『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

国分寺・国立70Sグラフィティ【村上春樹さんの国分寺ピーター・キャット】

 私は信州の高校を卒業して上京し、以後38年の東京暮らしをした。美大に入って最初に住み始めた街が国分寺。次に住んだ街が国立だった。あの頃、カウンターカルチャーのメッカとして、国分寺は若者の活気で溢れていた。そして、私は大学に通いながら、後に世界的な作家となる村上春樹さんのジャズ喫茶「ピー ター・キャット」でアルバイトをした。彼だけでなく、当時の国分寺や国立には、面白い人達がたくさん集まって来ていた。活気があって本当に面白い街だっ た。

 そんな70年代の国分寺と国立を、「ピーター・キャット」でのエピソードや、街や大学で起きたことなどを交えて書いていきたいと思う。そして、私は村上春樹さん夫妻のあるアドバイスから、数年後にアマゾンを中心とした南米放浪の一人旅に出ることになる。行き先が、当時流行りだったハワイやアメリカ西海岸ではなく、南米だったということが、ちょっと異色かもしれない。それには、いくつか理由があるのだが、いずれ。ただ、国分寺と国立から、アマゾン*やアンデスに続く道があったことも確かなのだ。そのヒントをくれたのが春樹さんだった。それについては、いずれ書く事もあるだろうと思う。
*フォト・エッセイ『ここから全てが始まった。<アマゾンひとり旅>AMAZON.JP
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 けれども、このブログを、ノスタルジーに浸るために書くつもりはない。外務省の国際情報局長だった孫崎 享さんの『戦後史の正体』(創元社)を読んだ人なら分かるだろうが、日本の戦後史は、アメリカからの圧倒的な圧力下にあった。対米隷属を強いるための戦略は、大手広告代理店、マスコミを通じて、テレビや雑誌等の編集内容にまで深く浸透し、庶民の流行やライフスタイルにまで大きく影響していたというわけだ。『戦後史の正体』*を読めば、戦後の文化や風俗、芸術や文学、音楽などの評論も、パラダイムの組み替えが必要だと感じないわけにはいかない。我々は踊っていたのではなく、踊らされていたのかもしれな い。戦後史をほとんど学校で教えないわけは、そこにあった。米隷属の真実を教えるわけにはいかなかったということだ。70年代というのは、学生運動がある程度沈静化して、アメリカ文化を若者に浸透させる新たな愚民化政策が始まった頃と私は捉えている。*
*『戦後史の正体』(創元社)100pほど無料で読める。
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 東京は150年足らずのその栄華の歴史を終えようとしている。それがいったいなんのことか分からない人は、情報弱者か安全バイアスにかかった人だろう。 文科省の発表にでさえ、千葉や埼玉、神奈川よりも面積がずっと小さい東京に、それらどの県よりも多くの放射性物質が降下したと書いてある。アメリカ政府が発表した、2011年3月から5月まで東京に降下した放射性物質がネットに公開されているが、そこには驚愕の核種の数字が並んでいる。それでも住み続ける人はいるだろう。しかし、もう健全に子育てができる都市ではない。東京は、いずれ華の都の看板を下ろす事になるだろう。首都直下型地震と富士山大噴火も、そう遠くない将来に起きるとされている。そういう意味では、このブログは東京に捧げるレクイエム(鎮魂歌)となるかもしれない。村上春樹さんカタルーニャ賞 受賞スピーチも、これを書こうというきっかけになった。
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 村上夫妻は、すでにマスコミでも取り上げられているが、その他、登場する人物は全てイニシャルで書くつもりだ。深いプライベートなことは書くつもりもないし、問われても答えられないが、当時を知っている人なら予測はつくと思う。私は結構筆まめだったようで、実家に送った手紙がたくさん残っている。そこには、「ピーター・キャット」のことや毎日の生活のことも詳しく書かれていて、薄れた記憶を呼び戻す材料となっている。それでも、勘違いや誤りがあると思う。当時を知っていて、間違いを発見した方は指摘していただけると有難い。また、情報や公開してもいい画像などがあったら提供していただけると嬉しい。
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 村上作品については、あまり書く事がないと思う。私はハルキストでもないし、『ノルウェイの森』を除けば、本当に初期の作品しか読んでいないからだ。理由は、1983年に南米を放浪してから、趣向が南米やアマゾンに向いてしまい、読むものも南米文学がほとんどになったから。それは春樹さんの作品自体とは 無関係。ただ、処女作の『風の歌を聴け』については、それを書くに至ったまでの経緯など、なんとなく当時の会話の中で思い当たるところもあるので、書くかもしれない。
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 ジャズについては、専門家ではないので評論はできないが、店でリクエストの多かったアルバムや面白いエピソードは結構あるので紹介できると思う。そして、私はグルメでもグルマンでもないただのちょっと度が過ぎた食いしん坊だが、田舎出の私に最初にお洒落で美味しいものを教えてくれたのが村上夫妻だった。店のメニューを初め、食べ物の話は尽きることがないだろう。
 国分寺や国立にあったその他の店についても書きたいと思うが、かなり記憶が曖昧なものもあるので、これはネットで勉強しなければと思っている。加えて、 当時の学生生活や他のアルバイトの話も書こうと思う。non・noでのバイトや、アイドルの卵のどさ回りの舞台作り等々。

 さて、前置きはこれぐらいにし て、次回から本題に入ろうと思う。題して「1974年のピータ・キャット。村上春樹さんとの出合い」。

 

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