して、友人と大爆笑したが、ホテル名は聞き忘れた。もちろん、肝心の作品展は見逃せない。美大に入る機会等そうないだろうから、芸祭はおすすめである。
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 大学へは、国分寺から西武バスの国分寺車庫から大学前まで乗るか、西武国分寺線に乗って鷹の台から歩くかだった。行きはバスを使うことが多かったが、帰りはバスの時間が合わないと、よく玉川上水沿いを歩いた。今もできるのかは知らないが、当時は玉川上水の中を歩くことができた。玉川上水は深さ5mほどえ ぐれていて、ある場所から下に下りて水際を歩くことができた。女の子と二人で歩くコースだった様に思う。今も歩けるのだろうか。国立に引っ越してからは、 アロートレーディングのコースターブレーキの自転車通学だった。玉川上水の朝鮮大学沿いの道を走ると、フェンスの中のドーベルマンが、ずっと狂った様に吠えながら後を追い掛けてくるのが日課だった。学内では、大きな旗を持った軍服の学生が行進の練習をしていた。美大とは全く違う異質な世界だった。
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 大学から帰ると夕飯を「あかぎ」か「コタン」辺りで食べて「ピーター・キャット」のアルバイトへ。午前中だけ授業の時は、午後にアルバイトを入れ、夕方 まで店をやった。春樹さんと二人だったり、アルバイトの女性と二人だったり。当時は、まだ立川基地があった。「ピーター・キャット」にも米軍の若い兵士が 来たことが何度もあった。ある客の少ない昼間、バイトの女の子と二人でやっていた時だろうか。若い黒人が来た。珈琲を頼むと、しばらくしてサラヴォーンの あるアルバムをリクエストした。カウンター内で作業をしながら、ふと彼を見ると涙ぐんでいた。かあちゃんを思い出したのかな、と思った。ベトナム戦争のサ イゴン陥落が、翌75年の4月だから、まだ真っ最中だった。
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 立川基地があったため、夜の街をMP(ミリタリー・ポリス)のパトカーがけたたましくサイレンを鳴らして走っていくことも度々あった。たいてい米軍兵士 が事件を起こしたためだった。福生だったか立川だったか忘れたが、輸送機から星条旗に包まれた棺がいくつも運び出されるのを見たこともあった。当時の多摩 は、沖縄と変わらなかった。全面返還されたのは、1977年である。しかし、横田基地はまだある。首都に外国の軍事基地がある国は、そうない。現在も長野市の上空は、東京から続く米軍の管制下にあり、米軍の許可がないと航空機は飛べない。国連では、制空権のない国は植民地と規定している。つまり、事実上日本は未だ米の植民地である。
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 友人が、国立と立川の間にある米軍ハウスを借りて住んでいた。3LDKの結構広い平屋で、音大の妹と同居していた。ベトナム戦争終結が近づくと、多く の在日米軍が帰国したため、日本人に貸し出されたのだ。彼は内装を黒く塗り、広いリビングには近所の潰れたボーリング場からL字型の大きな黒いソファをもらって来て置いた。そうなると、もう皆の溜り場である。工房の女の子達と雑魚寝して、翌朝湘南の海に向けて車を飛ばすなんてこともよくあった。彼の友人は福生横田基地近くの米軍ハウスに住んでいた。街には英語表記の標識や看板が溢れ、米軍の放出品の店や、米軍相手の土産物屋があった。夜、ラジオから流れてくるのは、VOA(the Voice of America)だった。まさに『限りなく透明に近いブルー』や、『スローなブギにしてくれ』の世界そのままだった。基地の横にあった「ピザ&イタリアンレストラン ニコラ」には、何度か行った覚えがある。

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 ベトナム戦争終結で、それまで東南アジアに向けられていたアメリカの視線が日本を向く。なんだよ、俺等が戦争している間に戦争特需で豊かになっているじゃないかと。三つ前の「70年代、雑誌が作ったアメリカブーム。みんなアメリカが好きだった・・わけではない」で書いた様に、雑誌、テレビ、映画などを使って、アメリカブームを作り上げて行った。そして、JAL123便事件、急所を掴まれた中曽根首相によるプラザ合意。冷戦後米国の最大の脅威は日本だっ た。バブルと、その崩壊から失われた20年へ。対米隷属の小泉劇場による日本経済の崩壊。それは、アメリカによる日本の富の収奪の歴史である。その総仕上げがTPP。売国奴の政治家と官僚と大手広告代理店、マスコミ、多国籍企業により、日本は壊滅への道を歩むだろう。いずれ世界では市民と多国籍企業の戦争 が勃発するだろう。夢を見る時代は終わった。
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 戦争は人命や街や自然を破壊するだけではない。人の心を壊す。愛を知らずに育った人間はテロリストにもなる。テロリストの武器は銃や爆弾とは限らない。 科学技術や経済力や政治力、思想や宗教だったりする。共通点は、それにより人を殺めてもなんとも思わないことである。こういう人間が現在日本の中枢を握っている。金のために福島の子供達を避難させない。金のために全国で放射能瓦礫を燃やす。金のために千年に一度の地震多発期に原発を再稼働する。福島第一原 発からは、今でも毎日2億4000万ベクレルの放射能が出続けている。まさに狂気の沙汰。悪魔の所業である。
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 完全版:村上春樹さんカタルーニャ賞受賞スピーチ「非現実的な夢想家として」
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 今日はここまで。次回は、また店に戻って、わが家の定番となった「ピーター・キャット」のサンドウィッチあれこれ。