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『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

「ピーター・キャット」でバイトをした武蔵美の三人組

 前々回の記事で書いた様に、そんなわけで私たち三人組(写真・74年初夏のキャンパスで)は、「ピーター・キャット」でアルバイトを始めた。実家に出した手紙の中に、17日間の実際のカレンダーを表記したものがあった。面白いのでスキャニングしてみた。一年の時は、まだ実技は基礎過程、プラス一般教養の講義だったため、結構時間にゆとりがあった。そのためアルバイト三昧の生活であったことが分かる。
 当時は、携帯電話はもちろんないし、学生がアパートに電話を入れるというのも稀だった、同級生では芦屋のお嬢様がひとり入れていたような記憶があるだけだ。債券が高かったし、学生の分際で持てるものではなかった。よって、実家への連絡は、ハガキか手紙ということになる。たいていは金の無心であった。友人等は、ただ一言「金送れ」と書いて出していた。私はもう少し筆まめだったので、破いたクロッキー帳などに、手紙を書いて親や地元に残った友人等に出していた。そんな中に、この実際の時間表があった。これは、書いた私も忘れていたものだ。
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 オレンジ色の部分がアルバイトで、夜の部分が「ピーター・キャット」。朝7時からの部分は、谷保にあった会場設営・イベント屋のバイトである。調布市の市民祭のアーケードを作ったり、テントや舞台設営。武蔵村山の体育館でデビューしたてのアイドルの会場設営。企業の運動会の準備や進行の手伝い。人数が足りないと女子社員のお姉さんと二人三脚したり(笑)。経験者は分かるだろうが、テント設営と舞台作りは本当に重労働だった。カレンダーに「このころ過労で倒れる寸前」(笑)とあるが、前週に重労働と課題がたっぷりあったためと思われる。使ったお金も書いてあるので、当時の物価が分かる。店の珈琲は、ジャ ズ喫茶なので少し高めで、昼が250円、夜が300円だった。
 

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「ピーター・キャット」のバイトは、午後7時から1時半か2時まで。カウンターの中をやっていたので、基本ずっと立ちっぱなし。疲れるけれど、常連さんとの会話は楽しかった。当時の手紙によると、バイト三人にもそれぞれファンができつつあるなんて書いてある。私には、有閑マダム(死語だ)とか女子中学生のファンがいるなんて書いてある。はあ? 店に中学生なんか来たか、としばらくフリーズして考えた……。思い出した。いた。マダムの可愛い娘さんだった。
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月刊『JAZZ』

 雑誌に広告を出したこともあって、結構遠方からもお客さんが来る様になった。74年の秋だったか『男子専科』というちょっとお洒落な雑誌 の「国分寺特集」 の取材を受けたことがあった。私も撮影されたが、どういう記事だったか覚えていないのが残念だ。75年5月の月刊『JAZZ』には、「どういうわけかカワ イイ女の子が多く、アットホームな感じで気楽にジャズを楽しめる。」と書かれたが、我々がキャンパスで大宣伝をしたせいで、武蔵美の女の子達が沢山訪れる様になっていた。学内コンパの二次会でもよく使われたと思う。津田塾の女子大生も結構来ていたと思う。農工大の学生が、今日は牛の膣に腕を入れて作業してきたんだと、その様子を克明に話してくれたこともあった。
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 デイトと書いてある部分は、多少照れもあったのだろうか、彼女とのデートなのだ。行き先が吉祥寺と渋谷となっているのは、映画を観に行ったのだろう。浪人時代から私は映画青年で、観まくった。お金がないのでもっぱら、二番館、三番館の二本立て専門で、ニューシネマの後は、イングマル・ベルイマンとか、タルコフスキーとか、グラウベル・ローシャとか、一般の人は余り観ない映画を観たものだった。映画の話はいずれ書こうと思う。ところで、デートの相手が誰だったのかが思い出せないので、これはペンディング(後送)にしておこう。たぶん、綾瀬はるか似で巨乳のK子さんだったと思うが……。
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 前の記事で書いた様に、オーディオセットを買うためにバイトに勤しんだというのもあるが、美大は画材に結構お金がかかる。それに、アルバイトはデザインのものもあったし、実社会を経験するという上でも貴重なものだったと思う。夏休みにやったnon・noのバイトというのは、集英社横のスタジオでA子さんのお部屋とかいうようなモデルルームを作るものだった。それは美大の工芸工業デザインですからお手の物。新米編集者とベテランスタイリストの指示に従って ちゃっちゃか作りました。と言いたいところだが、そうは簡単にいかないのが現場。スタイリストさんが迷った時には、こっちから提案もした。作業は毎日終電過ぎまで続いた。でも、神保町から国分寺までのタクシー代が出たんですよ。夕食も編集長だかが、有名な中華飯店に連れて行ってくれた。雑誌全盛の時代だったね。
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 実家への手紙には、バイトを始めて一ヶ月足らずで、もう昼間にバイトの女の子と(年上でしたが)ふたりで店を任されているということも書かれていた。確かに、昼間春樹さんとふたりや、バイトのお姉さんとふたりで店をやったことも思い出した。そうそう、冬のある日に春樹さんとふたりで店をやっていた時に、 彼が行方不明になって大騒動(私ひとりがそう思った)になったことがあった。これはいずれ書こう。本当に心配したし腹が立った。
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 バイト仲間の三人組は、私以外にKとY。三人の中で一番社交的で誰とも話し上手なKがリーダー的な感じ。カウンターの中でも如才なくお客さんと話をして、私はうらやましく思ったものだ。確か姉がいて末っ子だったYは、甘えん坊で時間にルーズ。でも憎めないキャラ。私といえば信州の山猿で、人一倍好奇心は強いけれど協調性はあまりなかったかもしれない。でも仕事はきっちりやる。というわけかどうかは知らないが、最初に私とKが昼の店を任されたような記憶がある。覚えているのは、開店前の仕込みが結構大変だったこと。これは、当時としては珍しかったサンドウィッチのメニューが、人気が出たということもあったのかもしれない。メニューに関しては、色々面白い事を思い出したので、いずれ少しずつ書いてみたい。
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 前回の記事で、1974年がどういう年だったか書き出してみたが、前年に第一次オイルショックがあったせいで、それまでのひたすら右肩上がりの高度経済成長に陰りが見えた年だったことが分かる。そして、1972年、米の頭ごなしに日中国交正常化を行い、74年、穀物メジャーの同意なしにブラジルのセラード開発を画策し、米の逆鱗に触れた田中首相がCIAの工作が成功して退陣。米の傀儡・三木内閣が誕生と、アメリカの対日工作が着々と進行していた時期でもあった。翌75年には、若者のバイブルとなったカタログ雑誌『ポパイ』の先駆けとなった、米のポチ読売新聞社の 『U.S.A.カタログ』が発刊される。アメリカ製品を買えよと、大新聞社がカタログを出したのだ。時代は、ウッドストック以降のヒッピーやフラワー・チルドレンのサブカルチャーカウンターカルチャーから、シティー・ボーイ&ガールの、大量消費社会へ移行しつつあった。
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 当時は、そんなことも知らない三無世代の三人組みである。三無世代とは、団塊の世代の後の失われた世代(ニュー・ロスト・ジェネレーション)ともいわれた世代。三無主義とは、「無気力・無関心・無責任」(後に「無感動・無作法」を加えて五無主義ともいわれた)で、しらけ世代ともいわれた。なんだか今の若者の起源? なんだかいつもつるんで、何かというと我々は〜という世代の挫折を見て、見事にしらけた世代であった。なんか違うくね?個の確立が必要じゃね?と思い始めた時代でもあった。もっとも上の世代は、ニューファミリーなどと呼ばれて、見事にマジョリティとして、マスマーケットのターゲットとして狙われていくのだが。1962年に米・スタンフォード大学社会学者、エベレット・M・ロジャース教授(Everett M. Rogers)が提唱したイノベータ理論の恰好のターゲットになったわけだ。電通B層などという概念も、元を正せばこの辺りだろう。
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 実は、このブログの企画は2010年の秋に立ち上げてサイトを確保した。そして、色々プランを立てていた時に、3.11は起きた。全てが吹き飛んだ。そして、再び書こうと思うまで二年ちょっとの月日が流れてしまった。3.11以降、日本の、いや世界の全てが変わったと私は思っている。古いパラダイムは完全に崩れた。そう思わず、過去の栄華にひたすらすがり続けている人達が沢山いる。数年後に訪れる厳しい現実に、それは必ず破綻する。
 予言めいた話になるが、2010年に私は、1983〜1984年にアマゾンを中心とした南米放浪記 AMAZON.JP『アマゾンひとり旅』の後書に『はじめに、そして最後に(ブラジルの友人達と、ふたりの息子に送る)』という文章を載せた。
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 最後に私は、「東京、太平洋沿岸は、いつかプレートが動く大地震に見舞われる宿命にある。それが、リスボンを襲った大地震により大海洋帝国葡萄牙(ポル トガル)の衰退に直結したように、日本の世界の晴れ舞台からの撤退に繋がるのか。或いは、中国の覇権主義や分裂の騒ぎに巻き込まれて大混乱になるのか。 21世紀は、試される日本になるだろう。」と書いた。実際は東北沖で起きたが、まさかこれほど近い日に未曾有の大災害が来るとは思わなかった。しかも人類史上最悪の事故が伴うとは思いもよらなかった。
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 そんな未来が来るとは、つゆにも思わなかった私だが、「ピーター・キャット」のバイトを通じて、あるいは友人達との語らいを通して、アングラ、カウンターカルチャーの雑誌等から、アメリカを違う視点から見てみたいなと思う様になっていた。ある時、悩みを村上夫妻に話していたら、「こんな狭い日本でウジ ウジしてないで、世界を歩いてきなよ」と言われたのだ。放浪ではないが、2年後の春休みに、アメリカではなくロンドンにステイした。実際に放浪の旅に出た のは、ずっと後だったが。行った先がアメリカでなく南米だったというところに、私なりの答えがあった。

AMAZON.JP 『アマゾンひとり旅』
はじめに、そして最後に(ブラジルの友人達と、ふたりの息子に送る)