『国分寺・国立70sグラフィティ』

村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック

春樹さんと本と学生時代に読んだ本について。僕は自転車と雑学が好きだった

村上夫妻の三角地帯からの引越し」 で書いた様に、春樹さんの引越しの時に驚いたのは、その蔵書の多さだった。手伝った皆で、これは小さな古本屋が開けるよねと言いあったものだ。それに感化されたというわけでもないが、私も本の虫だった。本の虫って面白い言葉だな。書痴、蔵書狂、愛書狂などともいう。ビブリオマニアは、書物蒐集狂、蔵書狂、 愛書狂などとも言われ、本を熱狂的に愛する強迫神経症の人のことだが、私も若い頃に雑誌の創刊号集めに走ったことがあるので、人のことは言えないが……。 ジャズ評論と映画評論の故植草甚一氏は、 蔵書が4万冊だったそうだ。筋金入りのビブリオマニアだね。LPも4000枚だったそうだ。これは散逸を防ぐためにタモリが全て買い取ったそうだ。植草氏は、下北沢の喫茶店タイムでよく見かけた。経堂アパートから足繁く通っていたようだ。氏の著書では、『ぼくは散歩と雑学がすき』がおすすめ。サブカル チャーを世に広めた名著。私が雑学好きになり、やがて編集アートディレクターになったのも彼の影響が強い。『僕は自転車と雑学がすき』だったが……。
 本の虫には、比喩としてのそれではなく、紙魚(シミ)などという本当に本につく虫もいるから厄介だ。また、戦後に出版された書籍には酸性紙が使われているものもあり、これらは時間が経つとボロボロに崩壊し長期保存ができない。中性紙でなければ駄目なのである。
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上 の4冊が、カート・ヴォネガット・ジュニア時代の名作。右下のスラップ・スティックからジュニアが取れる。下左2冊は、J.G.バラードの名作。特に『結晶世界』はお薦め。『ストーカー』は、ストガルツキー兄弟の『路傍のピクニック』を原作とし、アンドレイ・タルコフスキーが映画化したSFの名作。非常に 難解な作品だが、一度見たら忘れられない名画


 春樹さんは、昼の雨や雪で暇な時には、よく英語のペーパーバックを読んでいた記憶がある。まあたまには山上たつひこだったりもしたが。レジのイスで『喜劇新思想体系』とか『半田溶助女狩り』なんか読んで、突然笑い出すのは勘弁して欲しいと思った。ある時、階段を下りて店に入ったら、バイトのKと船問屋のMさんと春樹さんが、『半田溶助女狩り』の中の「部長の野郎よ~ほほほい」の踊りを踊っていたことがある。周りにはバイト仲間や常連がいたが、大爆笑だった。山上たつひこの漫画は、アナーキーなフリージャズそのものだったのかもしれない。もちろん、軍国主義の台頭とその恐怖を描いた『光る風』を忘れてはいけない。
 春樹さんの薦めでたくさん読んだのが、カート・ヴォネガット(1976年の『スラップスティック』より以前の作品はカート・ヴォネガット・ジュニア)。 80年代になって、早川文庫SFから和田誠氏のカバーイラストでたくさんの作品が出版されたが、ほとんど読んでいる。『プレイヤー・ピアノ』、『タイタンの妖女』、『母なる夜』、『猫のゆりかご』、『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』、『スローターハウス5』、『ジェイルバード』、『ヴォネ ガット、大いに語る』等々。読んだ読んだ。今も私の書架にある。SFが好きだったので、『結晶世界』のJ.G.バラードや『華氏451度』のレイ・ブラッドベリ、『2001年宇宙の旅』のアーサー・C・クラーク等も読みあさった。ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』は映画化もされたが、今でも記憶に残る名作だ。
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 小説以外では、例の「国分寺書店」で買い求めたG.ティボンの『星の輝きを宿した無知』、70年代当時の美大生のバイブルだったヴィクター・パパネック の『生きのびるためのデザイン』、ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』等だと思うが、当時これらを読んだ人がどれほどいるだろうか。加えて スーザン・ソンタグの『反解釈』。さらにR.D.レイン『好き? 好き? 大好き?』等々。今読んでも遅くない本だ。
 ムックでは、『エピステーメー朝日出版社、『遊』工作舎、『イメージの博物誌』平凡社などをよく買った。これらは今も大事にして書架にある。雑誌では、『批評空間』福武書店、『思想空間』青土社、『ユリイカ青土社、『面白半分』面白半分、『宝島』宝島社、『ガロ』青林堂等々。当時を知る人には、たまらなく懐かしい世界だと思う。
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 人はなぜ本を読むか。「あなたが知りたがっている問題は、実はほとんど答えが出ている。ただあなたが知らないだけだ。本を読みなさい。たいていの事は既 にだれかが答えを出している。しかし、世界はほとんどが未知の世界だ。答えのないことの方が遥かに多い。」と誰かが書いていたね。確かに世界中の偉人や先 人達が、素晴らしい書をしたためている。それを読むことは、彼らに個人授業を受けているようなものだ。まあ、それが本当に良書かどうかは体系的に判断するリテラシーが必要だが。そう思って読めばその力もつくだろう。決して名前や肩書きに騙されないことだ。
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 以前の記事「春樹さんがいう地下室に下りてみよう。『僕たちは再び「平和と愛」の時代を迎えるべきなのかもしれません』村上春樹」 で書いたが、戦後日本の、抱き癖がつくとか、添い寝はいけないとか、転んでも起こしてはいけないとかいう子育てが、情緒不安定なコミュニケーション能力の足りない子供達をたくさん生み出したと思っている。スキンシップの足りない子供は情緒不安定になる。親ばかり話して(大抵小言)子供の話を聞かないと、やがて何も話さなくなる。更に親の前で常にいい子を演じる様になると重症だ。
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 臨床発達心理士の山口創氏の『子供の「脳」は肌にある』という興味深い本がある。その一部を引用する。
「イヌやウマといった哺乳類は、出産してまず初めに、赤ん坊の全身を舌でなめる。これは、赤ん坊の皮膚の表面についた羊水などを拭うのと同時に赤ん坊の全身に舌で刺激を与えてマッサージをしているのだそうだ。」
「赤ん坊の循環器系、消化器系、泌尿器系、免疫系、神経系、呼吸器系などあらゆるシステムを正常に作動させるために必要なことなのである。全身を舐められることで赤ん坊は正常に呼吸し、排泄できるようになる。」
「人間の場合は、母親は赤ん坊を舌で舐める代わりに、出産のときに子宮の中でマッサージしているのだという学者もいる。長時間続く陣痛による子宮の収縮が、 胎児の全身に皮膚刺激を与える。すると胎児の皮膚の末梢の感覚神経が刺激され、それが中枢神経に届き、自律神経系を経てさまざまな器官を刺激するという。 ゆえに産道を通らずに帝王切開で生まれた子供は、後に情緒不安定など、情動面での問題が生じる可能性が高いとの指摘さえある。」(生後たっぷりとスキンシップを受ければ大丈夫と思う)
「『皮膚は露出した脳である』ともいわれる。体性感覚(触覚と温痛覚)は視覚や臭覚とは異なり直接脳を刺激していることになる。」
 スキンシップというのは、実は言葉以上の会話なのだと分かる。
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 そして、里山や雑木林などの自然は子供達の学校になる。私も息子達を出来る限り自然の中で育てたが、自然というものは豊かであるが理不尽。子供とて容赦はしない。だからこそいい学校なのだ。遊ぶことが学ぶことに繋がる。心の自由度や読解力の豊かさ、他者に対する思いやりは、子供時代のスキンシップと自然との関わり方に因ると思う。大学時代に愛読したホイジンガーの『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』を思い出す。また読んでみよう。
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ」『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』
 これは平安時代の作。技術が進歩しても感性は変わらない。むしろ退化しているかもしれない。技術だってそう。重機なしでピラミッドが造れるだろうか。前方後円墳が造れるだろうか。奢ってはいけない。その挙句の果ての福一の大事故なのだ。
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 切れる子供。執拗なストーカー。恋人に振られたぐらいで相手を殺す。家庭内暴力。拒食症。その根底にスキンシップの欠如があり、求める愛と与える愛の決定的な乖離があると思う。江戸時代の日本人や戦後でも田舎では、お乳は欲しがるだけ与え、赤ん坊は常に誰かに抱っこかおんぶされていたものだ。常にスキンシップがあった。愛に満たされた子供は、言われなくても自ら自立していく。外で遊ぶ様になっても、昔はおしくらまんじゅうとか馬跳びとか、スキンシップの多い遊びが豊富だった。同学年だけでなく、上下の世代ともよく遊んだ。そういう中で育った人間がコミュニケーション障害になるはずがない。モラルではなく、思いやりが育たないわけがない。モラルを声高に言う輩に碌(陸:ろく)なやつはいない。思いやりで充分だ。
 問題は、スキンシップを知らずに育てられた連中が大人になり、今や政財界官僚マスコミの中枢に大勢いるということだ。
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 国分寺ピーター・キャットは、夜はジャズ・バーなので、アルコール類も出すし賑やかだったが、昼は一人の客も多く比較的静かだった。コーヒー一杯で読書に耽り長居する学生も多かった。昔はネットもなかったし、テレビゲームもなかった。テレビもそう見なかったので、よく本を読んだと思う。今の若者も、ネッ トでもYoutubeなどの動画を除けばほとんど活字なので、文章を読まないということはないが、やはり一冊の本を読み切るということとは違うように思う。確かに読書は何歳になってもできるが、脳も肉体の一部。若い時の方が脳の体力もある。なにより「空っぽな壷には、新しい水がたくさん入るものだ。」という中国の諺もある。
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 ピーター・キャットではライブ演奏をしていたので、ジャズメンの出入りも頻繁にあった。ジャズはアドリブが命だからだろうか、ジャズメンには思考が柔軟で(グニャグニャで?)可笑しな人が多かった。店では春樹さんの趣向でフリー・ジャズはかけられなかったが、個人的には大好きで、友人と山下洋輔トリオのライブ演奏に出かけた。彼のエッセイがその頃から出始めたが、どれも最高に可笑しかった。文章自体がフリー・ジャズなのだ。厚生年金大ホールで読響がベー トーベンの第九をやっている時に、下の小ホールでやっていた3人の大音量で、コンサートが台無しになったという経歴を持つ。ピアノに火を放って演奏したこともある。「Yosuke Yamashita, Burning Piano 2008」初回は1973年。


Eitetsu Hayashi - Bolero 林英哲&山下洋輔 - ボレロ」も圧巻。和太鼓とピアノのコラボが斬新で心地よい。ラベルが聴いたらひっくり返るだろうか。

 

 これは貴重な山下洋輔松浦亜弥のコラボレーション。「Matsuura Aya - Koibito ga Santa Claus」これらを観ると、いかに現在のテレビが堕落したかが分かる。今の時代にこういう番組を作る余裕は全くないだろう。

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ジャズ・ピアニスト、山下洋輔の文庫本。どれも面白い。稲垣足穂の『人間人形時代』


 その中の一冊『ピアニストを笑え!』の中のオオトカゲ、コンプレックスの導入部はこんな感じで始まる。
「年齢に関係なく、人は常に反逆するものだ。早い話が、赤ん坊は『ギャオーッ』といいながら出て来るが、あれは決して、『皆さんおはようございます』といっているのではない。さあ、何がなんでも逆らうぞ、といっているのだ。」
 スピード感があり、とびきりのローラーコースターの様に急上昇急下降を繰り返し、時に回転やひねりも入る。力任せで強引だが、けれどもインテリジェンス溢れる文章でもある。ただ、不用意に読んでいると、突然コーヒーや水割りを吹き出すことになるので要注意である。読者に突然災難が訪れる文体でもある。
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 稲垣足穂という作家を知っているだろうか。工作舎から1975年に出た『人間人形時代』という摩訶不思議な本がある。黒い装丁の本の中央には直径7ミリ (カバーは12ミリ)の穴がズボッと開いている。「本は暗いおもちゃである」というタルホの言葉に則りデザイナーの杉浦康平氏と編集者の松岡正剛氏が作った伝説の奇書である。「カフェの開く途端に月が昇った」「人間人形時代」と続き、後半は半分が「宇宙論入門」という構成。宇宙に興味のない人は、後半は退 屈だろうが、真ん中の「人間人形時代」の短いエッセイ集は面白い。「香なき薔薇」や「ゴム臭いボートの話」、地球温暖化について書かれた「電気の敵」とい う不可思議な文章等は、なかなか読ませる。「模型少年」「天体嗜好」「飛行家願望」「少年愛の抽象化」と編者の松岡正剛氏は書いているが、どこからでも読めるが、どこを読んでもこの本の装丁のように、真ん中に穴があいていて、心にストンと落ちるのではなく、まるで透明人間の様に通り抜けてしまう不思議な本 なのだ。この穴は、宇宙の穴であると同時に、彼のいうAO感覚という、口から肛門へ続く穴でもあるのだろう。この本が書架にあるような輩は、間違いなく変わりものといわれるのを覚悟で読んで欲しい。古書店を探せばあるかもしれない。
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 学生になる前の浪人時代の話を書こう。当時は、ジャズに没頭していて、マイルス・デイビスウェイン・ショータージョン・コルトレーンなどを聴いていたのだが、ある時、美術研究所で知り合った友人に渋谷の恋文横町(戦後米兵相手に恋文を書く代書屋があった)の、もっと上の方の百軒店の道頓堀劇場の向かい辺りにあった「SAV サブ」というロック喫茶に連れて行かれた。彼はジャニス・ジョプリンが大好きで、確か始めて行った時に『PEARL』をリクエストした。「Janis Joplinジャニス・ジョプリン)Move Over」は、最もお気に入りの曲。この店は私も気に入って、度々通った。


 その先の「喜楽」の焦がしネギが乗ったモヤシソバを食べたり、先の角を左折した所にあるレトロなレストラン「ムルギー」で、当時は珍しいゆで卵のスライ スがのった辛口のインドカレーを食べてから、どっぷりとジャニスのブルースに浸ったものだ。ハシゴのような階段を二階に上ると、薄暗いというよりは真っ暗に近くて、真夏の陽光降り注ぐ道玄坂から入ると一瞬何も見えなくなった。明るい店内を見たことがないので、どんな内装か記憶がないが、当時のロック喫茶や ジャズ喫茶は、今では許可にならないぐらい薄暗いものだった。とても読書できる様な明るさではなかった。
「サブ」の帰りに「珉珉羊肉館(ミンミンヤンロウカン)」で、サンマーメンに餃子なんかも食べた。焼餃子の元祖ともいえる店で、最初は恋文横町にあったそうだ。ニンニクを入れたのもそこの亡き親爺さんのアイデアだとか。現在は道玄坂に移ったようだ。
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 百軒店には、ブラックホーク、B.Y.G.とかロック喫茶がたくさんあったと記憶している。なんとB.Y.G.は、まだ営業してるようだ。 BEGINなどもライブをやっているとか。その隣にある、当時は通り過ぎるだけだった名曲喫茶「ライオン」もまだ健在のようだ。百軒店のある円山町は花街で、芸者置屋もあった。働き始めた頃に社長と飲んだ帰りに置屋前の元甲子園児の屋台でラーメンを食べ、ちょうど通りがかったタクシーを拾うと、中から私たちよりがたいのでかい屈強な派手なワンピースを着た御釜が二人降りて来た。ギョッと思いつつ乗り込むと、車中はむせ返る様な香水の匂いが充満していた。運転手も苦笑いしていた。
 数年後、社会人になってからだが、やはり渋谷を仲間と飲み歩いていたら、前から泣きそうな表情(かお)をした背の高い美人が歩いてきた。どうしたの?といって飲みに誘ったらついてきた。新潟出身のニューハーフだった。悩み事から身の上話まで、色んな話を聞いた。名刺ももらったけど、そっちの趣味はなかったし忙しかったので、彼女の店には行かなかったが。色々な生き方があっていい。
 浪人時代から学生時代になると、渋谷からは遠ざかり新宿のジャズのライブハウス「ピット・イン」や、ジャズ喫茶「DIG」や「DUG」などに顔を出すようになったが、ジャニス・ジョプリンというと、「サブ」のあった渋谷の百軒店と、はす向かいのレコードショップでLPを買った帰りによく立ち寄った「タイム」のあった下北沢をやはり思い出す。

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当時は毎晩のように聴いていた


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 その後は、ジョージと呼ばれた吉祥寺近くに住んで、また「OUTBACK」や「ファンキー」などジャズ喫茶通いの日々だったが、時々思い出したように ロック喫茶の「赤毛とそばかす」にも通っていた。JBLアルテックのスピーカー、マランツマッキントッシュのアンプは憧れの的だった。大学に入ってバイトして憧れのラックスのアンプを買った夜は、一晩中聴いたものだ。昨今のCDやMP3の安っぽい音を聴いていると、それに連れて歌手や音楽そのものも安っぽくなってしまったのかなあなんて思ったりもする。70年代は学生運動が吹き荒れた60年代からの解放の時代だった側面もある。我々の世代は、 しらけ世代、三無主義(無気力・無関心・無責任)などともいわれたが、なんだかみんな緩くなって、サブカルチャーが活き活きしていた時代だった。
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 保守的な年寄りには我慢のならない若者達だったろうが、1930年代から後藤新平等が唱え、芽生え始めたデモクラシーを踏みにじり、軍国主義に走り、310万人もの戦没者を出した連中にいわれる筋合いは全くないものでもあった。『戦後史の正体』(創元社)の孫崎享氏が記しているように、戦争の責任を問わず、米隷属に走ったことで、日本の独立は失われてしまった。その挙げ句の果ての福島第一原発事故である。村上春樹さんが「カタルーニャ国際賞スピーチ(書き起こし)」で述べた様に、「効率=金」の亡者と化した日本人が、この人類史上最も未曾有の大事故を招いたのである。我々が失ったものは、計り知れなく大きい。これからの数年間で、それを思い知ることになるだろう。今こそ愛が必要とされる時代もない。


               ◆
 今日はここまで。次回は、春に似合うアルバム。私の一推しはこれ。『April in Paris』

77年の3月、羽田空港からロンドンへ、空中分解しそうなアエロフロートで飛んだ。Queenよ永遠に

 村上春樹夫妻に色々悩みを打ち明けていた時に、「こんな狭い日本でうじうじしてないで、海外でも歩いてきなさいよ」と言われたことがあった。まあ、そんな助言もあって、私は77年の3月大学3年の春休み、アルバイトで貯めたお金や亡き祖母が私のために貯めておいてくれた預金等を元に、目出たく羽田空港からソ連アエロフロートでロンドンへ旅立った。モスクワ経由のアエロフロートを使ったのは一番安かったから。しかし、後方の窓際の席だったのだが、なんと隙間風が入って来るのだった。雲海が遥 か下に見える高度になると、隙間風の入る辺りのガラスに霜が付いた。隣には日本人の彼女にプロポーズしに行ったが、父親に外国人に娘はやれないと断られ (父親は恐らく太平洋戦争で米英と戦った人だろう。こういう例を少なからず知っている)、傷心を抱えて帰国する英国人の青年がいた。その彼が指差した天井のパネルはビスが取れてブラブラしていた。空中分解しなければいいなと本気で思った。
               ◆
 薄らと髭の生えた美しいロシア人のスチュワーデスが、ワゴンでお菓子やらジュースやらを売りに来たが、ほとんどの人は買わない。すぐに機内食の時間になるのが分かっているから。その機内食の記憶がない。まあ、羽田で積んだのだからそう酷いものではなかったと思うが、記憶に残る程のものでもなかったということだろう。幸い飛行機は乱気流に遭うこともなく、モスクワのシェレメチボ空港に下りた。驚いた。滑走路は除雪されていたが、真っ白。周囲は高い雪の壁 だった。更に驚いたのは、飛行機から乗り換えのターミナルビルへは100m位歩かなければならないのだが、両側に機関銃を持った兵士がズラッと並んでいるのだ。引き金には人差し指が掛かっていた。Oh my Buddha!
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 ターミナルビルの待合室は、体育館の様に天井の高いホールだったが、殺伐としていた。ソファーもベンチもない。小さな書架があって共産党の小さな冊子が並んでいた。もちろんロシア語なので読めない。トイレは入り口とは対角線の先にあったが、小銃を持った兵士付きで行かなければならなかった。実はこの前年の秋に、MiG-25戦闘機でベレンコ中尉亡命事件というものがあったのだ。当時のソビエト連邦の現役将校が、最新鋭の戦闘機で函館空港に強行着陸したのだから、驚天動地の世界的な大事件であった。その数ヶ月後だから、異様な警備があったのは当然だった。緊張感に満ちあふれた退屈な待ち時間の後で、別の機に乗り換え私はロンドンに向かった。幸いな事に、乗り換えた機体は隙間風がなかった。例の機体は、隙間風を入れながらパリへ向かったらしい。
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ロンドンとパリの写真、混ぜこぜ


 ロンドンのヒースロー空港には、当時英国に留学していた彼女が迎えに来てくれていた。私は彼女が暮らしている郊外のフラットの隣の部屋を借りた。二階建ての煉瓦造りの長屋が通りに面して連なっているというロンドンの典型的な造りで、私の部屋からは並木のある表の通りが、彼女の部屋からは中庭が見え、その向こうには向かいの長屋の中庭が見えた。霧のロンドンといわれる様に、毎朝目覚めると外は霧がまいていて、たくさんのカモメが屋根に留まっていた。横浜港にもカモメはいるが街の中には入って来ない。なぜロンドンのカモメは住宅街にいるのだろうと不思議に思った。私は彼女の部屋から見える、その中庭の風景が好きだった。木塀越しの向かいの家の中庭も、隣の中庭も、典型的なイングリッシュガーデンで、バラの木は必ずあった。ガラスの小さな温室がある庭もあった。短い夏にはパンジーやスミレやマーガレットなどの花が一斉に咲くのだろうと想像した。向かいの家にショートカットの金髪の主婦がいた。彼女は私が滞在した5週間程の間、毎日赤いセーターと緑色のセーターをずっと交互に着回していた。霧が巻く早朝には、鉛蓄電池の電気自動車の牛乳配達の車がウィーンと音を鳴らしてやってきた。1パイント瓶(約560ml)だったか、ミルクマンが配達するそのミルクは、上にクリームが溜まっていて、それは猫の取り分なんていわれていた。鳥がつついて食べていたという話もあった。
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 イギリスへ行く前に、マナーの煩い国だとさんざん聞かされたので、当時話題になっていた『ティファニーのテーブルマナー』という本を買った。東京でもナ イフとフォークが出る洋食屋は多かったので、これで苦労することはなかったが、滞在していたフラットに、たまたま作業に来た水道屋の親爺に、知らないだろうという様な感じで使い方のレクチャーを受けた。それより実際に見て驚いたのは、レイディー・ファースト(ladies first)だった。渡航前の彼女の手紙でも、気をつける様にと。けれども実際行ってみると、それはあらゆる場面で思った以上に徹底していて、私を当惑させた。後から来た女性のためにドアを開けて待つなんていうのは序の口。パリへ長距離列車で行った時のことである。私達のコンパートメントに、美しいブロンドの女性が乗って来た。彼女は足下にスーツケースを置いて座り、おもむろに私を見た。ドキッとしてボーッとしていると、隣の彼女が囁いた。「スーツケースを棚に上げてと言ってるのよ」。とっさに私は「ソーリー」と言って上げた。彼女は「サンキュー」と言って微笑んで読書を始めた。やれやれ。
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 彼女の話では、食事中などにトイレに立とうとすると、男共は全員立って見送り、帰って来ると再び全員立って迎えるのだそうだ。最初は放っといてくれよと思ったが、すぐに慣れたそうだ。こういう若い時に苦労して身につけた習慣というのは抜けないもので、社会人になっても女性がコートを脱ごうとすると後ろからそっと取ってコンシェルジュに渡すとか、道路を歩くときは必ず女性を車道の反対側にとかしてしまうのだった。しかし、それで得をしても損はしたことがなかったと思うので、良かったということにしよう。もっとも、後日レイディー・ファーストは、中世に暗殺が横行したため盾として女性を前に置いたという説を読んで、英国の貴族や騎士は男の風上にも置けない奴らだななんて思ったりもしたが……。
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 アングロサクソンは食事や料理というものを憎んでいるじゃないかとさえも思ったが、英国に旨いものがないわけじゃない。パブへも行った。さすがにビール は、ラガー、エール、ビター、スタウトなどあり、どれも旨かった。ミート・パイにカッテージ・ポテトとキドニー・パイは気に入ったさ。当時はまだ手作りで、冷凍物などはなかったのだろう。あれは紳士の食べ物ではないと言われるホウレン草のキッシュも気に入った。ロンドンのパブは、ホワイトカラーとブルー カラーに別れている店もあった。よく話のネタになるフィッシュ・アンド・チップスの店にも行った。なんの飾り気もない料理だ。後ろのテーブルで労働者がひとりで夕食を食べていたが、メニューはローストされた鶏一羽と周りに山の様なフライドポテトがあるだけだった。それは食事というより餌を食べているという光景だった。
 定食屋にも行ったが、ラムチョップとフライドポテト、フライドオニオンとトマト。あるいは、味が抜ける程くたくたに茹でられた温野菜。それにパン。アングロサクソンの食事は実に慎ましい。インド人がやっている店のサモサはお気に入りでよく買った。中華も化学調味料が大量に入っていなければそれなりに。唯一凄 いと思ったのはスーパーにあるフルーツ入りのヨーグルト。当時の日本では苺やパインぐらいしかなかったが、ブルーベリー、ブラックベリー、カシスなどもの凄く種類が豊富だった。ある日、ダブルデッカー(二階建てバス)に乗ったら、前のおばさんが、まるで馬の様に皮を剥いたニンジン一本をバリバリ食べていて驚いた。
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 滞在した当時、ロンドンには後乗りでドアのない飛び乗れる旧タイプの二階建てバスと、自動ドアで前から乗る新タイプのバスが走っていた。ある時古いタイプのバスの二階に乗ってロンドン市街を走っていた時だ。ハイドパークの近くだったと思う。二階には私と彼女と老人が一人だけだった。後ろの老人が突然なにかしゃベリ出した。初めは全く気づかなかったが、彼女が気づいた。「名所の説明をしてくれてるのよ」と。大きな独り言ではなかったのだ。その老人は私達が下りるまでずっと説明を続けた。かといってそれ以上何かを語るわけでもない。微笑みもしない。下りるとき私達は彼にお礼を言ったが、その時だけ少し微笑んだ様な記憶がある。少しだけイギリス紳士というのが分かった気がした。後で旅をしたブラジルの人々に比べると、実に面倒くさい連中だ。
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 しかし、こういう言葉がある。アングロサクソンやゲルマンは、なかなか心を開かない。でも一旦親友になったら固い信頼を結べる。ラテン系の連中は、すぐに友達になれる。しかし、本当に信じあえる親友になるのは難しい。でも親友になったら家族同様だと。さて、我々アジア人は、日本人はどうだろう。
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 百貨店はハロッズも行った。ロールスロイスで乗り付け、毛皮のコートを着た婦人が降りて来るような店だ。もちろんドアマンが恭しく迎える。地下の食品売り場のディスプレイが度肝を抜いた。牛肉やラム肉、野うさぎで飾られたツリー状のディスプレイ。同じ様に魚介類を積み上げたディスプレイは、日本にはないもので、マニエリスムジュゼッペ・アルチンボルドを彷彿させるものだった。
 もうひとつ、1875年日本や東洋の装飾品、織物、芸術工芸品を輸入販売する専門店として開業し、後に、「リバティ・プリント」と呼ばれる生地で有名になったリバティ百貨店の方が、私には魅力的だったね。近代デザインの父とも呼ばれる同時代のウィリアム・モリスと共に、生物描写、特に植物をデザインに活かす新境地を開いた。彼らは、1862年のロンドン万国博覧会で日本館の出品にかなり影響されたようだが、逆に大正時代の柳宗悦による民芸運動にも大きな影響を与えたといわれている。
女性店員が"Can I help you madam?"と聞くと彼女が"Just looking now, thank you."と応えていたのが恰好よかったが、ドラッグストアで石けんを探していて、「石けんないね」と彼女が言ったら、若い男の店員が「石けんならあります」と流暢な日本語で応えたのには驚いた。なにせ当時は日本の電化製品が上陸し始めたころで、二階建てバスにSANYOのロゴがあったぐらい。その後の和食やアニメの日本ブームも、まだなかったし、日本語を話せる英国人は稀だった。
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 当時カウンター・カルチャーのメッカとして注目されていたソーホーへも行った。古書店街があるセシル・コートにも行って、ボタニカルアートの画集や、以前『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で紹介した1907年に出版された『不思議の国のアリス』を買った。素朴な木版の絵が気に入って"Grand Tarot Belline"という中世のタロットカードのレプリカも買った。オリジナルは、かのナポレオンを占ったという逸品らしく、レプリカとはいえ、コレクション・カードとしても名品中の名品らしい。カードの側面は金箔貼りで、ケースも豪華仕様だ。占いはやらないし信じもしないが、これはいい。

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ナポレオンを占ったという"Grand Tarot Belline"の複製


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 彼女が大学のレッスンがある日は、一人で街も歩いた。チューブ(地下鉄)の切符売り場の親爺に"thirty"の発音を直されたのには参った。あんたが来日したら、日本語の発音を徹底的に直してやるぜと思ったが、来るはずもなかったね。一人で入ったサンドウィッチの店は良かった。まずパンは大好きなライ麦パンを選び、ローストビーフかラムにレタス、トマト、オニオン、ピクルス。あるいは、スモーク・サーモンとチーズとかを選んで行く。粒マスタードサウザンアイランド・ドレッシングをたっぷりかけてもらってね。チェーン店ではなかったし、自分で自由に組み合わせられるのがよかった。エリザベス女王御用達とかいう、ミントの効いたチョコレート、アフター・エイトも気に入った。昔、チョコレートの本を作った時に、コートドール初め撮影に使った世界中の高級チョコレートを10キロもらったことがある。ウィスキーのつまみとして、そのまま食べたり、スウィーツにして家族四人で食べ切るのに半年かかった。
 音楽は、イギリスはやはりロックのメッカという感じだった。"Biba" やソーホーなどは、長髪にロンドンブーツの若者がいた。当時はハードロックの全盛期。ジャズだけでなく、ハードロックやヘビーメタルも聴いたものだ。
 BABYMETALの。最近私が最も気に入っているヘビーメタルのバンドである。聴かない日はないほど。『Gimme chocolate!!』、『イジメ、ダメ、ゼッタイ - Ijime,Dame,Zettai』は必聴。美少女3人のKAWAII METALが世界を変えるかもしれない。戦争が始まれば、真っ先に弾圧されるのが音楽。私達は戦争で利益を得ようとする悪魔の集団から彼女たちを子供達を守らなければならない。
 興味のある方は、私のブログ記事『[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達』をご笑覧あれ。非常にアクセスの多い記事です。


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 ハイド・パーク近くのロイヤル・アルバート・ホールに、 オスカー・ピーターソンのコンサートを聴きに行った。ホールは1871年オープンでヴィクトリア様式の荘厳な建築。クラシックの演奏はもちろん、ジャズや ザ・ビートルズザ・ローリング・ストーンズ、ジミー・ヘンドリックス等のコンサートも行われた。ジャズのコンサートは、イイノ・ホールや厚生年金会館、 一橋大学の兼松講堂などで聴いたことがあったが、この様な格式のある大ホールでジャズのコンサートが行われることに驚いた。私達は赤いカーテンの掛かるボックス席の上のイス席だった。値段の高い席には、着飾った紳士淑女が座っていた。オスカー・ピーターソンのピアノは、本当に素晴しく、それは「ピー ター・キャット」やアパートのオーディオで聴くものとは雲泥の差があった。やはり生に勝るものはない。

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 1975年にクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットした。スタイリスティックスの『愛がすべて』。76年にはアバの『ダンシング・クイーン』、オリビアニュートンジョンの『カントリーロード』。77年には、ザ・ビー・ジーズの『サタデー・ナイト・フィーバー』、クイーンの『ウィー・アー・ザ・チャンピオン』、スティービー・ワンダーの『愛するデューク』、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』、アース・ウィンド・アンド・ファイアーの『宇宙のファンタジー』がヒットした。日本では、ピンクレディー全盛期で、山口百恵沢田研二ユーミンなどが活躍していた。

 こんな素晴らしいドキュメンタリーがあったのだね。フレディ・マーキュリーの生誕から亡くなるまでの全てが観られる。確かにBIBAの店員は皆美しかったし個性的だった。フレディはもちろん母やメアリーや最後の恋人(男)の証言も。ミック・ジャガーポール・マッカートニー、エルトンジョン、ライザ・ミネリデビッド・ボウイ。彼とオペラの出会いも。最期の時も。最高すぎる。フレディよ永遠に。
 そして、この番組で分かったこと。私が5週間のロンドン在住当時に、BIBAで同棲中の恋人メアリー・オースチンに遭っていたかもしれないのだ。王立音楽院に留学中の彼女とBIBAにショッピングに行った。そう大きくはないビルなので全てを回り、彼女はチャイナドレスの上着を買った。紺がベースでバラの花が散りばめられ、縁が赤のパイピングだったと思う。彼女はこれを羽織り、スリムジーンズに紺のピンヒールを履いて二人でパリへ旅をした。パリジェンヌが振り返るほどの美貌とスタイルの華のある女性だった。買った店がメアリーがいた店かもしれない。当時の彼女やロンドンの日々を懐かしく思い出す。
 ボヘミアン・ラプソディーはマイノリティを歌ったもの。誰しも人生の中でマイノリティになることはある。でも、どんな人もチャンピオンなんだ。
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 前述の様に、イースターの休暇に彼女と列車でパリへ向かった。ドーバー海峡を、大きなフェリーに列車を積んで渡った。英のドーバーから仏のカレーまでは1時間半ぐらいの乗船時間だが、フェリーに列車を積む時間や、下ろして連結する時間がけっこう長く、カレーではイミグレーションも通らなければならなかったため、思ったよりも時間がかかった。乗客は列車から降りて船室に入る。夜だったが、その日のドーバー海峡は荒れて船は激しく揺れた。私は大丈夫だったが、トイレは満員だったと思う。
 フランスに入って夜が明けた。地平線まで赤土の畑が続き朝霧の中の枯れ木立の中に白壁の農家が見えた。バルビゾン派の絵の様な風景の中を、列車はゆっくりと進んだ。自転車程の速度で走っている時に、線路脇にある一件の農家が見えた。質素な赤煉瓦の家に囲まれた中庭には鶏やアヒルや牛、犬や猫がいて、馬小屋もあった。長い膨らんだスカートをはいた農婦が洗濯物を干していた。朝焼けの斜めの光を浴びて、それはまるでミレーの絵の様な風景だった。
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 列車は8時間ぐらいかかってパリのノード駅に着いた。最初のホテルは、パリ東部の坂を上がった所にあるバックパッカーが多い、けれども小奇麗な安ホテルだった。なにが良かったといえば、そのホテルの朝食。バゲットにバターを塗り、摺り下ろしたリンゴに蜂蜜を練ったものをたっぷりつけて、カフェオーレで流し込むだけのものなのだが、そのバケットとリンゴに蜂蜜を練ったものが異常に旨かったのだ。友人のフランス人に言わせると、当時はパリでもまだ石釜でパンを焼いている店が多かったので、そりゃ旨かっただろうということだ。毎朝、一人でバゲット1本以上を食べていたら、ホテルのマダムが、そんなに美味しい? と言った。それぐらい旨かった。ロンドンからパリに着いて一番衝撃的だったのは、何を食べても美味しいということだった。地元の人が行くビストロのオニオンスープやカスレ。節約のためにデリカテッセンで買った豚足のゼリーよせ。蚤の市で食べたクレープ・シュゼット。長いバゲットにハムやチーズや野菜をたっぷりと挟んだサンドウィッチ。ひとつとして不味いものはなかった。
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 若くて体力もあったし、何より好奇心が旺盛だったので、パリ中を回った。メトロも使ったし、シトロエンプジョーのタクシーもよく利用した。そして、なによりよく歩いた。ノートルダム寺院ルーブル美術館、ポンピドーセンター、エッフェル塔凱旋門、クリニャンクールの蚤の市、モンマルトル寺院、ショパンの墓のあるペール・ラシェーズ墓地、シャンゼリゼ、サンジェルマン・デ・プレ、オペラ座界隈、ムーラン・ルージュセーヌ川畔等々。今はどうか知らないが、犬の糞を踏まずにパリの街を歩くのは、かなり難しかった。特にモンマルトル界隈では、前を歩いていたフランス人のカップルの男の方が、もろに踏んだのを見た。ユトリロが描いた石段のある小路だったと思う。サン=ルイ島だったかの小さな公園で、遊んでいた地元の子供達と話したり、モンマルトルの丘でスペインから来た修学旅行の女子高生と話したり、カフェで通りを歩く人を眺めたり、それは楽しかった。
 ちょうど生牡蠣のシーズンで、カフェやレストランの店頭には沢山積んであり、時折店員が冷水をかけていたが、その漂う臭いで、これは間違いなく腹を壊すなと食べなかった。あらためて地図でパリを見れば、信州以上に海なしのど真ん中ではないか。パリジェンヌは、こんなものを食べて腹を壊さないのだろうかと思った。
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 当時、開館したばかりで、パイプが剥き出しの前衛的な建築で世界の話題をさらったポンピドー・センターは、最も行きたいところだった。私が観たかったのは、マルセル・デュシャンの遺作、『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』 (Étant donnés: 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage) だった。スペイン・カダケスの古い木の扉の覗き穴から中を見ると、右奥には光の効果によって実際に水が流れているかのように見える滝があり、その風景の中に左手でランプを掲げた少女の裸体が性器もあらわに横たわっているという立体作品。現代芸術の分野で、コンセプチュアル・アートの先駆けといわれた彼の、 その作品がどうしても観たかったのだ。他にも現代芸術の作家の作品がたくさんあったが、やはりこの作品が強烈に心に残った。ルーブルの、ミロのビーナスモナリザよりもね。彼の墓碑には、「されど、死ぬのはいつも他人」と刻まれているという……。この作品は、フィラデルフィア美術館の永久展示となってい る。
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 行きたいところがパリの北西部に多かったことから、途中でホテルを変えた。二度目のホテルはムーランルージュの近くの、やはり安宿だった。深紅のベッドカバーのダブルベッドが、やたら大きかった。夜になると階段を上り下りする男女の声が騒がしいホテルだった。翌日出かけると、歩道に何人ものセクシーな女性が立っていた。見ると手に手に私達が泊まっているホテルのカギを持っているではないか。その上、ホテル近くのナイトクラブの客引きの男には、卑猥な日本語で入店を誘われた。そこは娼婦街だった。笑った。
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 クリニャンクールの蚤の市も面白かった。ホテルの所同様に、治安がいいとはいえない街だったが、今程移民も多くはなかったし、危険を感じる程ではなかった。アンティークはもちろん、古着から古書まで色々あった。お金がないので見るだけだったが、それでも充分に堪能できた。アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー、アルフォンス・ミュシャの ポスターは、欲しかったがとても手が出る値段ではなかった記憶がある。他に記憶に残っているのは、銀食器や家具。アンティークのミニカー・コレクション。 ミニカーというと日本では子供のおもちゃだが、欧州では紳士のコレクション・アイテムでもある。蚤の市では買わなかったが、ロンドンで二階建てバスのミニ カーを二台買った。

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上の二台が、当時買い求めたダブルデッカー。銀色の方は、"The Queen's Silver Jubilee London Celebrations 1977"と書いてある特別車。手前は、ずっと後になって子供達をだしにして買ったもの。英国のLLEDO社のDAYS GONEシリーズ。今回、ダブルデッカーを探すために倉庫をあさったが、ミニカーの余りの多さに気を失いそうになった


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 ロンドンにしてもパリにしても、東京の様に10年経つと街の風景が一変するということはない。ブラジルもそうだった。新しい建築物は新市街にあるが、旧市街の古い建物は内装は変わっても外装は変わらない。泊まったホテルの壁も石の部分は相当古く、彼女と何百年前のものなんだろうねと話した記憶がある。映画『戦場のピアニスト(THE PIANIST)』でも描かれたように、ポーランドワルシャワ歴史地区は、ドイツ軍の爆撃により八割が破壊されたが、「歴史を奪われた国民は、存在しないも同然だ」と、煉瓦のひびに至るまで、ほぼ完璧に復興されたという。愛宕山から撮影された幕末の江戸の写真を見たことがあるだろうか。黒光りする瓦が連綿と続く世界に誇れる美しい大都市だった江戸が、東京と名前を変えて、欧米コンプレックスに侵された薩長の田舎者により猥雑な極東の街に変わっていった。東京大空襲で焼け野原になった後も、壮大な都市計画等全くなく、ほぼ無計画に増殖して今日に至る。そして今、東京は放射能汚染により、その歴史を終えようとしている。大伴克弘の『AKIRA』に描かれたネオ・トウキョウが、そう遠くない未来に現実のものとなるだろう。中国に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という諺がある。歴史を疎んじ捏造し、歴史に学ぼうとしない国は、いずれ滅びる。
 著作権満了のナショナル・ジオグラフィックの写真で作ったスライドショー。
【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平
 モボ・モガに浮かれた花の都東京を中心として日本は、後藤新平が亡き後、急速に軍国主義化していった。今現在が、非常にその頃と似ている。
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 学校で学んだ世界史や日本史というものは、時の国家や権力者に都合がいい様に捏造されている。欧州の世界史というのも例外ではない。古くは西葡蘭。後には英米仏の植民地戦略が、軍事だけでなく情報操作、思想操作、愚民化政策などにおいて、いかに巧妙で古い歴史があるかは、その気で情報収集すればすぐに分かることなのだが。受験勉強でいくら高得点を取っていい大学へ行っても、決して事実を見ることはできないし、事実を見る目は育たない。欧米による愚民化政策と教育の賜物が今の日本であり、その結果の原発事故なのだ。TPPは、満身創痍の日本から最後の富を収奪する総仕上げだ。いい加減自分の頭で考え行動する人間になるべきだ。
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「可愛い子には旅をさせよ」という諺がある。親元で甘やかしていないで、世間の厳しさを体験させよということだ。実際、南米アマゾンの放浪で は、世間の厳しさどころか、命の危険にも晒されたが、たった200日余りの放浪でも、10年分以上の経験をさせてもらった。南米では、リタイアして悠々自適の旅をするマイアミの老人の団体などに出逢った。それも悪くはないが、国内外問わず、旅は若い時にした方がいい。ツアーではなく、人や自然と自由に交わる放浪のひとり旅を。ひとりで行けば危険も伴うが、こちらが心を開けば相手も警戒を解いて受け入れてくれる。アマゾンで貧民街に居候したり、ジャングルの奥地の日系移民の農場を訪ねたり、ボリビアの大平原で川船で暮らす家族を訪ねたり、貴重な経験を積む事が出来た。それはお金や物には代えられない財産となった。
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 今年(2013)のノーベル文学賞、春樹さんは英のオッズでトップだったそうだが、結局カナダのおばさんになった。彼女の旦那が「カナダには10人以上 彼女よりいい作家がいるのに信じられない」という様なことを言っていたが、ノーベル文学賞と平和賞は、パロディか悪い冗談ぐらいに思っていた方がいいようだ。この両賞ほど政治的に利用されて来たものはないからだ。
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次は、『春樹さんと本と学生時代に読んだ本について。僕は自転車と雑学が好きだった』

夏に似合うジャズアルバム。「ピーター・キャット」の気怠い夏

 最高気温36度の信州で書くには絶好のテーマかもしれないが、脳がメルトダウンしている。暑すぎるせいか、例年より早く妻女山山系のオオムラサキもほとんど姿を消してしまった。翅がボロボロになってもまだ求愛ダンスを続けるオオムラサキのペアを見て、荘子の『斉物論』にある「胡蝶の夢」という寓話を思い出した。荘子が夢の中で蝶になり、空を舞って楽しんでいると目が覚めてしまう。すると、自分が夢を見て蝶になったのか、蝶が夢を見て自分になっているのか、どちらか分からないという話だ。夢と現(うつつ)の区別がつかないことの例えや、人生の儚さの例えである。大発生したかと思うと、アッと言う間に姿を消す生態や、蝶の予測できない不安定で気まぐれな飛び方から思いついたものだろうか。オオムラサキやら、今年はほとんど見られなかったゼフィルスが、来年は多く発生してくれることを祈るのみだ。奇形が一頭も見られなかったのは幸いだったが。
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 大学一、二年は国分寺、三、四年は国立だったが、一年の夏休みは以前書いた様に、雑誌『non-no』など複数のバイトに明け暮れた毎日だった。それもあって9月から「ピーター・キャット」のアルバイトを始めたわけである。というわけで、夏休みに「ピーター・キャット」のバイトをしたのは二年のときだった。帰省する学生も多いので、店は比較的暇だった様な気がする。夏休み中どっぷり田舎に帰るという学生はほとんどいなかったのではないだろうか。一週間から10日ぐらい帰省するというのが一般的なパターンだったと思う。アルバイトもあったし。
 帰省しても高校時代の悪友と再開するというぐらいがわずかな楽しみだった。親友の家に集まって、ビールを飲みながら、田圃の蛙の合唱をBGMにお気に入りのジャズアルバムを聴く。そんな毎日だった。皆が混雑する旧盆に帰省するとも限らないので、思いついて友人のアパートをふらっと訪ねるといないなんてこともよくあった。なにせ電話も携帯もメールもなかったわけだから。毎晩集会所に集まる猫達の方が、よほど情報網が進んでいた時代だ。
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 話が逸れるが、猫がらみ。私の趣味のひとつに「猫をからかう」というのがある。高度な技術と哲学を要する高尚な趣味である、わけがない。社会人になって南米に行く前に、参宮橋の一階に大家さんのしなびたおばあちゃんが一人で住んでいる家の二階に間借りしていたことがある。その北側に小さな砂利の駐車場があって、そこが夜中になると近隣の猫の集会場になっていた。これの観察は生物行動学的にもなかなか面白かったが、あるとき邪悪な心が芽生えた。ドライのキャットフードを買って来て、そっと窓を開けて集会の真ん中にバラバラッと大量に投げてやるのだ。突然空から嫌いな雨ではなく餌が降って来たものだから、 集会どころではなくなる。もうめちゃくちゃである。面白かったが、こんなことを続けていたら、餌どころかお嫁さんも優しい飼い主も全て空から降って来ると思う様になるのではないかと思い止めた。優しい恋人が空から降ってこないかな……。
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 夏に似合うジャズアルバムといっても人それぞれだろう。意外なアルバムを挙げる人もいるだろうと思う。夏には各地でジャズ・フェスティバルが行われるので、そのイメージも強いかもしれない。私も80年代前半は、地元の友人達と信州斑尾高原のジャズフェスに通ったものだ。爽風の吹く信州の明るい高原でビールを飲みながら聴くジャズは、地下室の薄暗い「ピーター・キャット」で聴くそれとは、また違った趣があっていいものだった。往年のB.B.キングの演奏などは真昼の正夢の様だった。
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アストラッド・ジルベルト/ゲッツ & ジルベルト/オスカー・ピーターソン/セルジオ・メンデス
ガトー・バルビエリ/アルバート・アイラー/マッコイ・タイナー/ウェイン・ショーター


「ピーター・キャット」で夏にリクエストの多かったアルバムといって最初に思い出すのは、やはりボサノバ。アストラッド・ジルベルトスタン・ゲッツとの共演による「イパネマの娘」をまず思い出す。『GETS/GLBERTO』も名盤だ。春樹さんお気に入りのスタン・ゲッツのサックスが朗々と流れる。ジャズギターの名手、ケニー・バレルの『BLUE Bossa』。真夏の気怠い午後に。ウェス・モンゴメリーの『Windey』は、爽やかな海辺の朝を思い出させる。よく当時のデパートやスーパーマーケットでも流れていたけどね。でも決してイージー・リスニングではない。これは聴いたことがあるという人が多いだろう。


 ジョー・パスの『Misty』。真夏の夜にカンパリソーダを飲みながら聴きたい。夏はジャズギターが合う。


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 来年(2014)は、ブラジルでFIFAのワールドカップの大会がある。大手広告代理店はこぞってブラジルブームを仕掛けるのは間違いない。作られたブラジルブームが起きるだろう。既に実力派℃-ute (キュート)の『あったかい腕で包んで』 も、ボサノバでリリース。驚いた。アイドルグループの歌とは思えない程いい。


 ボサノバ(Bossa Nova)とは、英語でいえばニュー・ウェーブ。つまり新しい波。1950年代後半にリオ・デ・ジャネイロコパカバーナやイパネマ海岸に住む裕福な家庭の学生やミュージシャン達の手で生まれた。最も有名なのは、やはりアントニオ・カルロズ・ジョビンだろう。80年代にリオの高層マンションのドミトリーに滞在したことがあるが、コパカバーナやイパネマの街のお洒落な風景は、その背後の山の急斜面にあるファベーラ(貧民街)のそれとは別次元のものだった。

神が造った庭園。その光と影。リオデジャネイロ」アマゾンひとり旅
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 日系人では、サンパウロ生まれの小野リサが一押し。四谷にある彼女の父上がやっていた店「サッシ・ペレレ」も何度か行った事がある。『イパネマの娘 小野リサ』は、彼女の魅力が凝縮されている。彼女のヴェルヴェット・ヴォイスを一度聴いたら、必ず虜になるだろう。


 ブラジルには、19世紀に生まれたショーロ(choro)という音楽がある。普通は親しみを込めてショリーニョという。ブラジルのジャズとも呼ばれ、即興性もある。アマゾンで停電した夜に、宿の向かいの家が泥棒除けにショーロを大音量で流していた。エキゾチックな調べが旧市街の壁に反射して、アマゾンの漆黒の空に消えて行った。代表的な曲のひとつ、『Roda de Choro - Noites Cariocas』。『Brasileirinho』

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 オスカー・ピーターソンの『Soul Español』は、ラテンナンバーばかりを集めたアルバム。彼の中では異色のアルバムだが、非常にいい。夏向きだ。『Mas Que Nada』 は、セルジオ・メンデスのものがなんといっても有名だが、「鍵盤の皇帝」と呼ばれたピーターソンのダイナミックにうねる演奏は、やはり圧倒的。魅力的だ。 このアルバムが店にあったかは記憶が曖昧だが、自分が買ったアルバムでも、春樹さんのOKが出れば営業中でもかけることができた。ビッチェズ・ブリュー以降のマイルスとか、ソロ・コンサート以降のキーズ・ジャレットとか、ダラー・ブランドとか、セシル・テーラーなどのフリージャズはもちろん論外だった が……。そういうのはアパートや他のジャズ喫茶で聴いた。オスカー・ピーターソン・トリオの『When Summer Comes』。なんて美しい演奏なのだろう。「ジャズに名曲はない、名演奏があるだけだ」という言葉を思い出す。
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 ガトー・バルビエリのテナーが切ない『Under Fire』は、春樹さんが買って来てリクエストが非常に多かったアルバム。聴き所は、やはりA面二曲目の『Yo Le Canto a La Luna(月に歌う)』だろう。大胆な性描写(バターを塗ってアナルセックス等)で話題になったマーロン・ブランドマリア・シュナイダー主演の『Last Tango in Paris』で彼の演奏が使われたためだろうと思う。男女問わず人気があったが、女性はどこに惹かれたのだろう。ガトー・バルビエリのむせび泣くテナーとジタンの煙とパリジェンヌのヌードと『gato barbieri - last tango in paris』。

(*YouTubeでご覧ください)
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 アルバート・アイラーは、享年34歳で、ニューヨークのイースト・リヴァーで溺死体で発見されたサックス奏者。基本がフリージャズの人なので、彼のアルバムは店にはたぶんなかったと思う。『my name is ALBERT AYLER』という風変わりなタイトルのアルバムで、その名の通り「私はアルバート・アイラーです。」という自己紹介から始まる。聴き所は四曲目の「Summer Time」。 これが聴きたくてこのアルバムを買ったといっても過言ではない。それほど素晴しい。寝苦しい熱帯夜に聴くといい。たぶん余計眠れなくなるが……。

www.youtube.com そんな夜はジンベースのカクテルがいい。ジンライム、ジンフィズ、ジンリッキージンバック、ネグローニ等がおすすめ。蒸し暑い夜にはジュニパーベリーの香りが合う。ジュニパーベリーは薬草でもある。利尿作用や殺菌作用があり、痛風やリウマチなどの関節炎に効くそうだ、だからといって飲み過ぎたら元も子もないが。
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 マッコイ・タイナーの『ATLANTIS』は、1975年のアルバム。A面は18分余り全て「Mccoy Tyner - Atlantis」 である。イントロはお寺の読経の鐘の様で、とても「ピーター・キャット」でかけられる様な曲ではないとも思えるが、マッコイのピアノとアザール・ローレンスのサックスが始まると、そうでもないのです。スリリングな疾走感がたまらない。アッと言う間の18分。これは店でかけたことがある。発売直後だったので、かけると気になったお客さんが、わざわざ席を立ってジャケットを見に来た事もあった。そんな時は思わずほくそ笑んだものだ。これは、春樹さんは買っただろうか。店にあったような記憶があるのだが……。
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 ウェイン・ショーター率いるWETHER REPORTの『MYSTERIUS TRAVELLER』。 忘れもしない、これは悪友N君が高校時代だったか「おまえこれ分かるか」と言って持って来たアルバム。今ならどうということもないが、当時は確かに斬新なサウンドだった。アマゾンの密林のシルエットに落ちて行くUFOの様なジャケットも新鮮だった。真夏の熱帯夜に聴くと不思議な爽涼感があった。「Nubian Sundance」という曲があるから、これはアマゾン河ではなくてナイル河なのだろう。しかし、私が思い出すのはあくまでもアマゾン河だ。作家開高健も愛したサンタレンの夕日を思い出す。


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 あれは一年の夏休みだったろうか。製図の基礎課題だったと思うが、B2のケント紙に目一杯製図で使う線種を上から10ミリ置きに描いて行くという、実に 単調で手間の掛かる課題があった。太線、中線、細線、破線、一点鎖線、二点鎖線等々。世界標準の製図の基本なんだが、やった人は分かるだろうが、大事だと分かっていてもこんな退屈で難儀な単純作業はない。皆で、これは一人でやったら気が触れるよねということで、一軒家の離れに間借りしていた「ピーター・ キャット」のバイト仲間のY君の部屋に集まってこなすことになった。
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 夏の暑い夜。ジャズをBCMに一斉に作業に取りかかった。最初は余裕で会話しながら順調に進んでいたのだが、深夜に及んで精神に異常を来す者が現れた。 余りの単純作業の馬鹿馬鹿しさに、なんの前触れもなくひとりが笑い始めたのだ。もういけない。笑いは伝染し訳もなく皆のたうち回って笑い転げた。泣きつかれると、 もう泣けない様に、笑い疲れるともう笑えないものだ。その後、黙々と夜が白むまで一片の笑みも会話もなく終わるまで作業が続いたのはいうまでもない。こういう作業は、CAD全盛の現代では既に廃れたものだろうと思っていたら、建築科に進んだ次男が同じ様な事をやっていて笑った。基本は大事なのだ。アナログに勝るものはない。
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真夏の夜の夢』 といえばシェークスピアだが、あれはいつの夏の夜だったのだろう。上野駅の不忍口のコンコースに上がった時だった、向かいの階段を金髪の美しい少女達が大勢駆け上がって来た。しかも、Hurry up!と必死に駆け足なのだが、信じられない程走る姿が美しい。慌てて改札を抜け、上野の森に消えて行った。なんだあの妖精達はと思ったら、その先の闇の 中に英国ロイヤル・バレー団の講演の看板が見えた。正に『真夏の夜の夢』だった。昔、代々木八幡の駅だったかな。向かいのホームの端っこでバレー教室の帰りの少女がふたり、裸電球のスポットライトの下で、その日教わったのだろうポーズの練習していた。あれも妖精の様で見とれた。余りに可愛らしくて思わず微笑んだものだ。美しいシーンというのは、何気ない日常の中にこそある。
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『Jazz On A Summer's Day 1960』 という映画がある。ジャズファンならぜひ観たい。セロニアス・モンクソニー・スティットアニタ・オデイ、ダイナ・ワシントン、 ジェリー・マリガンサッチモ、マヘリア・ジャクソン等々の素晴しい演奏や歌が聴ける。失われてしまったアメリカがそこにはある。

www.youtube.com まもなくアメリカは崩壊するだろうと世界の経済アナリスト達は言っている。もっとも日本はその前に、福島第一原発再臨界や再爆発。あるいは、大地震や大噴火で先に逝ってしまうかもしれないが。チェルノブイリでも、なんだ放射能も大したことないなと言っていて、5年後、6年後に壮絶なパンデミックが起きた。それでも日本の人々は、カタストロフィーの直前まで踊り続けるだろうけれど。安全性バイアス、同調性症候群、ダチョウ症候群にかかった人々を救うのは極めて困難だ。自分がそうでないと言える人は、既に汚染地を脱出しているだろう。首都圏も例外ではない。信州にも高濃度の汚染地がある。最終処分場も小諸にある。今の日本にもはや絶対安全地帯などない。
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「ピーター・キャット」の気怠い夏は、学生の夏休みが終わりに近づくと喧噪の日々が戻って来た。毎日の様に見慣れた顔が増えて来て、久しぶりに会った高揚感みたいなものが店中に溢れた。店は再び大賑わいになった。そんな蒸し暑い残暑の夜は、ソルティドッグやブラッディ・メアリーがよく出た。ソルティドッグに関しては、71年にグレープフルーツの輸入が自由化され、70年代半ばになると安く買える様になった影響が大きい。当時、一番お洒落な果物だったと思う。ムサビの女の子達が来ると注文していた様に、女性からの注文が多かった。一般的にはウォッカベースで作るけれど、私はむしろ古典的なジンベースの方が好きだ。もちろんグラスの縁には塩を付けて。もし熱帯夜だったら、少しジンを多めにして炭酸を加えてもいい。邪道だけれどね。
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今日はここまで。次回は学生時代に行ったロンドンとパリについて。

70年代の学生の自炊と外食。つまり食料事情について。抱腹絶倒の物語

 70年代の平均的な学生の一人暮らしというのは、たいていが四畳半か六畳のモルタルアパートだった。三畳に住んでいた強者もいた。賄い付きの下宿というのもあったが、数は少なかった。部屋はたいてい畳敷きで、小さな台所とトイレが付く。水洗がほとんどだったが、郊外ではまだ汲取も少なくなかった。 ワンルームマンションなどまだない頃だ。携帯はもちろん、電話も債券が高かったので入れているのは、クラスでは金持ちの芦屋出身のお嬢さんぐらいだった。 だから友人の所へも突然訪ねていったりした。不在ならそれまで。面倒だが束縛もなかった。その辺の犬や猫の様な暮らしだった。携帯がなかった当時、デートの約束等、皆どうしていたのだろうと、今になって思う程だ。彼女が家族と同居だと、母親ならともかく父親が電話に出たりすると、そりゃもう……。
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何を煮ているのだろう。怪しげな鍋だ


 当時のアパートは、小さな流しと、ガスコンロがひとつあるだけだった。四角いステンレスのカバーのものもあったが、鋳物のごついやつも普通にあった。流しはステンレスが多かったが、古いアパートでは石のものもまだあった。普通、調理器具は鍋とフライパンにトースターぐらいだろう。おっと、電気炊飯器も忘れてはいけない。それと電気ポットは、当時の学生の必需品だった。ひとり用の小さな冷蔵庫も必需品だったが、高いので古道具屋で中古を買った。調理器具ではないが、ベッドは病院用の畳のベッドを買った。2年の終わりに友人に譲って卒業する女性の先輩から宮付きの木製ベッドをもらった。そんな風に、融通しあってなんとかしのいだものだ。ビールケースを並べて上に厚いベニヤを敷き、ベッドにしている者もいれば、押し入れに寝ている者もいた。私は子供の頃いたずらをすると、祖母に真っ暗な土蔵に閉じ込められたので、『うる星やつら』の面堂終太郎と同じく暗所&閉所恐怖症である。よって押し入れに寝た事はない。 猫とか幼児は押し入れの段ボール箱に入って遊ぶのが好きだが、私にはできない。引き蘢れないのだ。子供の頃、引き蘢りたい時は、むしろ山に登って草の上に寝て北アルプスを眺めたものだ。
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 食料事情で最も現在と異なるのは、コンビニがなかったということ。チェーン店が少なく食堂全盛期。スーパーも少なくデリカがなかった。個人商店全盛期で、総菜屋もたくさんあり商店街は活気があった。街にはメガフォンタイプのスピーカーがあちこちにあって、甲高い声のお姉さんが始終宣伝をしたり、歌謡曲を流していた。宅配便がなかったので田舎から新鮮な野菜を頻繁に送ってもらうことができなかった。国鉄のチッキというのがあって利用したが、国分寺の駅まで取りに行かなければならず、結構めんどうだった。20キロの荷物をアパートまで持って帰るのは難儀だった。国分寺や国立周辺は農家も多かったが、今の様に産地直売や無人販売というのはほとんどなかった。ただ、国分寺にも国立にも個人商店の八百屋や乾物屋がたくさんあった。そこのおばちゃんと仲良くなるのが私のささやかな処世術であった。おまけをくれるのだ。
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 忘れがちだが、今の様にATMがなく簡単に仕送りを引き出すことができなかった。現金書留がまだ生きていた頃で、「金送れ」の葉書が全国を飛び交っていたはずだ。私は筆まめだったので、家にも友人にも長々と手紙を書いたが、筆無精の友人の中には、親から○を書いた葉書を何枚も渡されている者がいたそうだ (話は聞いたが見た事はない)。送金が届いて元気な時はその葉書を出す。今は時々息子達とスカイプ(テレビ電話)で話すけれど、そんなことは夢のまた夢だった。友人の女の子が仕送りが遅れて、弟と二人でキャベツひとつで一週間過ごしたと聞いたこともあった。夏休みで友人達が皆帰郷してしまい、誰にも借りることができなかったらしい。
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 野生動物ならずとも、食べるということは生きる術の基本だ。限られた仕送りとバイトの金で、どうやって食いつなぐかは、非常に重要なことであった。外食だけでは金欠になるので、誰しも自炊をしたものだ。基本は野菜炒めである。野菜と米を食べ、味噌汁を飲んでいれば生きられるという暗黙の了解事項があった。金に余裕があれば豚肉が入る。後は鯖、秋刀魚など大衆魚の焼き魚。週一で必ずカレー。これが定番だった。私は子供の頃から奇麗好きで、部屋も台所もきちんと整理整頓されていたが、友人の中には流しに鍋や皿が山積みになり異臭を放つ者も少なくはなかった。『男おいどん』は、71年から73年まで連載された松本零士の漫画だが、本当に押し入れにキノコが生えた者がいた。サルマタケかどうかは分からない。しかし、私は野菜好きだったため、主人公・大山昇太の好物「ラーメンライス」の炭水化物攻撃には馴染めなかった。ラーメン炒飯でラーチャンというのもあったが……。
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 野菜炒めと肉野菜炒め、味噌炒め(油味噌)、カレーが、上京当初の私の三大得意料理であった。後にカレーは市販のルーから、スパイスを調合したオリジナルカレーに進化する。味噌炒めは、信州の定番料理だ。夏はナスとピーマン、タマネギで炒め、金があると豚肉が入る。信州では油味噌という。冬は人参、大根、長ネギと石川県のスギヨのビタミン竹輪になる。味付けは信州麹味噌に酒、味醂、出汁粉だが、牡蠣油を入れるとさらに旨い。ビタミン竹輪は、信州人のソウルフードだ。これなくして信州の郷土料理は語れない。これに、中華食堂で外食を重ねるうちに、中華丼や炒飯が見様見真似で加わる。中華丼はあんかけで、 寒い信州の冬にはぴったり。当時の国分寺の冬は寒かったので、これもぴったり。野菜もたっぷり摂れるしボリュームもある。野菜炒めを上京して初めて食べた のは、高校の時の夏期講習で下北沢に間借りしていた時に通った中華食堂「天好」でだったと思う。街の食堂のおやじは料理の先生だった。食いしん坊の私は、 カウンターに座りながら親爺が何をどのタイミングで入れるか観察していた。化学調味料は当時から苦手だったので、大量に入れる店は敬遠した。
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 金がないので、普段は肉は小間切れ、魚はアラや青魚を専門に買った。浪人時代、共同生活をしていた友人と行きつけの魚屋へ行くと、親爺が長髪の私に「奥さん今日はなんにしますか?」と聞いた。友人が笑って「アラしか買わないって知ってるくせに!」と突っ込んだ。口の悪い親爺は、そうは言いながらもいいアラを取り置いてくれていたものだ。天然高級魚のアラで作った鍋は旨かった。個人商店のおじさんやおばさんは学生の強い見方だった。国立時代の近所の酒屋のおばさんは、ノベルティのグラスをよくくれた。試供品のビールやミニチュア瓶、おつまみもよくもらった。息子が小さい頃、国立へ買い物のついでに行ってみたら、富士山が見える坂の上のその店は既に無くなっていた。
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 味の調合というのは、絵の具の調合と似ているところがある。同様に音の調合というのも似ている。そういうわけで、美術関係や音楽関係にはグルメや料理好きが多い。絵の具も組み合わせや混ぜ合わせで輝きを増す。混色を誤るとヴァルール(色価)が狂って土留め色になる。ただし、隣に来る色との組み合わせで突然輝きだすこともある。味でいえば渋みとか苦みだろう。雑味とは違う。音でいえば不協和音がそれに当たるかもしれない。ジャズはまさにその極みだ。壮大なシンフォニーも、ばらせばひとつひとつの音でしかない。相乗効果の凄さを体験すると、完成した料理は官能の極みにある。その面白さと快感を味わうと料理が好きになる。しかし、料理の神様はいつも微笑んでいるわけではない。時には大失敗をして、鍋いっぱい丸ごと捨てたこともある。「鶏のオレンジジュース煮」 というのをクラスの女の子二人を呼んで振る舞って好評だった記憶があるのだが、どこで覚えたのだろう。春樹さんや陽子さんから教わったのだろうか。
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 以前にも書いたが、「ピーター・キャット」では、通常のメニュー以外に、陽子さんが手作りの料理を出していた。特に好きだったのは「手羽元と長ネギの煮込み」で、作り方やコツを教わって私の定番料理のひとつになった。料理は面白いが後片付けがねという人がいるが、これも「ピーター・キャット」や、後に友人とその叔父に頼まれて一時期参宮橋でやったカフェ・レストランの経験から、料理をしながら片付けるというのを身につけた。今でも料理を終えると、ほとんどが片付いている。その後、編集アートディレクターとして、料理の記事や料理の本を数多く手がけたことからレシピの研究にも手をつけた。その集大成が『MORI MORI RECIPE・男の料理』だ。所謂普通の料理があまり載っていない。「信州の新郷土料理、世界の郷土料理やアウトドア料理を、時に大胆に時に繊細に「男の料理」にアレンジ」がキャッチフレーズ。レシピ集のサイトは星の数程あるけれど、アマゾン料理の「ソッパ」と中華の「梅干菜扣肉(メイガンツァイコウロウ)」のレシピを載せているのは、私ぐらいのものだろうと思う。全てオリジナルレシピか、オリジナリティを加えてある。料理好きな人は覗いてみて欲しい。
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 当時、地方には現在の様に美術系の大学や学部はほとんどなかったので、進学しようとすると上京するしかなかった。そのため友人には全国各地からの出身者がいた。それは非常に楽しい事だった。北海道の友人は、金がないとご飯にバターをのせて醤油をたらして食べるのが定番だったし、長崎出身の友人はなんといっても明太子飯だった。関西の友人は、東京の真っ黒なうどんの汁に辟易していた。なので、村上夫妻も御用達の関西うどんが食べられる「まねき」は、彼の聖地だった。奈良の三輪素麺製造の息子が祖父が作った素麺を持って来て素麺パーティーを開いたことがあったが、これは絶品だった。ジンギスカンが、北海道 のものと信州のものが、微妙に味付けや焼き方が違うということも知った。北海道のものは野菜の上に乗せて蒸し焼きにする感じだが、信州のは信州リンゴのタレに漬込んだものを鉄板で直接焼く。信州ではBBQにジンギスカンは欠かせない。皆で誰かのアパートに集まって宴会をよくやったが、地方色が出て面白かった。信州というのは、ちょうど関東と関西の中間にあり、両方の食の文化が混在していて面白い。信州の郷土料理の「ニラのおやき」は簡単なので、お好み焼きや焼きそば同様、よく作った気がする。高級品の地蜂の子の瓶詰めをお土産に持って行ったことがあるが、誰も食べてくれなかった。
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 本物の野菜とハリボテの野菜って分かるだろうか。70年代当時の野菜は、大型スーパー全盛の現在の様にクローンの様な均一なF1種(自殺種・種が採種で きない。よって毎年買わなければならない)の野菜が奇麗に並んでいる状態ではなかった。八百屋には不揃いの野菜達が並んでいた。まだまだ伝統野菜や固定種が幅を利かせていた時代だ。F1種は、農薬と化学肥料が必須。固定種の野菜は不揃いで数もならない。味も栄養も濃いから灰汁も出る。スーパーで売られている野菜はほとんどがF1種。味も薄いが栄養も1/2か1/3。カスを食べているのと同じ。次に来るのはGMO遺伝子組み換え作物だ。F1種は揃うし収穫量も格段に多い。でも奇麗に揃った畑を見て、クローンが並んでいるみたいで気持ち悪いと思える人はどれほどいるだろうか。人間だって皆顔が同じだったら気 持ちが悪い。不揃いが当たり前。無農薬・無化学肥料にこだわっているのにF1種を育てている人が結構いる。一代交配と書いてあるものは全てF1種。F1種 といえば江戸時代に作られたソメイヨシノがその可能性が高い。生育が早く寿命が短い。同じ場所のものは一斉に咲く。ヤマザクラはバラバラに咲く。違うのは、その作り方。昔は放射線を浴びせることなどしなかった。そうやって作られたF1種の安全性は証明されていない。GMO遺伝子組み換え作物の危険性は既に証明されていて、各国で禁止されている。しかし、日本はその遺伝子組み換えのトウモロコシや大豆を最も多く輸入し食べている。
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 畑に誘因作物で、花を沢山植えている。バジルも咲いたし、豆の花も咲いたが、ミツバチ、ハナアブを見ない。二年前はもっと酷くて近隣の畑の豆類が全滅した。放射能も考えられるが、ネオニコチノイド系農薬の空中散布が最も考えられる。グリホサート系除草剤や神経毒性農薬フィプロニルも危険。沈黙の破滅現象は既に始まっている。ミツバチが全滅したら人類は4年で滅亡するとアインシュタインが言ったとか。蜂群崩壊症候群(CCD)は、世界中で問題になってい る。TPPに入ると、モンサント社ベトナム戦争で使われた枯れ葉剤とほぼ同じ除草剤ラウンドアップ遺伝子組み換え作物とセットで使用が義務づけられか ねない。自家採種が違法になり、伝統野菜、固定種が消える。それは郷土料理の消滅、日本の食文化の崩壊を意味する。そして、ミツバチ、ハナアブが死滅し、 田畑は不毛の地となり、食料危機が間違いなくやってくるだろう。
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近頃のおかしな野菜たち』: F1種については、野口種苗の野口勲氏の『タネが危ない』がおすすめ
F1種と雄性不稔』 :雄性不稔について勉強を!
ネオニコチノイド系農薬が生態系を壊す。ミツバチを殺し人間をも・・(妻女山里山通信) 』:日本の残留農薬基準は、なんと欧州の500倍! 
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 上の写真は、大学1、2年の時に住んでいた国分寺のアパート。2階の真ん中。大家さんに内緒で猫を飼っていて、蚤大発生という失態をやらかした。優しい大家さんだったので追い出されなかったが……。詳細は、『「ピーター・キャット」のマッチのチェシャ猫と、猫と猫と猫の物語』で。
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今日はここまで。次回は夏に似合うジャズアルバム。「ピーター・キャット」の夏。