『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

1974年のピータ・キャット 村上春樹さんとの出合い

 私が最初に村上夫妻を見たのは、1974年の春のことだった。夫妻は国分寺駅の南口で、開店したばかりの「ピータ・キャット」のマッチを配っていた。 マッチの表には、ルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫とpeter-catのロゴが白字に墨で配置。書体は写研のタイプライター・フェ イスで、裏にはゴシック体でJAZZ50Sの文字。背には、KOKUBUNJIの文字と電話番号があった。
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 店は、そこから横断歩道を渡り、国分寺書店の前を通り過ぎて、殿ヶ谷戸庭園沿いの坂道を下りきった角にあるトミービルの地下にあった。私の部屋は、そこから更に数軒先のモルタルアパートの二階で、四畳半の和室に狭い台所と水洗トイレ。割と新しい建物だった。毎日、通学で前を通っていたから、なにか工事をしていたのは知っていた。なにができるんだろうと思っていたが、それが「ピータ・キャット」だったわけだ。

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 そのトミービルの一階には、入り口に馬車の大きな車輪が置いてある「寺珈屋」という喫茶店があり、武蔵美東経大の学生で賑わっていて私も時々立ち寄っていた。よく、当時の事を書いたブログや掲示板に「寺子屋」と書いてあるのが見かけられるが、間違い。椎名誠の『さらば国分寺書店のおばば』で有名になった、駅近くの国分寺書店はもうないが、私もよく通ったので、いつか書いてみたい。ちなみに、おばばの記憶は全くない。怒られた記憶もないし、会話した覚えもないが、好きな本屋だった。晶文社みすず書房の古書をよく買った。
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 マッチをもらってすぐに、私は友人達を誘って「ピータ・キャット」に通い始めた。初めの頃は、まだ客もそんなに多くはなくて、特に昼間はガラガラだった。 私たちは、たいていカウンターに座った。春樹さんや陽子さんと話す事もあった。店を始めた経緯や、置いてあるアルバムについて聞いた記憶がある。友達たくさん連れて来てよと言われて、たくさんマッチをもらって学内で配った。春樹さんもどこかで書いていたと思うが、経済的にはこの頃が一番きつかったのではないかと思う。
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 そんな我々の宣伝も少しは効いたのか、夏頃には徐々に客も増えてきた。私も他の友人を誘って、週に何度も訪れる様になっていた。時には忙しい二人に代わってレコードを架け替えたりもした。それは、三人の中で一番社交的なKがやっていたと思う。そんなある日、ちょうど夏休みに入った頃だったろうか、たまたまその日店に訪れた我々三人に春樹さんから話があった。「うちでバイトしない?」と。ちょうど夏休みには、集英社のnon・noでモデルルームを作るバ イトが入っていたのと帰省もあったので、すぐには始められなかったが、客は学生が多く、夏休みは比較的暇になるということもあり、9月からアルバイトをすることになった。
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 我々が始める前は、夫妻の友人が手伝っていた記憶がある。特に、春樹さんの友人でアフロヘアーのNさんは、自由人で面白い人だった。彼は後に店で働くことになるTさんと泉町坂下の「メゾンけやき」に住んでいた。そこは、夫妻が国分寺で最初に住んだ「三角地帯」で有名な?小さな一軒家から次に引っ越したマンションでもある。この引っ越しも我々が手伝ったので、いつか書こうと思う。他に、背の高い、料理の上手な人がいて、私は彼からブリ大根や、ブリで出汁を 取る雑煮の作り方を習った。                   ◆
 バイトを始めるにあたって、我々は夫妻からレクチャーを受けた。まず春樹さんから言われたことは、「僕をマスターって呼ばないで欲しいんだ」ということだった。嫌いなんだそうだ。マスターは固有名詞じゃないし、なんとなく分かる気がした。そんな訳で我々は「春樹さん」「陽子さん」と、それぞれの名前を呼ぶ事になった。我々はだいたい名字で呼ばれる事が多かったが、実はアルバイトには皆動物のあだ名がついていた。しかし、これが全く記憶にないんだな。自分がなんだったかも覚えていない。唯一、春樹さんがバニーガールのコスチュームが絶対に似合うとつけたピアニストの「うさこ」だけはよく覚えている。バイトの女の子の中で一番若かったし、彼女の事だけは皆ニックネームで呼んだから。
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 そして、珈琲の入れ方やサンドウィッチの仕込み方と作り方。当時珍しかったナチュラルチーズの切り方や水割りの作り方等々。それと、珈琲の皿を拭く時に 何枚も重ねて拭かず、必ず一枚一枚吹くことというのがあった。多くの喫茶店では重ねて拭いていた。上の「寺珈屋」もそうだったと思う。これにはちゃんとした理由がある。ガチャガチャと煩いんだ。音楽を聴きに来るジャズ喫茶には、確かに相応しくない。いい心遣いだなと思った。
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 更に注意事項二つ。コンビーフサンドの材料、リビーの缶を開ける時は要注意。この缶を開けた切り口で怪我をすると酷い事になると。経験からでしょう。アイスピックの使い方。大きい塊を壊すときはいいが、左手に小さい塊を持ってするときは、必ず下の方を持ち、尚かつ手の平でブロックすること。確かにこれは大事で、後にある行きつけのスナックで、女の子がアイスピックで手の平にグサッと穴をあけたのを見た事がある。あれは悲惨だった
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 店は最初は午後1時開店だった。後で12時に繰り上がったかもしれない。閉店は午前1時で、12時55分にいつも閉店の曲を流した。バイトが終わって、 帰るのが1時半か2時。終わってから春樹さんと掃除や片付けをしながら話す事も多かったし、時にはカウンターで飲みながら相談にのってもらったこともあった。年が近い事もあったし、彼もまだ学生だったので、マスターというより、我々のよき兄貴分という感じだった。10月に実家に送った手紙には、当時の17 日間の各日の実際のスケジュールと、使った金額が書かれている。そこには、バイトを初めて一ヶ月足らずで、昼間にバイトの女の子とふたりで店を任されている日もあるということが書かれていた。仕込みが結構大変だったことや、翌日の講義が早いと眠くて大変だったことを覚えている。春樹さんと陽子さんが、とってもいい人で、という様なことも書かれている。
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 今日はここまで。次回は、以前もうひとつのブログで書いた閉店時に必ず流したスタンリー・タレンタインとザ・スリーサウンズのアルバム『BLUE HOUER』から「SINCE I FELL FOR YOU」についてと、当時の国分寺の街について少し。その後は、店のメニューについて書いてみたいと思う。色々書く事があるし、まだ思い出せてないことも あるので、その1から少しずつ。店内レイアウトについては、記憶をたどっていずれイラストを描いてみたい。途中でカップル用の小さなテーブルが増えたのを覚えている人はいるだろうか。私が作ったのだが。それにまつわる悲惨な顛末もいずれ書くかもしれない。
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 その70年代当時の原発について振り返っておきたい。原発は、CIA(米中央情報局)機密文書から、「ポダム」というコードネームだったCIAのスパイで、読売新聞社社主、日本テレビ社長だった正力松太郎と後の首相中曽根康弘により導入された。
 70年代に目を移すと、田中元首相は自民党幹事長だった69年に、東電柏崎刈羽原発の建設誘致に動く。首相末期の74年6月には、電源三法を成立させた。原発をつくるごとに交付金が出てくる仕組みは、この時できた。札ビラで過疎地の人々の顔をひっぱたく作戦は、この時以来続く。ゼネコン、電力業界、官僚、学会が右肩上がりの需要予測を利用して原発を推進した。『列島改造』という国土開発に原発が組み込まれた時代だった。
 66年に東海発電所、70年に美浜発電所1号、71年に福島第一1号が営業を開始した。74年当時、原発は、まだたった三基のみだった。しかし、70年代の二度のオイルショックを経て、日本は原発一辺倒の道を突き進む事になる。リスク分散を考えれば、地熱発電など自然エネルギーや他の方法も進める余地はあったのだが、政府、官僚、財界は巨大利権を生む方法をとった。まさにその70年代にこそ、福島第一原発大事故の萌芽があったのだ。

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