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『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

「ピーター・キャット」を出て国分寺の街を歩けば・・その1

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「ピーター・キャット」を出て北口へ行こうとすると、東へ100mほど歩いてから、南町二丁目の交差点を左折し、国分寺街道を北へ。JR(当時は国鉄)の ガードをくぐって左手の石段を上り、ビジネス千成ホテルの脇の小路を抜けて大学通りへ出るしかない。その頃の国分寺駅には自由通路がなく、西武線に乗るた めには、入場券を買わなければならなかった。そうでなければ、都立殿ケ谷戸公園(当時は造成中)の坂道(丸山通り)を上って、花沢橋陸橋を渡るしかなかっ た。国分寺の街は、まるでどこかの国の様に南北に分断されていたのである。実に不便であった。だいたい昭和31年にできるまで。南口はなかったのだそう だ。
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 スーパーや飲屋街は、みな北口にあったので、駅の乗降客も北口の方がずっと多かった。甲高い声のアナウンスや、キャンディーズの歌が拡声器から流れていたと思う。その分、南口は閑散として静かだった。その静かで、ちょっと文化的な雰囲気が学生や、カウンターカルチャーの面々を惹き付けたのかもしれない。 ほぼ平らな北側に対して、南側は、野川沿いに成城まで続く国分寺崖線があるため坂が多く、街が立体的なのも魅力だった。
 南口には、「ピーター・キャット」の上に喫茶店の「寺珈屋」、道路を渡って国分寺マンションの手前に電気屋があったが、しばらくして「ほんやら洞」ができた。友部正人さんもよく来ていた。「ああ中央線よ空を飛んで あの娘の胸に突き刺され」はいい歌だったな。中央線が胸に突き刺さったら死んでしまうなんて、馬鹿な突っ込みを入れながらよく歌った。
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 そこを下って「寺珈屋」の脇から南北に道があり、線路で行き止まりになっているが、これが古い国分寺街道。昭和の初めまでは、ここに踏切があったそう だ。なんでも、大事故があって、現在のガードの道が作られたのだそうだ。行き止まりの手前には八百屋があって、サンドウィッチの胡瓜や玉葱はここへ買いに行った。この八百屋の親爺さんとは、ある冬の日に「春樹さん一時行方不明事件」というのがあって、私は酷く呆れたのだが、いずれ書こう。
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 そのガードへ向かって北側の歩道を歩くと、「定食あかぎ」がある。ここはよく行った。スタミナ焼き肉定食とかなかったかな。肉豆腐とか、イカのバター焼きとかミックスフライとか。もつ煮込みで一杯やった。いつも学生やサラリーマンで賑わっていた。村上夫妻と行った事もあるし、寒い夜寄ったら友人の彼女が ひとりで熱燗を飲んでいたなんてこともあった。酒は高清水だったね。当時は、いかにも職人気質で寡黙な先代と愛想のいい若旦那が忙しく働いていて、若旦那は時々「ピーター・キャット」にも来てくれた。ビルの建て替えで、2011年に閉店したらしい。本当にお疲れさまでした。
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 その向こうに味噌ラーメンの「コタン」があった。大蒜の強い野菜たっぷりの味噌ラーメンは、旨かった。私のアパートは、その向かいの二階だったが、ある 遅い朝、大騒ぎの声で飛び起きた。窓を開けると、なんと「コタン」が燃えているではないか。顔見知りの店主や周りの人が、消化器で消そうとするが火は強くなるばかりだ。野次馬もたくさん集まって来た。まもなく消防車が何台も来て放水を始めた頃には、火の手はもう二階まで回っていた。すぐに火は消えたが、ほぼ全焼だった。その後、確か店は改修されたと思った。すり鉢に入った味噌ラーメンと焼きそばの味は忘れられない。
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 そこを更に東へ進むと、交差点手前にカレーの「グルマン」があった。話は遡るが、高校3年の夏休みに友人と、下北沢のお茶の先生の家の離れの二階に下宿 して、目白のすいどーばた美術学院に通ったことがある。週末にお茶の教室があって、着物を着た奇麗なお姉さん達が大勢来た。学院から帰って廊下を歩くと、 お嬢さん達が一斉に横目で私たちを見るのが可笑しかった。「座っているだけで、お茶をやっているなと分かるまでに10年かかります。(キリッ!)」と、そ の先生は言っていたが、その夜にはシュミーズ一枚で横になり、パタパタと団扇で扇ぎながらテレビを見ていた。夕食を食べに市場を抜けて踏切を渡ると、今の 本多劇場の辺りは、当時飲屋街で、客引きのお姐さん達が、これ見よがしにスカートをめくってガーターベルトを直しながら、「僕たち寄っていかない?」などとからかった。
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 美術学院の近くに旨いカレー屋があった。ちょっとルーが焦げた感じで香ばしく、当時としては珍しくスパイシーなカレーだったが、それを思い出させる味を提供してくれたのが「グルマン」だった。上品な感じの夫婦がやっていて、店ではマスターが作った陶器も売っていた。私は好きでよく通った。村上夫妻もお気に入りだったと思う。店主から味の秘密を聞き出そうとしたが、詳しくは教えてくれなかった気がする。しかし、マンゴチャツネを使うのと、小麦粉を炭にしないように丁寧に焦がして行くというのを聞き出したような記憶があるのだが、ちょっと怪しい。無謀にも、アパートの狭い台所で限界までその味に近づけよう と、国立の紀ノ国屋で瓶入りのインドのカレー粉を買って、ココア入れたり、蜂蜜入れたり、カレー作りに励んだものだ。
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 南町二丁目の交差点を南に渡って東に渡る。ハケ(崖)沿いを緩く南に国分寺街道を下ると、左に「たらまんか」という喫茶店があった。ここの店主は、確か中南米などを放浪してきたバックパッカーだった。店内には、そういう民芸品がたくさん飾ってあった。放浪の話も聞いた記憶がある。いつも笑顔が素敵な優しい人で、後に私が南米アマゾンへ放浪するきっかけを作ってくれたひとりである。たらまんかという意味は全く知らなかったが、今回調べてコスタリカとパナマ の国境にある美しい山脈の名前だと分かった。世界遺産にもなっているそうだ。
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 その隣辺りに、間口が狭いスナックがあったのだが、名前が出て来ない。カウンターだけの狭い店を若い夫婦が切り盛りしていた。よくマリア・マルダーや キャロル・キングがかかっていた。マリア・マルダー75年の『Waitress In The Donut Shop/ドーナッツ・ショップのウェイトレス』 は、私の愛聴盤の一枚だ。「I'm A Woman」を聴くと当時の国分寺が蘇る。たまにお母さんも店を手伝っていたような記憶がある。心易い温かな店だった。確かこの界隈を、「夜更かし通り」なんて言っていた気がする。
 突然「ピンク・フラミンゴ」という店名が思い浮かんだ。合っているだろうか。
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 さらにその隣だろうか、27歳の奇麗なお姉さんがやっていたスナックがあったのだが、これも名前が思い出せない。マリンブルーのソファーがある薄暗い店内は、深海の様でとても落ち着いた。ここは、よくジャズメンと来た思い出がある。なぜ27歳ということだけよく覚えているかというと、それはジャニス・ ジョプリンが亡くなった年齢だからだ。上京して、渋谷の道玄坂にある「サブ」というロック喫茶に、研究所で知り合った友人が連れて行ってくれたが、彼女のアルバムは、そこでよくかかっていた。吉祥寺の「赤毛とソバカス」にもよく通った。あそこのアルテックA7のサウンドは強烈だった。もちろん隣のジャズ喫茶「OUTBACK」にもよく行った。「Funky」もね。あそこのパラゴンも聴きごたえがあった。
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 奇麗なお姉さんのスナックの向かいに、これも名前は忘れたが、アットホームなフレンチ・レストランがあった。女の子を連れてランチを食べに行ったものだ。70年代は、まだチェーン店が少なく、個人営業の個性的な店がたくさんあった。ただ個人の店は、その店主が引退すると、たいていその味はもう二度と食べられないという哀しさがある。
 南町二丁目の交差点を、東経大の方へ歩いて行った左には、「ピーナツハウス」 という店があった。大勢入れたので、近隣の学生のコンパによく使われた店だ。十年位前にまだあるよと言われたので、今回調べたらまだあった。今も、武蔵美東経大の学生に愛されているのだろう。その手前辺りにテントの「モンゴルなんとか」という飲み屋があった気がするのだが、思い出せない。
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 最後に、椎名誠の『さらば国分寺書店のおばば』で有名になった「国分寺書店」だが、おばばの記憶は全くない。当時高くて新刊本では買えなかった、みすず書房晶文社などの分厚いハードカバーを、よく買いに行った。注意されたこともなければ、特に会話した覚えもない。本は丁寧に扱ったし、結構高い本を買ったので、いい客だったとは思う。そこで買ったと思われる蔵書を挙げてみる。
『表象の美学』マルセル・デュシャン/牧神社、『視覚の革命』アラン・ジュフロワ/晶文社、『ホモ・ルーデンスホイジンガ/中央公論社、『好き? 好 き? 大好き?』R・D・レイン/みすず書房、『パリ フランス』ガートルード・スタイン/みすず書房、『記号の経済学批判』J・ボードリヤール/法政大学出版局

 ボードリヤールは来日して講演もしたが、最高学府出身の偉いマスコミの連中も、結局は彼の真意は理解できなかったというわけで、その後の日本 は、米隷属、大量消費社会に邁進したのだった。
 そして美大生のバイブルとも言われた『生きのびるためのデザイン』ヴィクター・パパネック/晶文社等々。確かスーザン・ソンタグの『反解釈 Against Interpretation』は、新刊本を買ったが、それ以外の二冊ぐらいは国分寺書店で買った気がする。その書店も、今はもうない。
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 写真は、75年当時の国分寺駅と街。野川の源流がある日立の研究所の森が見える。その左に、村上夫妻が最初に住んでいた、中央線と国分寺線の間にあった三角地帯も、花澤陸橋の向こうに薄らと見える。右にスーパー・オリンピックの看板も見える。この貴重な写真は、「しんちゃん日記」という鉄道のブログをされている方から拝借した。感謝!
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 さて、今日はここまで。次は脚を延ばして、村上夫妻が引っ越した多喜窪通り坂下にある「メゾンけやき」の近くや、ちょっと下世話な北口にも行ってみよう。