『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

秋に似合うジャズ。ピーター・キャットでかかっていたあの名曲

 まったく想像を絶する世界に我々は住んでいるようだ。2014年8月26日、東電の記者会見によると、福島第一原発からは、毎日海へストロンチウム50億ベクレル、セシウム20億ベクレル、トリチウム10億ベクレルが漏れ出ているそうだ。大気中へは、毎日2.4億ベクレル。これとてとんでもない数値なのだが、海への汚染は桁違いに酷いということになる。東京湾の汚染も、今年が最大値になると言われている。なのにテレビでは、太平洋沿岸の魚介類を使ったグルメ番組が放映され、近所の異常に安い回転寿司のチェーン店は週末など満員である。愚民化政策の賜物だろう。多国籍企業と優生主義者の思惑通りに人類滅亡の瞬間が近づいているわけだ。彼らは欲の皮が突っ張った馬鹿共だから、そうなっても自分達だけは生き残れると考えているらしい。
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 粘菌が放射能に対してどれほどの耐性があるかは知らないが、細胞性粘菌の放射線による分化異常のしくみに関する研究などが行われているようだ。また、 タンザニア放射性物質を吸い取る細菌が発見されたり、中国で耐放射能性の真菌と放射菌が発見されたりしている。いずれにしても放射性元素を壊す事はできないので、遠い宇宙かとんでもなく深い地中に埋めるしかないのだが……。それでも再稼働だの原発は必要だの言う輩は、狂人指定でいいだろう。問題は、そういう輩が政治家や官僚や大企業の社長をしているということだ。我々は狂気の世界に住んでいると言っていいだろう。
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 原発事故は、ある意味日本の戦中戦後の社会病理が顕在化したカタストロフィー現象といえるかもしれない。そんなことを端的に表現された、大阪大学深尾葉子さんの呟きが秀逸と感じたので紹介する。
-----この世の中は、「まともな脳みそ」を持とうとする人は生きるのが本当に難しい。自らの「感覚」にフタをして、「利権」や「保身」をめざし「役割」を演じて生きることが有利であり、「仕事」であると錯覚されている。しかしそのような生き方こそが、人類を滅ぼす。原発問題はそれを極端に示している。-----自分はどうであるかと胸に手を当てて検証するべきだろう。
 また、ノーベル賞に最も近い経済学者と海外では評価の高い割に日本では、マスコミも経済学者も無視するために一般的にはほとんど知られていない東京大学名誉教授の宇沢弘文氏を紹介したい。この方も戦後60年余りの日本の問題点を鋭く分析している。
 なぜマスコミが無視するかというと、「日本は米国に搾取されている植民地である」と公然と主張しているからである。興味のある方は、名前で検索してみるといい。岩波書店などから著書も多数出版されている。東電や電事連から多額の広告費をもらい天下りを受け入れている堕落した大手マスコミが全く信用できない今、TwitterYoutube、海外メディアなどを利用しないと真実は得られなくなっている。情報リテラシーが求められているわけだが、逆に今ネットがなかったら、大本営発表と噂しか情報源はないわけで、それは本当に恐ろしい事だと思わずにはいられない。残念ながら宇沢弘文氏は、2014年9月18日に鬼籍に入られた。
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 1976年は福島第一原発浜岡原発が稼働し始めた年である。まさに日本が原発大国に邁進し始めた年でもあった。そんな1976年の秋のことである。それまで女の子のスカートはミニやマキシスカート、パンツはベルボトムやバギーだったのが、ヘビーデューティーやらトラッド回帰などの現象があり、学生のファッションも結構コンサーバティブになっていた。『ももクロでもハチクロでもないが、私の美大生時代はスラップスティック。まだベトナム戦争中、基地もあった』に掲載した写真は、1974年から1977年のものだが、女子はショートカットが多いね。時代の気分は、オイルショックを経て少し保守的になってきたのかもしれない。といいつつ、私はバリバリのフリージャズやヘビーメタルなんかも聴いていたわけなんだが……。Talking HeadsBlack Uhuruも聴いていた。つまり、気に入ったものはクラシックだろうとロックだろうとワールド・ミュージックだろうとなんでも聴いていたわけさ。
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 秋に似合うジャズアルバムとなると、そりゃもう『枯葉:Autumn Leaves』以外ないだろう。元はシャンソンの代表的な曲だが、ジャズのスタンダード・ナンバーでもある。ちょっと考えても、マイルス・デイビス、春樹さんイチ押しのスタン・ゲッツジョン・コルトレーンビル・エヴァンス。ボーカルでは、ナット・キングコールサラ・ヴォーン。挙げればきりがないほど名演奏がある。そんな中で、私が持っている『枯葉』の入ったアルバムから、少し変わったものを集めてみた。ジャズ・バイオリニストのステファン・グラッペリは、私の大のお気に入りで、ピーター・キャットでもよくかけた。中でも写真右端の『Stéphane Grappelli afternoon in Paris』は大好きでよく聴いた。

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 これは2年後73年のオスカー・ピーターソンとの共演だが、この枯葉も凄くいい。『Oscar Peterson & Stéphane Grappelli et al. - Autumn Leaves [1973, Paris]』

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 その左は、チェット・ベーカーの『She Was Too Good To Me』という少し哀しいタイトルのアルバム。A面の最初の曲が『枯葉』である。これもピーター・キャットには当然あったが、リクエストが絶えないアルバムのひとつだった。女性からのリクエストも多かった様に記憶している。印象派のスーラの点描画の様なジャケットだが、写真を加工したものの様だ。写真を一度刷版にして網点を拡大してずらして作ったのだろうか。今ならフォトショップで簡単にできるが。

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 その左は、珍しいジャズ・ハーモニカのトゥーツ・シールマンスの『枯葉』。こんな小さなハーモニカ一本で、こんな素敵なジャズが演奏できるんだねと、当時大感激した思い出がある。一度聴いたら、きっとあなたも虜になるはず。昔買ったブルースハープをトレッキングに持って行って、山頂がひとりだと吹いてみるのだが、だめなんだよね。しんみりし過ぎるんだよね(笑)。ボリビアで買ったケーナも2本あるんだが、ひとりで吹く「コンドルは飛んでいく」もしんみりし過ぎるんだ。かといって「花祭」をひとりで吹いて踊るのもなんだかね……。

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 通常はMJQと略される、その名も『The Modern Jazz Quartet』と名付けられた知る人ぞ知るフランスのBYG(BYG Actuel Records)から1951年に発売されたアルバム。輸入盤のオリジナル。side1の3曲めなんだが、『Autumn Leaves』ではなく、『Autumn Breeze』。当時、中古レコードショップで手に入れた。リンクは、同じアルバムかは不明だが、相当に古い録音であることは間違いないだろう。BYGは、知る人ぞ知る1967年に設立されたフランスのレコード・レーベルで、ドン・チェリーやサン・ラ等、フリージャズやアヴァンギャルドなジャズを出した。仏像がマーク?のLPはまだあったねと探すと、スラム・スチュアートとブルースの元祖女王のイダ・コックスのアルバムが出てきた。渋いなあ。MJQの『Autumn Leaves』は、ミルト・ジャクソンが、ヴァイヴを演奏せずに歌っている逸品。
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 最後、左端の一枚はクラシック・ピアノの巨匠、マルタ・アルゲリッチのモーリス・ラヴェルの演奏の名品。「夜のガスパール」は、秋にピッタリだと思う。無名の詩人アロイジュス・ベルトランの散文詩集の中から幻想的で怪奇性の強い3篇を選び組曲を作った。彼女の演奏は、繊細で神秘的というより、詩集の幻想的で怪奇性をひと際露わにする演奏のように思える。なにせ曲名が、それぞれ「水の精」「絞首台」「スカルボ(悪戯好きの妖精)」だから。録音は必ずしも良くはないが、私は好きだ。

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 秋は哀しい恋の季節のイメージもあるが、北半球では穀物や果実、木の実が実る豊穣の季節でもある。切々と歌い上げるラブソングも似合う。テナーサックスの重厚な響きは男性も好きだが、女性にも人気は高い。ベン・ウェブスターの『My One And Only Love』 を挙げておこう。

 ニューヨークのため息、ヘレン・メリルの『Autumn in New York』。

 春樹さんも訳しているニューヨークを舞台にしたトールマン・カポーティの『ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany’s)』。秋の夜長に、ホットウィスキーを飲みながら読むのもいいかもしれない。もちろんティファニーにレストランはないけれど。オードリー・ヘプバーン主演の映画では、朝帰りの彼女がティファニーのショーウィンドーの前で、パンをかじるシーンから始まった。デニッシュ・ペストリーとカフェオーレだろうか。BGMはムーンリバー。あんな知的で美しい女優は、もう出ないだろうとさえ思う。

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 前述した様に、ピーター・キャットでアルバイトをしていたからといってジャズしか聴かなかったわけではない。当時流行っていたハードロックや、その後のヘビーメタルも聴いたさ。友人のアパートや米軍ハウスに集まってフォークも弾いたしブルースセッションもした。1979年に江ノ島で開催された「ジャパン・ジャム79」へは男女の友人達を誘って行った思い出がある。売れ出したサザン・オールスターズが最初で、TKO、Firefall、Heartと続き、トリが春樹さんの小説にも登場するBeach Boys だったと思う。さすがに当時でももう懐メロだったけどね。当日は、横須賀に米軍の空母が入港していたらしく、若いヤンキーの田舎者(信州出身の私と同じ臭いがした)の兵隊や女の子がたくさん駆けつけた。米兵に肩車されたアメリカ人の女の子がブラジャーを放り投げたね。吸わなかったが草が回ってきたりもした。臭いと煙が蔓延していた。あんなコンサートは、もう二度とないだろう。
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 そして最近は、なんとヘビーメタルがJ-POPと融合してKAWAII METALとして世界を驚かせている。英国で行われたヘビーメタルの「Sonisphere Festival」で、7万人という大観衆の前で、日本の少女3人組と神バンドが大喝采を受けた。続いてアメリカやカナダ・モントルーの公演も大成功。レディ・ガガの要請で全米ツアーにも同行。秋の欧州単独ツアーも決定している。往年のヘビメタファンには、モッシュやサーフィン、ダイブなど懐かしいシーンも見られる。
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 海外では大人気だが、日本の大手代理店に牛耳られている日本のマスコミはなかなか伝えない。彼女達の歌は、心の広さを測るリトマス試験紙になっている。ザ・ビートルズも最初はボロクソに叩かれた。キッスもそうだった。脳が硬直した人々は、彼女達を受け入れず狭い籠の中に引き篭もっている。商業主義的だと批判する輩もいるが、資本主義社会に生きていて、あなたは全く個人で自立して生きているのかと問いたい。ザ・ビートルズも愚民化政策の一環として米政府に利用されたが、問題は受け取る我々の意識。権力は絶えずあらゆるものを愚民化政策の材料として利用するから。芸術や芸能は、民衆の自立の糧にだってなることを忘れてはいけない。要は、愚民として生きるか、覚醒するか、我々次第なのだ。
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 彼女たちの代表曲、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」は、小中高の音楽の授業で聴いて欲しいとさえ思う。彼女たちの歌とダンスのレベルの高さはもちろん、バックバンドの演奏も特筆もの。彼女達の音楽は、放射能で滅びていく日本から世界へのプレゼントだ。
[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達
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 政府は、「クール・ジャパン」などとほざいているが、それも大手広告代理店やマスコミや極一部の金権プロデューサーにばら撒かれ、アーティストや底辺を支える人達には全く届かない。税金の無駄遣い。そもそもクールや粋は、他人が評価する言葉で、自ら名乗るようなものではない。それこそ下衆の極み。そういう人間が日本のエスタブリッシュメントの正体である。日本の総予算に占める文化予算の割合は、たった0.12%で、フランスの7分の1以下。金額でも4分の1以下である。春樹さんがいうように、日本の政財界人、官僚は効率と既得権益の確保にしか興味が無い。伝統芸能さえまともに守ろうとしない文化果てる国である。もっとも、人類史上未曾有の福一の大事故があったというのに、国土の3分の1が確実に失われたというのに、食べて応援とか、帰還事業とか、復興とか、再稼働とか言って世界中から狂国とみなされている日本である。さあどうする。
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 これは、著作権満了のナショナル・ジオグラフィックから抜粋して私が作ったスライドショーである。1930年(昭和5年)頃は、古き良き日本がまだあった時代である。しかし、同時に軍国主義が台頭し、国際社会からの孤立を深めていった時代でもある。日本が道を踏み外し始めた時代と言ってもいいだろう。当時の人口は、6500万人ほどだった。もちろん放射性物質による汚染もなく、工業化もまだ一部で、海も川も山も本当に美しかった。BGMはGragebandで作ったオリジナルのピアノ曲。単に既存のメロディーをアッセンブリーしただけなのだが、誰のなんていう曲ですかなどと問い合わせがあってこそばゆい。

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 今日はここまで。リンクの動画は削除されることもあるので、その場合は曲名とミュージシャン名で検索してください。次は、「冬に似合うジャズアルバム。キャットの定盤(番)、ホットウィスキーと共に」

春に似合うアルバム。私の一推しはこれ。『April in Paris』

 70年代当時の東京の冬というのは結構寒くて、雪もよく降った。なにせ原発が三基しかなくて発電に回る二倍という膨大な量の温排水が殆ど無かったわけだから当たり前だ。ところが2014のこの冬は一基も稼働していないせいか、はたまた地球がNASAの言うように太陽活動の低下によってか、恐らくその二つの相乗効果だろうが、厳冬の上に歴史的な豪雪に見舞われた。いつまで経っても信州の里山には残雪があり、春は来るのだろうかと心配したが、3月下旬になって一気に春めいた。こうなると信州の春は気ぜわしく忙しい。梅、杏、桜、山桜、桃、林檎と一気に咲き抜けていく。信州の春は短い。
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 国分寺ピーター・キャットの春というのは、やはり学生が休みの3月よりも、新学期が始まる4月。続々と帰郷していた学生たちが戻り、店に活気が復活する。先輩に連れられた初々しい新入生も来るようになる。ジャズ喫茶というとジャズオタクの学生やサラリーマンばかりという印象だが、国分寺ピーター・キャットは、女性客も多かった。武蔵美や津田塾の女子大生もたくさん来てくれたし、下は中学生からOL、有閑マダムまで、女性客は少なくなかった。
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 印象に残るのは二年目の1975年の春かもしれない。東風が吹く桜の花びらが舞い散る玉川上水を歩いて大学に通ったものだ。デートで、井の頭公園や代々木公園にも行った記憶が蘇る。国立の大学通りの桜も見事だった。
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 私が所蔵するアルバムから、春にまつわる好きなアルバムと曲を集めてみた。秋に比べると意外に少ないのに驚いた。
April in Parisカウント・ベイシー・オーケストラ。春に似合うアルバム。私の一推しは、やはりこれ。パリの凱旋門をバックに、ご婦人に赤い花束を渡すベイシーがジャケット。愛溢れる名演奏。エンディングテーマは、One more time! Let’s try! One more ONCE! と3回繰り返されるが、ライブでは興に乗ると5回も繰り返したそうだ。
『merrill at MIDNIGHT』ヘレン・メリルの「SOFT AS SPRING」ニューヨークのため息と言われる彼女の繊細なハスキーボイスがたまらない。


『A DAY IN THE LIFE』ウェス・モンゴメリーの「WINDY」爽やかに吹き抜けていく春風のような心地良い演奏。70年代のショッピングセンターでよく流れていた記憶がある。


『O MUNDO MAR AVILHOSO』アントニオ・カルロス・ジョビンの「CHOVENDO NA ROSEIRA」薔薇に降る雨という少しせつない春の歌。あなたは誰のものでもない……と歌う。

www.youtube.comSONNY CLARK TRIO』ソニー・クラークの「I'LL REMENBER APRIL」必ず思い出すだろう煌めく陽光に包まれたあの4月。色々なジャズメンが演奏しているが、彼のブルーノート盤がやはり光る。

www.youtube.com『THE CONCERT IN CENTRAL PARK』サイモン・アンド・ガーファンクルの一枚目B面一曲目の「APRIL COME SHE WILL(4月になれば彼女は)」 ジャズナンバーではないのだけれど、大好きな所蔵盤の大好きな一曲。恋の訪れと、やがて来る別れを季節の移ろいに乗せて歌ったものだが、韻を踏んだ詞が物哀しくも美しい。1981年ニューヨーク、セントラルパークでの演奏が、30年後にYoutubeで観られるとは、誰が想像しただろうか。

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【信州の里山】五一山脈踏破 Goichi Mountain range in Nagano 『April in Paris』カウント・ベイシー・オーケストラのゴージャス且つダイナミックな演奏がBGM。坂城町の坂城神社から村上義清の葛尾城跡経由で五里ケ峯へ。 五一山脈を千曲市の一重山まで新緑と花の尾根を縦走したスライドショー。ベイシーサウンドは、なぜか信州の春の風景とよく合うような気がする。
*Yutubeでは、ハイビジョンでご覧いただけます

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 ほかにも春にまつわる名曲や名演奏はある。
Joe Pass - Joy Spring」ジャズギターというのは、春向きかもしれない。安心して聴ける演奏だ。もちろんクリフォード・ブラウンの「Joy Spring」も最高だけれども。


Spring Will Be a Little Late This Year - Ella Fitzgerald Jazz Collectionエラ・フィッツジェラルドの艶のある声がなんとも心地いい。
Chris Connor - Spring Is Here」クリス・コナーのハスキーな歌声が沁みる。
Bill Evans Trio - Spring Is Here」同じ曲だが、ビル・エヴァンスのピアノは、本当に心が癒やされる。
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 春は新生活が始まり希望の季節だが、同時に精神が不安定になり易い。寒暖の差が激しく自律神経が乱れるからだ。春眠暁を覚えずとか5月病とかいうが、気候変動の激しい春から初夏にかけては、体だけでなく心も疲れるものだ。その上、日本では春に新学期や入社、転居などを迎えるため、余計に精神のバランスを崩しやすい。そういう知識を持って、臨むといい。昔の人は、それを知っていて、「木の芽時」といって備えたものだ。そういう季節なんだと思えば、心も体も少しは軽くなる。肉や炭水化物の量を減らし、野菜や発酵食品を多めに摂る。砂糖や乳製品もできるだけ控えた方がいい。心も体もデトックスが必要な季節。蕗などの苦い山菜や抗酸化作用のつよいコシアブラなどの山菜やノビルやヨモギなどの野草を食べるのもいい。それが野生動物や先人の知恵だ。もちろん放射能汚 染されていないものを。
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 春は恋の季節でもあるが、そもそも恋というのは、精神のホルモンバランスが崩れること。快楽を司るドーパミンの大量分泌が恋愛を支配する。しかし、支配するのは恋愛だけではない。想像力や創造力も喚起する。脳は訓練次第で、経験からやりがいという報酬を得てドーパミンを放出し、それを糧とすることができることが既に分かっている。自然界はうまく出来ていると思うべきだろう。按ずるべからず。恋せよ乙女。あっ、熟年熟女もね。私もです。精進しましょう。
Falling in love with love 恋に恋してHelen Merrill with Quincy Jones Septet。
ニューヨークのため息を最後に。


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 今日はここまで。次は秋に似合うジャズ。ピーター・キャットでかかっていたあの名曲

春樹さんと本と学生時代に読んだ本について。僕は自転車と雑学が好きだった

村上夫妻の三角地帯からの引越し」 で書いた様に、春樹さんの引越しの時に驚いたのは、その蔵書の多さだった。手伝った皆で、これは小さな古本屋が開けるよねと言いあったものだ。それに感化されたというわけでもないが、私も本の虫だった。本の虫って面白い言葉だな。書痴、蔵書狂、愛書狂などともいう。ビブリオマニアは、書物蒐集狂、蔵書狂、 愛書狂などとも言われ、本を熱狂的に愛する強迫神経症の人のことだが、私も若い頃に雑誌の創刊号集めに走ったことがあるので、人のことは言えないが……。 ジャズ評論と映画評論の故植草甚一氏は、 蔵書が4万冊だったそうだ。筋金入りのビブリオマニアだね。LPも4000枚だったそうだ。これは散逸を防ぐためにタモリが全て買い取ったそうだ。植草氏は、下北沢の喫茶店タイムでよく見かけた。経堂アパートから足繁く通っていたようだ。氏の著書では、『ぼくは散歩と雑学がすき』がおすすめ。サブカル チャーを世に広めた名著。私が雑学好きになり、やがて編集アートディレクターになったのも彼の影響が強い。『僕は自転車と雑学がすき』だったが……。
 本の虫には、比喩としてのそれではなく、紙魚(シミ)などという本当に本につく虫もいるから厄介だ。また、戦後に出版された書籍には酸性紙が使われているものもあり、これらは時間が経つとボロボロに崩壊し長期保存ができない。中性紙でなければ駄目なのである。
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上 の4冊が、カート・ヴォネガット・ジュニア時代の名作。右下のスラップ・スティックからジュニアが取れる。下左2冊は、J.G.バラードの名作。特に『結晶世界』はお薦め。『ストーカー』は、ストガルツキー兄弟の『路傍のピクニック』を原作とし、アンドレイ・タルコフスキーが映画化したSFの名作。非常に 難解な作品だが、一度見たら忘れられない名画


 春樹さんは、昼の雨や雪で暇な時には、よく英語のペーパーバックを読んでいた記憶がある。まあたまには山上たつひこだったりもしたが。レジのイスで『喜劇新思想体系』とか『半田溶助女狩り』なんか読んで、突然笑い出すのは勘弁して欲しいと思った。ある時、階段を下りて店に入ったら、バイトのKと船問屋のMさんと春樹さんが、『半田溶助女狩り』の中の「部長の野郎よ~ほほほい」の踊りを踊っていたことがある。周りにはバイト仲間や常連がいたが、大爆笑だった。山上たつひこの漫画は、アナーキーなフリージャズそのものだったのかもしれない。もちろん、軍国主義の台頭とその恐怖を描いた『光る風』を忘れてはいけない。
 春樹さんの薦めでたくさん読んだのが、カート・ヴォネガット(1976年の『スラップスティック』より以前の作品はカート・ヴォネガット・ジュニア)。 80年代になって、早川文庫SFから和田誠氏のカバーイラストでたくさんの作品が出版されたが、ほとんど読んでいる。『プレイヤー・ピアノ』、『タイタンの妖女』、『母なる夜』、『猫のゆりかご』、『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』、『スローターハウス5』、『ジェイルバード』、『ヴォネ ガット、大いに語る』等々。読んだ読んだ。今も私の書架にある。SFが好きだったので、『結晶世界』のJ.G.バラードや『華氏451度』のレイ・ブラッドベリ、『2001年宇宙の旅』のアーサー・C・クラーク等も読みあさった。ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』は映画化もされたが、今でも記憶に残る名作だ。
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 小説以外では、例の「国分寺書店」で買い求めたG.ティボンの『星の輝きを宿した無知』、70年代当時の美大生のバイブルだったヴィクター・パパネック の『生きのびるためのデザイン』、ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』等だと思うが、当時これらを読んだ人がどれほどいるだろうか。加えて スーザン・ソンタグの『反解釈』。さらにR.D.レイン『好き? 好き? 大好き?』等々。今読んでも遅くない本だ。
 ムックでは、『エピステーメー朝日出版社、『遊』工作舎、『イメージの博物誌』平凡社などをよく買った。これらは今も大事にして書架にある。雑誌では、『批評空間』福武書店、『思想空間』青土社、『ユリイカ青土社、『面白半分』面白半分、『宝島』宝島社、『ガロ』青林堂等々。当時を知る人には、たまらなく懐かしい世界だと思う。
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 人はなぜ本を読むか。「あなたが知りたがっている問題は、実はほとんど答えが出ている。ただあなたが知らないだけだ。本を読みなさい。たいていの事は既 にだれかが答えを出している。しかし、世界はほとんどが未知の世界だ。答えのないことの方が遥かに多い。」と誰かが書いていたね。確かに世界中の偉人や先 人達が、素晴らしい書をしたためている。それを読むことは、彼らに個人授業を受けているようなものだ。まあ、それが本当に良書かどうかは体系的に判断するリテラシーが必要だが。そう思って読めばその力もつくだろう。決して名前や肩書きに騙されないことだ。
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 以前の記事「春樹さんがいう地下室に下りてみよう。『僕たちは再び「平和と愛」の時代を迎えるべきなのかもしれません』村上春樹」 で書いたが、戦後日本の、抱き癖がつくとか、添い寝はいけないとか、転んでも起こしてはいけないとかいう子育てが、情緒不安定なコミュニケーション能力の足りない子供達をたくさん生み出したと思っている。スキンシップの足りない子供は情緒不安定になる。親ばかり話して(大抵小言)子供の話を聞かないと、やがて何も話さなくなる。更に親の前で常にいい子を演じる様になると重症だ。
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 臨床発達心理士の山口創氏の『子供の「脳」は肌にある』という興味深い本がある。その一部を引用する。
「イヌやウマといった哺乳類は、出産してまず初めに、赤ん坊の全身を舌でなめる。これは、赤ん坊の皮膚の表面についた羊水などを拭うのと同時に赤ん坊の全身に舌で刺激を与えてマッサージをしているのだそうだ。」
「赤ん坊の循環器系、消化器系、泌尿器系、免疫系、神経系、呼吸器系などあらゆるシステムを正常に作動させるために必要なことなのである。全身を舐められることで赤ん坊は正常に呼吸し、排泄できるようになる。」
「人間の場合は、母親は赤ん坊を舌で舐める代わりに、出産のときに子宮の中でマッサージしているのだという学者もいる。長時間続く陣痛による子宮の収縮が、 胎児の全身に皮膚刺激を与える。すると胎児の皮膚の末梢の感覚神経が刺激され、それが中枢神経に届き、自律神経系を経てさまざまな器官を刺激するという。 ゆえに産道を通らずに帝王切開で生まれた子供は、後に情緒不安定など、情動面での問題が生じる可能性が高いとの指摘さえある。」(生後たっぷりとスキンシップを受ければ大丈夫と思う)
「『皮膚は露出した脳である』ともいわれる。体性感覚(触覚と温痛覚)は視覚や臭覚とは異なり直接脳を刺激していることになる。」
 スキンシップというのは、実は言葉以上の会話なのだと分かる。
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 そして、里山や雑木林などの自然は子供達の学校になる。私も息子達を出来る限り自然の中で育てたが、自然というものは豊かであるが理不尽。子供とて容赦はしない。だからこそいい学校なのだ。遊ぶことが学ぶことに繋がる。心の自由度や読解力の豊かさ、他者に対する思いやりは、子供時代のスキンシップと自然との関わり方に因ると思う。大学時代に愛読したホイジンガーの『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』を思い出す。また読んでみよう。
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ」『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』
 これは平安時代の作。技術が進歩しても感性は変わらない。むしろ退化しているかもしれない。技術だってそう。重機なしでピラミッドが造れるだろうか。前方後円墳が造れるだろうか。奢ってはいけない。その挙句の果ての福一の大事故なのだ。
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 切れる子供。執拗なストーカー。恋人に振られたぐらいで相手を殺す。家庭内暴力。拒食症。その根底にスキンシップの欠如があり、求める愛と与える愛の決定的な乖離があると思う。江戸時代の日本人や戦後でも田舎では、お乳は欲しがるだけ与え、赤ん坊は常に誰かに抱っこかおんぶされていたものだ。常にスキンシップがあった。愛に満たされた子供は、言われなくても自ら自立していく。外で遊ぶ様になっても、昔はおしくらまんじゅうとか馬跳びとか、スキンシップの多い遊びが豊富だった。同学年だけでなく、上下の世代ともよく遊んだ。そういう中で育った人間がコミュニケーション障害になるはずがない。モラルではなく、思いやりが育たないわけがない。モラルを声高に言う輩に碌(陸:ろく)なやつはいない。思いやりで充分だ。
 問題は、スキンシップを知らずに育てられた連中が大人になり、今や政財界官僚マスコミの中枢に大勢いるということだ。
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 国分寺ピーター・キャットは、夜はジャズ・バーなので、アルコール類も出すし賑やかだったが、昼は一人の客も多く比較的静かだった。コーヒー一杯で読書に耽り長居する学生も多かった。昔はネットもなかったし、テレビゲームもなかった。テレビもそう見なかったので、よく本を読んだと思う。今の若者も、ネッ トでもYoutubeなどの動画を除けばほとんど活字なので、文章を読まないということはないが、やはり一冊の本を読み切るということとは違うように思う。確かに読書は何歳になってもできるが、脳も肉体の一部。若い時の方が脳の体力もある。なにより「空っぽな壷には、新しい水がたくさん入るものだ。」という中国の諺もある。
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 ピーター・キャットではライブ演奏をしていたので、ジャズメンの出入りも頻繁にあった。ジャズはアドリブが命だからだろうか、ジャズメンには思考が柔軟で(グニャグニャで?)可笑しな人が多かった。店では春樹さんの趣向でフリー・ジャズはかけられなかったが、個人的には大好きで、友人と山下洋輔トリオのライブ演奏に出かけた。彼のエッセイがその頃から出始めたが、どれも最高に可笑しかった。文章自体がフリー・ジャズなのだ。厚生年金大ホールで読響がベー トーベンの第九をやっている時に、下の小ホールでやっていた3人の大音量で、コンサートが台無しになったという経歴を持つ。ピアノに火を放って演奏したこともある。「Yosuke Yamashita, Burning Piano 2008」初回は1973年。


Eitetsu Hayashi - Bolero 林英哲&山下洋輔 - ボレロ」も圧巻。和太鼓とピアノのコラボが斬新で心地よい。ラベルが聴いたらひっくり返るだろうか。

 

 これは貴重な山下洋輔松浦亜弥のコラボレーション。「Matsuura Aya - Koibito ga Santa Claus」これらを観ると、いかに現在のテレビが堕落したかが分かる。今の時代にこういう番組を作る余裕は全くないだろう。

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ジャズ・ピアニスト、山下洋輔の文庫本。どれも面白い。稲垣足穂の『人間人形時代』


 その中の一冊『ピアニストを笑え!』の中のオオトカゲ、コンプレックスの導入部はこんな感じで始まる。
「年齢に関係なく、人は常に反逆するものだ。早い話が、赤ん坊は『ギャオーッ』といいながら出て来るが、あれは決して、『皆さんおはようございます』といっているのではない。さあ、何がなんでも逆らうぞ、といっているのだ。」
 スピード感があり、とびきりのローラーコースターの様に急上昇急下降を繰り返し、時に回転やひねりも入る。力任せで強引だが、けれどもインテリジェンス溢れる文章でもある。ただ、不用意に読んでいると、突然コーヒーや水割りを吹き出すことになるので要注意である。読者に突然災難が訪れる文体でもある。
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 稲垣足穂という作家を知っているだろうか。工作舎から1975年に出た『人間人形時代』という摩訶不思議な本がある。黒い装丁の本の中央には直径7ミリ (カバーは12ミリ)の穴がズボッと開いている。「本は暗いおもちゃである」というタルホの言葉に則りデザイナーの杉浦康平氏と編集者の松岡正剛氏が作った伝説の奇書である。「カフェの開く途端に月が昇った」「人間人形時代」と続き、後半は半分が「宇宙論入門」という構成。宇宙に興味のない人は、後半は退 屈だろうが、真ん中の「人間人形時代」の短いエッセイ集は面白い。「香なき薔薇」や「ゴム臭いボートの話」、地球温暖化について書かれた「電気の敵」とい う不可思議な文章等は、なかなか読ませる。「模型少年」「天体嗜好」「飛行家願望」「少年愛の抽象化」と編者の松岡正剛氏は書いているが、どこからでも読めるが、どこを読んでもこの本の装丁のように、真ん中に穴があいていて、心にストンと落ちるのではなく、まるで透明人間の様に通り抜けてしまう不思議な本 なのだ。この穴は、宇宙の穴であると同時に、彼のいうAO感覚という、口から肛門へ続く穴でもあるのだろう。この本が書架にあるような輩は、間違いなく変わりものといわれるのを覚悟で読んで欲しい。古書店を探せばあるかもしれない。
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 学生になる前の浪人時代の話を書こう。当時は、ジャズに没頭していて、マイルス・デイビスウェイン・ショータージョン・コルトレーンなどを聴いていたのだが、ある時、美術研究所で知り合った友人に渋谷の恋文横町(戦後米兵相手に恋文を書く代書屋があった)の、もっと上の方の百軒店の道頓堀劇場の向かい辺りにあった「SAV サブ」というロック喫茶に連れて行かれた。彼はジャニス・ジョプリンが大好きで、確か始めて行った時に『PEARL』をリクエストした。「Janis Joplinジャニス・ジョプリン)Move Over」は、最もお気に入りの曲。この店は私も気に入って、度々通った。


 その先の「喜楽」の焦がしネギが乗ったモヤシソバを食べたり、先の角を左折した所にあるレトロなレストラン「ムルギー」で、当時は珍しいゆで卵のスライ スがのった辛口のインドカレーを食べてから、どっぷりとジャニスのブルースに浸ったものだ。ハシゴのような階段を二階に上ると、薄暗いというよりは真っ暗に近くて、真夏の陽光降り注ぐ道玄坂から入ると一瞬何も見えなくなった。明るい店内を見たことがないので、どんな内装か記憶がないが、当時のロック喫茶や ジャズ喫茶は、今では許可にならないぐらい薄暗いものだった。とても読書できる様な明るさではなかった。
「サブ」の帰りに「珉珉羊肉館(ミンミンヤンロウカン)」で、サンマーメンに餃子なんかも食べた。焼餃子の元祖ともいえる店で、最初は恋文横町にあったそうだ。ニンニクを入れたのもそこの亡き親爺さんのアイデアだとか。現在は道玄坂に移ったようだ。
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 百軒店には、ブラックホーク、B.Y.G.とかロック喫茶がたくさんあったと記憶している。なんとB.Y.G.は、まだ営業してるようだ。 BEGINなどもライブをやっているとか。その隣にある、当時は通り過ぎるだけだった名曲喫茶「ライオン」もまだ健在のようだ。百軒店のある円山町は花街で、芸者置屋もあった。働き始めた頃に社長と飲んだ帰りに置屋前の元甲子園児の屋台でラーメンを食べ、ちょうど通りがかったタクシーを拾うと、中から私たちよりがたいのでかい屈強な派手なワンピースを着た御釜が二人降りて来た。ギョッと思いつつ乗り込むと、車中はむせ返る様な香水の匂いが充満していた。運転手も苦笑いしていた。
 数年後、社会人になってからだが、やはり渋谷を仲間と飲み歩いていたら、前から泣きそうな表情(かお)をした背の高い美人が歩いてきた。どうしたの?といって飲みに誘ったらついてきた。新潟出身のニューハーフだった。悩み事から身の上話まで、色んな話を聞いた。名刺ももらったけど、そっちの趣味はなかったし忙しかったので、彼女の店には行かなかったが。色々な生き方があっていい。
 浪人時代から学生時代になると、渋谷からは遠ざかり新宿のジャズのライブハウス「ピット・イン」や、ジャズ喫茶「DIG」や「DUG」などに顔を出すようになったが、ジャニス・ジョプリンというと、「サブ」のあった渋谷の百軒店と、はす向かいのレコードショップでLPを買った帰りによく立ち寄った「タイム」のあった下北沢をやはり思い出す。

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当時は毎晩のように聴いていた


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 その後は、ジョージと呼ばれた吉祥寺近くに住んで、また「OUTBACK」や「ファンキー」などジャズ喫茶通いの日々だったが、時々思い出したように ロック喫茶の「赤毛とそばかす」にも通っていた。JBLアルテックのスピーカー、マランツマッキントッシュのアンプは憧れの的だった。大学に入ってバイトして憧れのラックスのアンプを買った夜は、一晩中聴いたものだ。昨今のCDやMP3の安っぽい音を聴いていると、それに連れて歌手や音楽そのものも安っぽくなってしまったのかなあなんて思ったりもする。70年代は学生運動が吹き荒れた60年代からの解放の時代だった側面もある。我々の世代は、 しらけ世代、三無主義(無気力・無関心・無責任)などともいわれたが、なんだかみんな緩くなって、サブカルチャーが活き活きしていた時代だった。
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 保守的な年寄りには我慢のならない若者達だったろうが、1930年代から後藤新平等が唱え、芽生え始めたデモクラシーを踏みにじり、軍国主義に走り、310万人もの戦没者を出した連中にいわれる筋合いは全くないものでもあった。『戦後史の正体』(創元社)の孫崎享氏が記しているように、戦争の責任を問わず、米隷属に走ったことで、日本の独立は失われてしまった。その挙げ句の果ての福島第一原発事故である。村上春樹さんが「カタルーニャ国際賞スピーチ(書き起こし)」で述べた様に、「効率=金」の亡者と化した日本人が、この人類史上最も未曾有の大事故を招いたのである。我々が失ったものは、計り知れなく大きい。これからの数年間で、それを思い知ることになるだろう。今こそ愛が必要とされる時代もない。


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 今日はここまで。次回は、春に似合うアルバム。私の一推しはこれ。『April in Paris』

77年の3月、羽田空港からロンドンへ、空中分解しそうなアエロフロートで飛んだ。Queenよ永遠に

 村上春樹夫妻に色々悩みを打ち明けていた時に、「こんな狭い日本でうじうじしてないで、海外でも歩いてきなさいよ」と言われたことがあった。まあ、そんな助言もあって、私は77年の3月大学3年の春休み、アルバイトで貯めたお金や亡き祖母が私のために貯めておいてくれた預金等を元に、目出たく羽田空港からソ連アエロフロートでロンドンへ旅立った。モスクワ経由のアエロフロートを使ったのは一番安かったから。しかし、後方の窓際の席だったのだが、なんと隙間風が入って来るのだった。雲海が遥 か下に見える高度になると、隙間風の入る辺りのガラスに霜が付いた。隣には日本人の彼女にプロポーズしに行ったが、父親に外国人に娘はやれないと断られ (父親は恐らく太平洋戦争で米英と戦った人だろう。こういう例を少なからず知っている)、傷心を抱えて帰国する英国人の青年がいた。その彼が指差した天井のパネルはビスが取れてブラブラしていた。空中分解しなければいいなと本気で思った。
               ◆
 薄らと髭の生えた美しいロシア人のスチュワーデスが、ワゴンでお菓子やらジュースやらを売りに来たが、ほとんどの人は買わない。すぐに機内食の時間になるのが分かっているから。その機内食の記憶がない。まあ、羽田で積んだのだからそう酷いものではなかったと思うが、記憶に残る程のものでもなかったということだろう。幸い飛行機は乱気流に遭うこともなく、モスクワのシェレメチボ空港に下りた。驚いた。滑走路は除雪されていたが、真っ白。周囲は高い雪の壁 だった。更に驚いたのは、飛行機から乗り換えのターミナルビルへは100m位歩かなければならないのだが、両側に機関銃を持った兵士がズラッと並んでいるのだ。引き金には人差し指が掛かっていた。Oh my Buddha!
               ◆
 ターミナルビルの待合室は、体育館の様に天井の高いホールだったが、殺伐としていた。ソファーもベンチもない。小さな書架があって共産党の小さな冊子が並んでいた。もちろんロシア語なので読めない。トイレは入り口とは対角線の先にあったが、小銃を持った兵士付きで行かなければならなかった。実はこの前年の秋に、MiG-25戦闘機でベレンコ中尉亡命事件というものがあったのだ。当時のソビエト連邦の現役将校が、最新鋭の戦闘機で函館空港に強行着陸したのだから、驚天動地の世界的な大事件であった。その数ヶ月後だから、異様な警備があったのは当然だった。緊張感に満ちあふれた退屈な待ち時間の後で、別の機に乗り換え私はロンドンに向かった。幸いな事に、乗り換えた機体は隙間風がなかった。例の機体は、隙間風を入れながらパリへ向かったらしい。
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ロンドンとパリの写真、混ぜこぜ


 ロンドンのヒースロー空港には、当時英国に留学していた彼女が迎えに来てくれていた。私は彼女が暮らしている郊外のフラットの隣の部屋を借りた。二階建ての煉瓦造りの長屋が通りに面して連なっているというロンドンの典型的な造りで、私の部屋からは並木のある表の通りが、彼女の部屋からは中庭が見え、その向こうには向かいの長屋の中庭が見えた。霧のロンドンといわれる様に、毎朝目覚めると外は霧がまいていて、たくさんのカモメが屋根に留まっていた。横浜港にもカモメはいるが街の中には入って来ない。なぜロンドンのカモメは住宅街にいるのだろうと不思議に思った。私は彼女の部屋から見える、その中庭の風景が好きだった。木塀越しの向かいの家の中庭も、隣の中庭も、典型的なイングリッシュガーデンで、バラの木は必ずあった。ガラスの小さな温室がある庭もあった。短い夏にはパンジーやスミレやマーガレットなどの花が一斉に咲くのだろうと想像した。向かいの家にショートカットの金髪の主婦がいた。彼女は私が滞在した5週間程の間、毎日赤いセーターと緑色のセーターをずっと交互に着回していた。霧が巻く早朝には、鉛蓄電池の電気自動車の牛乳配達の車がウィーンと音を鳴らしてやってきた。1パイント瓶(約560ml)だったか、ミルクマンが配達するそのミルクは、上にクリームが溜まっていて、それは猫の取り分なんていわれていた。鳥がつついて食べていたという話もあった。
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 イギリスへ行く前に、マナーの煩い国だとさんざん聞かされたので、当時話題になっていた『ティファニーのテーブルマナー』という本を買った。東京でもナ イフとフォークが出る洋食屋は多かったので、これで苦労することはなかったが、滞在していたフラットに、たまたま作業に来た水道屋の親爺に、知らないだろうという様な感じで使い方のレクチャーを受けた。それより実際に見て驚いたのは、レイディー・ファースト(ladies first)だった。渡航前の彼女の手紙でも、気をつける様にと。けれども実際行ってみると、それはあらゆる場面で思った以上に徹底していて、私を当惑させた。後から来た女性のためにドアを開けて待つなんていうのは序の口。パリへ長距離列車で行った時のことである。私達のコンパートメントに、美しいブロンドの女性が乗って来た。彼女は足下にスーツケースを置いて座り、おもむろに私を見た。ドキッとしてボーッとしていると、隣の彼女が囁いた。「スーツケースを棚に上げてと言ってるのよ」。とっさに私は「ソーリー」と言って上げた。彼女は「サンキュー」と言って微笑んで読書を始めた。やれやれ。
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 彼女の話では、食事中などにトイレに立とうとすると、男共は全員立って見送り、帰って来ると再び全員立って迎えるのだそうだ。最初は放っといてくれよと思ったが、すぐに慣れたそうだ。こういう若い時に苦労して身につけた習慣というのは抜けないもので、社会人になっても女性がコートを脱ごうとすると後ろからそっと取ってコンシェルジュに渡すとか、道路を歩くときは必ず女性を車道の反対側にとかしてしまうのだった。しかし、それで得をしても損はしたことがなかったと思うので、良かったということにしよう。もっとも、後日レイディー・ファーストは、中世に暗殺が横行したため盾として女性を前に置いたという説を読んで、英国の貴族や騎士は男の風上にも置けない奴らだななんて思ったりもしたが……。
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 アングロサクソンは食事や料理というものを憎んでいるじゃないかとさえも思ったが、英国に旨いものがないわけじゃない。パブへも行った。さすがにビール は、ラガー、エール、ビター、スタウトなどあり、どれも旨かった。ミート・パイにカッテージ・ポテトとキドニー・パイは気に入ったさ。当時はまだ手作りで、冷凍物などはなかったのだろう。あれは紳士の食べ物ではないと言われるホウレン草のキッシュも気に入った。ロンドンのパブは、ホワイトカラーとブルー カラーに別れている店もあった。よく話のネタになるフィッシュ・アンド・チップスの店にも行った。なんの飾り気もない料理だ。後ろのテーブルで労働者がひとりで夕食を食べていたが、メニューはローストされた鶏一羽と周りに山の様なフライドポテトがあるだけだった。それは食事というより餌を食べているという光景だった。
 定食屋にも行ったが、ラムチョップとフライドポテト、フライドオニオンとトマト。あるいは、味が抜ける程くたくたに茹でられた温野菜。それにパン。アングロサクソンの食事は実に慎ましい。インド人がやっている店のサモサはお気に入りでよく買った。中華も化学調味料が大量に入っていなければそれなりに。唯一凄 いと思ったのはスーパーにあるフルーツ入りのヨーグルト。当時の日本では苺やパインぐらいしかなかったが、ブルーベリー、ブラックベリー、カシスなどもの凄く種類が豊富だった。ある日、ダブルデッカー(二階建てバス)に乗ったら、前のおばさんが、まるで馬の様に皮を剥いたニンジン一本をバリバリ食べていて驚いた。
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 滞在した当時、ロンドンには後乗りでドアのない飛び乗れる旧タイプの二階建てバスと、自動ドアで前から乗る新タイプのバスが走っていた。ある時古いタイプのバスの二階に乗ってロンドン市街を走っていた時だ。ハイドパークの近くだったと思う。二階には私と彼女と老人が一人だけだった。後ろの老人が突然なにかしゃベリ出した。初めは全く気づかなかったが、彼女が気づいた。「名所の説明をしてくれてるのよ」と。大きな独り言ではなかったのだ。その老人は私達が下りるまでずっと説明を続けた。かといってそれ以上何かを語るわけでもない。微笑みもしない。下りるとき私達は彼にお礼を言ったが、その時だけ少し微笑んだ様な記憶がある。少しだけイギリス紳士というのが分かった気がした。後で旅をしたブラジルの人々に比べると、実に面倒くさい連中だ。
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 しかし、こういう言葉がある。アングロサクソンやゲルマンは、なかなか心を開かない。でも一旦親友になったら固い信頼を結べる。ラテン系の連中は、すぐに友達になれる。しかし、本当に信じあえる親友になるのは難しい。でも親友になったら家族同様だと。さて、我々アジア人は、日本人はどうだろう。
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 百貨店はハロッズも行った。ロールスロイスで乗り付け、毛皮のコートを着た婦人が降りて来るような店だ。もちろんドアマンが恭しく迎える。地下の食品売り場のディスプレイが度肝を抜いた。牛肉やラム肉、野うさぎで飾られたツリー状のディスプレイ。同じ様に魚介類を積み上げたディスプレイは、日本にはないもので、マニエリスムジュゼッペ・アルチンボルドを彷彿させるものだった。
 もうひとつ、1875年日本や東洋の装飾品、織物、芸術工芸品を輸入販売する専門店として開業し、後に、「リバティ・プリント」と呼ばれる生地で有名になったリバティ百貨店の方が、私には魅力的だったね。近代デザインの父とも呼ばれる同時代のウィリアム・モリスと共に、生物描写、特に植物をデザインに活かす新境地を開いた。彼らは、1862年のロンドン万国博覧会で日本館の出品にかなり影響されたようだが、逆に大正時代の柳宗悦による民芸運動にも大きな影響を与えたといわれている。
女性店員が"Can I help you madam?"と聞くと彼女が"Just looking now, thank you."と応えていたのが恰好よかったが、ドラッグストアで石けんを探していて、「石けんないね」と彼女が言ったら、若い男の店員が「石けんならあります」と流暢な日本語で応えたのには驚いた。なにせ当時は日本の電化製品が上陸し始めたころで、二階建てバスにSANYOのロゴがあったぐらい。その後の和食やアニメの日本ブームも、まだなかったし、日本語を話せる英国人は稀だった。
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 当時カウンター・カルチャーのメッカとして注目されていたソーホーへも行った。古書店街があるセシル・コートにも行って、ボタニカルアートの画集や、以前『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で紹介した1907年に出版された『不思議の国のアリス』を買った。素朴な木版の絵が気に入って"Grand Tarot Belline"という中世のタロットカードのレプリカも買った。オリジナルは、かのナポレオンを占ったという逸品らしく、レプリカとはいえ、コレクション・カードとしても名品中の名品らしい。カードの側面は金箔貼りで、ケースも豪華仕様だ。占いはやらないし信じもしないが、これはいい。

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ナポレオンを占ったという"Grand Tarot Belline"の複製


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 彼女が大学のレッスンがある日は、一人で街も歩いた。チューブ(地下鉄)の切符売り場の親爺に"thirty"の発音を直されたのには参った。あんたが来日したら、日本語の発音を徹底的に直してやるぜと思ったが、来るはずもなかったね。一人で入ったサンドウィッチの店は良かった。まずパンは大好きなライ麦パンを選び、ローストビーフかラムにレタス、トマト、オニオン、ピクルス。あるいは、スモーク・サーモンとチーズとかを選んで行く。粒マスタードサウザンアイランド・ドレッシングをたっぷりかけてもらってね。チェーン店ではなかったし、自分で自由に組み合わせられるのがよかった。エリザベス女王御用達とかいう、ミントの効いたチョコレート、アフター・エイトも気に入った。昔、チョコレートの本を作った時に、コートドール初め撮影に使った世界中の高級チョコレートを10キロもらったことがある。ウィスキーのつまみとして、そのまま食べたり、スウィーツにして家族四人で食べ切るのに半年かかった。
 音楽は、イギリスはやはりロックのメッカという感じだった。"Biba" やソーホーなどは、長髪にロンドンブーツの若者がいた。当時はハードロックの全盛期。ジャズだけでなく、ハードロックやヘビーメタルも聴いたものだ。
 BABYMETALの。最近私が最も気に入っているヘビーメタルのバンドである。聴かない日はないほど。『Gimme chocolate!!』、『イジメ、ダメ、ゼッタイ - Ijime,Dame,Zettai』は必聴。美少女3人のKAWAII METALが世界を変えるかもしれない。戦争が始まれば、真っ先に弾圧されるのが音楽。私達は戦争で利益を得ようとする悪魔の集団から彼女たちを子供達を守らなければならない。
 興味のある方は、私のブログ記事『[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達』をご笑覧あれ。非常にアクセスの多い記事です。


               ◆
 ハイド・パーク近くのロイヤル・アルバート・ホールに、 オスカー・ピーターソンのコンサートを聴きに行った。ホールは1871年オープンでヴィクトリア様式の荘厳な建築。クラシックの演奏はもちろん、ジャズや ザ・ビートルズザ・ローリング・ストーンズ、ジミー・ヘンドリックス等のコンサートも行われた。ジャズのコンサートは、イイノ・ホールや厚生年金会館、 一橋大学の兼松講堂などで聴いたことがあったが、この様な格式のある大ホールでジャズのコンサートが行われることに驚いた。私達は赤いカーテンの掛かるボックス席の上のイス席だった。値段の高い席には、着飾った紳士淑女が座っていた。オスカー・ピーターソンのピアノは、本当に素晴しく、それは「ピー ター・キャット」やアパートのオーディオで聴くものとは雲泥の差があった。やはり生に勝るものはない。

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 1975年にクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットした。スタイリスティックスの『愛がすべて』。76年にはアバの『ダンシング・クイーン』、オリビアニュートンジョンの『カントリーロード』。77年には、ザ・ビー・ジーズの『サタデー・ナイト・フィーバー』、クイーンの『ウィー・アー・ザ・チャンピオン』、スティービー・ワンダーの『愛するデューク』、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』、アース・ウィンド・アンド・ファイアーの『宇宙のファンタジー』がヒットした。日本では、ピンクレディー全盛期で、山口百恵沢田研二ユーミンなどが活躍していた。

 こんな素晴らしいドキュメンタリーがあったのだね。フレディ・マーキュリーの生誕から亡くなるまでの全てが観られる。確かにBIBAの店員は皆美しかったし個性的だった。フレディはもちろん母やメアリーや最後の恋人(男)の証言も。ミック・ジャガーポール・マッカートニー、エルトンジョン、ライザ・ミネリデビッド・ボウイ。彼とオペラの出会いも。最期の時も。最高すぎる。フレディよ永遠に。
 そして、この番組で分かったこと。私が5週間のロンドン在住当時に、BIBAで同棲中の恋人メアリー・オースチンに遭っていたかもしれないのだ。王立音楽院に留学中の彼女とBIBAにショッピングに行った。そう大きくはないビルなので全てを回り、彼女はチャイナドレスの上着を買った。紺がベースでバラの花が散りばめられ、縁が赤のパイピングだったと思う。彼女はこれを羽織り、スリムジーンズに紺のピンヒールを履いて二人でパリへ旅をした。パリジェンヌが振り返るほどの美貌とスタイルの華のある女性だった。買った店がメアリーがいた店かもしれない。当時の彼女やロンドンの日々を懐かしく思い出す。
 ボヘミアン・ラプソディーはマイノリティを歌ったもの。誰しも人生の中でマイノリティになることはある。でも、どんな人もチャンピオンなんだ。
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 前述の様に、イースターの休暇に彼女と列車でパリへ向かった。ドーバー海峡を、大きなフェリーに列車を積んで渡った。英のドーバーから仏のカレーまでは1時間半ぐらいの乗船時間だが、フェリーに列車を積む時間や、下ろして連結する時間がけっこう長く、カレーではイミグレーションも通らなければならなかったため、思ったよりも時間がかかった。乗客は列車から降りて船室に入る。夜だったが、その日のドーバー海峡は荒れて船は激しく揺れた。私は大丈夫だったが、トイレは満員だったと思う。
 フランスに入って夜が明けた。地平線まで赤土の畑が続き朝霧の中の枯れ木立の中に白壁の農家が見えた。バルビゾン派の絵の様な風景の中を、列車はゆっくりと進んだ。自転車程の速度で走っている時に、線路脇にある一件の農家が見えた。質素な赤煉瓦の家に囲まれた中庭には鶏やアヒルや牛、犬や猫がいて、馬小屋もあった。長い膨らんだスカートをはいた農婦が洗濯物を干していた。朝焼けの斜めの光を浴びて、それはまるでミレーの絵の様な風景だった。
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 列車は8時間ぐらいかかってパリのノード駅に着いた。最初のホテルは、パリ東部の坂を上がった所にあるバックパッカーが多い、けれども小奇麗な安ホテルだった。なにが良かったといえば、そのホテルの朝食。バゲットにバターを塗り、摺り下ろしたリンゴに蜂蜜を練ったものをたっぷりつけて、カフェオーレで流し込むだけのものなのだが、そのバケットとリンゴに蜂蜜を練ったものが異常に旨かったのだ。友人のフランス人に言わせると、当時はパリでもまだ石釜でパンを焼いている店が多かったので、そりゃ旨かっただろうということだ。毎朝、一人でバゲット1本以上を食べていたら、ホテルのマダムが、そんなに美味しい? と言った。それぐらい旨かった。ロンドンからパリに着いて一番衝撃的だったのは、何を食べても美味しいということだった。地元の人が行くビストロのオニオンスープやカスレ。節約のためにデリカテッセンで買った豚足のゼリーよせ。蚤の市で食べたクレープ・シュゼット。長いバゲットにハムやチーズや野菜をたっぷりと挟んだサンドウィッチ。ひとつとして不味いものはなかった。
               ◆
 若くて体力もあったし、何より好奇心が旺盛だったので、パリ中を回った。メトロも使ったし、シトロエンプジョーのタクシーもよく利用した。そして、なによりよく歩いた。ノートルダム寺院ルーブル美術館、ポンピドーセンター、エッフェル塔凱旋門、クリニャンクールの蚤の市、モンマルトル寺院、ショパンの墓のあるペール・ラシェーズ墓地、シャンゼリゼ、サンジェルマン・デ・プレ、オペラ座界隈、ムーラン・ルージュセーヌ川畔等々。今はどうか知らないが、犬の糞を踏まずにパリの街を歩くのは、かなり難しかった。特にモンマルトル界隈では、前を歩いていたフランス人のカップルの男の方が、もろに踏んだのを見た。ユトリロが描いた石段のある小路だったと思う。サン=ルイ島だったかの小さな公園で、遊んでいた地元の子供達と話したり、モンマルトルの丘でスペインから来た修学旅行の女子高生と話したり、カフェで通りを歩く人を眺めたり、それは楽しかった。
 ちょうど生牡蠣のシーズンで、カフェやレストランの店頭には沢山積んであり、時折店員が冷水をかけていたが、その漂う臭いで、これは間違いなく腹を壊すなと食べなかった。あらためて地図でパリを見れば、信州以上に海なしのど真ん中ではないか。パリジェンヌは、こんなものを食べて腹を壊さないのだろうかと思った。
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 当時、開館したばかりで、パイプが剥き出しの前衛的な建築で世界の話題をさらったポンピドー・センターは、最も行きたいところだった。私が観たかったのは、マルセル・デュシャンの遺作、『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』 (Étant donnés: 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage) だった。スペイン・カダケスの古い木の扉の覗き穴から中を見ると、右奥には光の効果によって実際に水が流れているかのように見える滝があり、その風景の中に左手でランプを掲げた少女の裸体が性器もあらわに横たわっているという立体作品。現代芸術の分野で、コンセプチュアル・アートの先駆けといわれた彼の、 その作品がどうしても観たかったのだ。他にも現代芸術の作家の作品がたくさんあったが、やはりこの作品が強烈に心に残った。ルーブルの、ミロのビーナスモナリザよりもね。彼の墓碑には、「されど、死ぬのはいつも他人」と刻まれているという……。この作品は、フィラデルフィア美術館の永久展示となってい る。
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 行きたいところがパリの北西部に多かったことから、途中でホテルを変えた。二度目のホテルはムーランルージュの近くの、やはり安宿だった。深紅のベッドカバーのダブルベッドが、やたら大きかった。夜になると階段を上り下りする男女の声が騒がしいホテルだった。翌日出かけると、歩道に何人ものセクシーな女性が立っていた。見ると手に手に私達が泊まっているホテルのカギを持っているではないか。その上、ホテル近くのナイトクラブの客引きの男には、卑猥な日本語で入店を誘われた。そこは娼婦街だった。笑った。
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 クリニャンクールの蚤の市も面白かった。ホテルの所同様に、治安がいいとはいえない街だったが、今程移民も多くはなかったし、危険を感じる程ではなかった。アンティークはもちろん、古着から古書まで色々あった。お金がないので見るだけだったが、それでも充分に堪能できた。アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー、アルフォンス・ミュシャの ポスターは、欲しかったがとても手が出る値段ではなかった記憶がある。他に記憶に残っているのは、銀食器や家具。アンティークのミニカー・コレクション。 ミニカーというと日本では子供のおもちゃだが、欧州では紳士のコレクション・アイテムでもある。蚤の市では買わなかったが、ロンドンで二階建てバスのミニ カーを二台買った。

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上の二台が、当時買い求めたダブルデッカー。銀色の方は、"The Queen's Silver Jubilee London Celebrations 1977"と書いてある特別車。手前は、ずっと後になって子供達をだしにして買ったもの。英国のLLEDO社のDAYS GONEシリーズ。今回、ダブルデッカーを探すために倉庫をあさったが、ミニカーの余りの多さに気を失いそうになった


               ◆
 ロンドンにしてもパリにしても、東京の様に10年経つと街の風景が一変するということはない。ブラジルもそうだった。新しい建築物は新市街にあるが、旧市街の古い建物は内装は変わっても外装は変わらない。泊まったホテルの壁も石の部分は相当古く、彼女と何百年前のものなんだろうねと話した記憶がある。映画『戦場のピアニスト(THE PIANIST)』でも描かれたように、ポーランドワルシャワ歴史地区は、ドイツ軍の爆撃により八割が破壊されたが、「歴史を奪われた国民は、存在しないも同然だ」と、煉瓦のひびに至るまで、ほぼ完璧に復興されたという。愛宕山から撮影された幕末の江戸の写真を見たことがあるだろうか。黒光りする瓦が連綿と続く世界に誇れる美しい大都市だった江戸が、東京と名前を変えて、欧米コンプレックスに侵された薩長の田舎者により猥雑な極東の街に変わっていった。東京大空襲で焼け野原になった後も、壮大な都市計画等全くなく、ほぼ無計画に増殖して今日に至る。そして今、東京は放射能汚染により、その歴史を終えようとしている。大伴克弘の『AKIRA』に描かれたネオ・トウキョウが、そう遠くない未来に現実のものとなるだろう。中国に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という諺がある。歴史を疎んじ捏造し、歴史に学ぼうとしない国は、いずれ滅びる。
 著作権満了のナショナル・ジオグラフィックの写真で作ったスライドショー。
【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平
 モボ・モガに浮かれた花の都東京を中心として日本は、後藤新平が亡き後、急速に軍国主義化していった。今現在が、非常にその頃と似ている。
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 学校で学んだ世界史や日本史というものは、時の国家や権力者に都合がいい様に捏造されている。欧州の世界史というのも例外ではない。古くは西葡蘭。後には英米仏の植民地戦略が、軍事だけでなく情報操作、思想操作、愚民化政策などにおいて、いかに巧妙で古い歴史があるかは、その気で情報収集すればすぐに分かることなのだが。受験勉強でいくら高得点を取っていい大学へ行っても、決して事実を見ることはできないし、事実を見る目は育たない。欧米による愚民化政策と教育の賜物が今の日本であり、その結果の原発事故なのだ。TPPは、満身創痍の日本から最後の富を収奪する総仕上げだ。いい加減自分の頭で考え行動する人間になるべきだ。
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「可愛い子には旅をさせよ」という諺がある。親元で甘やかしていないで、世間の厳しさを体験させよということだ。実際、南米アマゾンの放浪で は、世間の厳しさどころか、命の危険にも晒されたが、たった200日余りの放浪でも、10年分以上の経験をさせてもらった。南米では、リタイアして悠々自適の旅をするマイアミの老人の団体などに出逢った。それも悪くはないが、国内外問わず、旅は若い時にした方がいい。ツアーではなく、人や自然と自由に交わる放浪のひとり旅を。ひとりで行けば危険も伴うが、こちらが心を開けば相手も警戒を解いて受け入れてくれる。アマゾンで貧民街に居候したり、ジャングルの奥地の日系移民の農場を訪ねたり、ボリビアの大平原で川船で暮らす家族を訪ねたり、貴重な経験を積む事が出来た。それはお金や物には代えられない財産となった。
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 今年(2013)のノーベル文学賞、春樹さんは英のオッズでトップだったそうだが、結局カナダのおばさんになった。彼女の旦那が「カナダには10人以上 彼女よりいい作家がいるのに信じられない」という様なことを言っていたが、ノーベル文学賞と平和賞は、パロディか悪い冗談ぐらいに思っていた方がいいようだ。この両賞ほど政治的に利用されて来たものはないからだ。
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次は、『春樹さんと本と学生時代に読んだ本について。僕は自転車と雑学が好きだった』